寫奏という筆

”寫奏”という筆がかつて造られていた。........木村陽山氏の「筆」によると、文化大革命の時代、それまでの”寫奏”が封建時代を想起させるという理由で、すべて”寫卷”に改められたという。寫奏”あるいは”寫卷”という筆の呼称の変遷についてはすでに何度か述べているかもしれないが、結論からすれば文化大革命以前にも”寫奏”と”寫卷”が同じく存在し、文革勃発の影響により”寫奏”という呼称のみが使われなくなった、と考えられる。
文革に先立って”合資合営”の時代があり、李鼎和や老文元といった上海の筆店は上海筆店に統合され、個人名を冠したブランドの筆が造られなくなった。さらに上海工芸という工芸品貿易をもっぱらとする、国営商社の名称に統一されている。すなわち李鼎和や老文元といった、筆店の名称が刻まれた”寫卷”が多数存在するということは、文革の嵐が吹き荒れる以前にも”寫卷”という筆が存在していたことを意味している。文革以前はすべて”寫奏”であった、ということではないだろう。
ところで文革前にもたしかに”寫奏”という筆が存在したに違いないのであるが、”寫卷”にくらべてかなり少数にとどまっていたと考えられる。自身、”寫奏”に縁がないのか、手ごろな値段で見つかることがない。以下の李鼎和寫奏、および双料寫奏の画像は知人からの借用である。
李鼎和寫奏
”寫奏”に”寫奏”のみの筆銘と”双料寫奏”があるのは、”寫卷”にやはり”双料寫卷”があるのと同様である。”寫奏”も”寫卷”も、兎毫を芯に、羊毫を副毛に巻いた筆である。”寫卷”のみを冠した筆は、毛先が黄色い、いわゆる兎毫の黄尖のみが使われている。たいして”双料寫卷”は、筆の芯が黒い、いわゆる花毫が使用されている。この区別は、”寫奏”と”寫卷”と同じである。すなわち”寫卷”と”寫奏”で筆の構造に差異は無く、基本的に呼称が異なる同じ筆、という理解で良いかと考えている。
李鼎和寫奏
李鼎和寫奏
さて、”寫奏”の”奏”は日本でいえば奏上文のことであるが、清朝ではこれをとくに”奏折”といった。あるいは”折子”、”奏帖”、ないし”折奏”ともいうが、”折子”はすなわち折冊子のことで、官吏が皇帝にお伺いを立てる際に、浄書した書類を決まった形式に製本してささげたことによる。
この”奏折”によって、すくなくとも制度上は、貴臣権門に拠らずとも、末端の官吏や場合によっては寺院の僧侶すらも、”奏折”によって皇帝に直接訴えることが出来たという。いうなれば規模の壮大な”目安箱”、というところであろうか。
清朝の歴代皇帝はこれに朱筆でもって意見を書き入れ(”朱批”)、政策判断の材料とした(この際に皇帝が用いた筆が純紫頴筆であるといわれる)。むろん、皇帝ひとりではすべての奏折の処理にとても追いつかないから、大后、あるいは朝廷の重臣の代理が許された。しかし雍正帝などは、膨大な奏折をすべて自分で”朱批”したというから、相当なハードワークであっただろう。
また奏折は陳情の他、皇帝への謝恩に際してもささげられている。

話を筆に戻せば、”奏折”を寫(か)く、ための筆が”寫奏”という事になるのだろう。兎毫を羊毫で巻いた筆に”寫奏”の呼称があったという事実は、”奏折”が実際にこのような構造の筆で書かれていた可能性を示唆している。もちろん皇帝相手に、臣民が筆記書体である行書や草書で書かれた文章をたてまつることなどゆるされない。翰林体に代表されるような、かならず端正な楷書体で書かれていなければならなかった。寫奏はそのような整った楷書体を書くのに適している、ということでもあるだろう。
老文元寫卷
しかし”奏折”という制度は、清朝の終焉とともに幕を閉じているから、文革に拠らずとも民国時代の早期に”寫奏”という筆が造られなくなっても不思議ではない。しかし筆といい、墨といい、伝統的な呼称は意味を離れてしばらくは継続するものである。日本でいえば”奉書紙”という呼び方が残っているようなものであろうか。
また、1932年に満州国が建国されたが、すくなくとも制度上は満州国皇帝溥儀の聖旨、ないしは奏折という制度が継承されている。この国家に向けて”寫奏”が造られ続けた、というのは考えすぎであろうか。
ともあれ”寫奏”も文化大革命の早期に姿を消した、というわけである。代わってもっぱら寫卷”、という呼称が使われるようになったということであるが、”経巻”に寫(か)く、という意味からすれば、”寫卷”が清朝や中華民国時代にすでに存在したとしても不思議はない。”寫奏”と”寫卷”の両者が併存したことについては、”寫奏”の”奏”と”寫卷”の”巻”の字形が似通っていることも、ひとつの理由になるのではないだろうか。以下は文革前の李鼎和寫卷(下)と、80年代に李鼎和の呼称が復活した後の寫卷(上)。
李鼎和寫卷
今回は久しぶりに兎毫の黄尖を用いた寫卷形式の筆をリリースする次第であるが、名称をあえて”寫奏”にしている。現代からすれば奏折を書くのも経巻を書くのも、ほぼ過去の行為である。であれば、かの文化大革命によって喪われた筆銘を、ここに復活させるのも一興であろうと考えた。
文革の一時期に”寫奏”という筆銘が廃止されるに至った明確な過程は知るすべもないが、高位高官から直接のお達しがあったわけではなく、察するに筆店が時代の風潮を忖度してのことではないだろうか。しかし一応断っておかなければならないが、私がこの、筆を探す人が検索することもほとんどないであろう、”寫奏”という呼称を復活させようと考えたのは、ただの懐古趣味である。

頭が痛いのは価格であるが、こうした筆に使われる兎毫は、もう絶望的に高騰してしまっている。資源の枯渇もそうであるが、材料を採る人が、少なくなってしまっているのだという。
安価な寫卷などはナイロンで出来た毛を芯に使っているのだが、本物の兎毫を使うとなると、いまやそのコストはなかなか厳しいものがある。一昔前はこうした実用の兼毫筆は安価でまとめ買いが可能であったが、現在では浄書用に一本一本、大事に使うよりないのかもしれない。
確かに一昔前、寫卷がとても安かった頃がある。90年代から2000年の初頭にかけての時期であるが、その当時の日本と大陸の経済ギャップと為替レートの関係で、むしろその頃が安すぎた、ともいえるだろう。清朝期においても、”奏折”という特別な筆書のための筆が、もとよりありふれた筆であったはずがなく、兎毫の希少性から言っても、安価に使い捨てに出来た筆ではなかったのだろう。同時代にあまたに存在した多種多様の実用の小筆があまり残っていないにも関わらず、寫卷や寫奏といった筆が使用済みも含めて残っている例が比較的多くみられるのも、おろそかにできる筆ではなかった可能性を示唆している。
老文元寫卷
兎毫は一般に毛が堅いので切れやすい。粗悪な硯でもって筆先を整えていると、すぐに芯が使えなくなってしまう。穂先を整えるには小さな陶製の絵皿などが良いだろう。また筆を長持ちさせるためには、墨汁の使用は絶対的にお勧めできない。もとより、小楷を書く筆なのであるから、墨液もそれほど必要ではないはずである。ぜひとも、固形の墨を磨ってお使いいただければと思う。
落款印01


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