蘇軾 「題過所畫枯木竹石三首」

「題過所畫枯木竹石三首」..........この三連作の詩が書かれたのは、北宋は哲宗の時代、元符三年(1100年)といわれる。流刑先の海南島滞在時である。
この年の2月に哲宗は崩御し、徽宗が即位する。蘇軾は恩赦をうけて都へ上る途中、徐州で病み、翌年にこの世を去る。すなわちこの詩は蘇軾晩年の作である。
「題過所畫」とあり、”過”は蘇軾の流刑地の海南島に同行した、蘇軾の末の息子の蘇過(1072-1123年)。すなわちこの詩は、蘇過の画いた枯木と竹石の図に、蘇軾が題詩をつけた格好をとっており、蘇過の画に対する蘇軾の講評を含んでいる。
蘇過は、英州(広西)、恵州(広東)、そして海南と、蘇軾の長い流罪に同伴しており、当時としては生きて帰れないといわれた蛮地において生活を共にしている。その余慶であろう、蘇軾の薫陶をもっとも受け、詩文書画に長けたと言われる人物である。

以下にその大意を示す。

(一)

老可能為竹寫真
小坡今與石傳神
山僧自覺菩提長
心境都將付臥輪

老可(ろうか)能く竹を寫(うつし)て真(しん)を為す。
小坡(しょう)は今、石(いし)與(と)傳神(でんしん)す。
山僧(さんそう)は自から覺(おぼ)ゆ菩提(ぼだい)長(なが)しと
心境(しんきょう)都(すべて)將(ひきい)て臥輪(がりん)に付せり

(大意)

文同は、竹画がうまく、真に迫っていた。
この東坡の息子(蘇過)は、石を画いて、よく自分の精神をあわらわしている。
山寺の僧侶は、”菩提”にあることの長さを自らさとるものである。
いまの心の境地をすべてみな、(この石のように、何事にも動かされないという)臥輪禅師にゆだねてしまうのだ。

詩文中にある「老可」とは蘇軾の良き友人であった文同こと文与可。当代の竹画の名手であり、蘇軾も文同に竹画を習ったといわれる。文同はこの詩が書かれた時から、さかのぼること20年も昔に亡くなっている。また詩中の「小坡」は、蘇過。今、蘇過が竹石を画くのを見て、亡友に想いを寄せたのである。
また”臥輪”とあるのは、禅僧の臥輪禅師のことで、その「六祖壇經」におけるその偈に『臥輪有伎倆、能斷百思想。對境心不起、菩提日日長。』とあることを踏まえる。
臥輪禅師の経歴はあまりわかっていないが、「六祖壇經」が中国禅宗の第六祖・慧能(638-713年)の説法集であり、その臥輪の偈にたいして「慧能沒伎倆、不斷百思想。對境心數起、菩提作麼長」とかえしているから、慧能と同時代以前の人物なのだろう。
すなわち「臥輪は修行に熟練しているから、さまざまな想念を断つことが出来、環境の変化たいしても心がかわることがない。だから菩提(さとりに入っている時間が)が日に日に長くなっているのだ。」という偈にたしいて慧能は「慧能は修行が未熟であるから、さまざまな想いを断つことが出来ない。環境がかわると心もさまざまに変わってしまう。だから菩提が長くなってゆくのだ。」と反論している。
蘇過の画いた”石”を、動かない、動かされないものの象徴として、臥輪の偈に通じる、としたのである。半面、慧能の域ではない、ということも暗に示している。蘇軾が禅に深く心を寄せていたことがうかがえる内容である。

(二)

散木支离得自全
交柯蚴蟉欲相缠
不须更说能鸣雁
要以空中得尽年

散木(しんぼく)は支離(しり)として自(おのず)ら全(まった)きを得ん
交柯(こうか)蚴蟉(ゆうりゅう)として相(あ)い纏(まとわ)んと欲す
鳴雁(めいがん)を能くすとは、更(さら)に説(い)うべからず
以て要す、空中(くうちゅう)盡年(しんねん)に得んと

(大意)

用だたないような雑木は、まばらに生えているからこそ、自然と天壽をまっとうするのである。
交錯した木々の枝は、蛇や龍がのたうつようにうねりながら、たがいにからみあっている。
蘇過がここに”鳴雁”をもよく画くことが出来るとは、いうものではないね。
空中を飛翔する雁の姿をうまく画こうとおもえば、一生かかるのだから。

散木は、花も実もつけず、またまがりくねって伐採しても材木にもならないような雑木のことである。また湿気を多く含むから、薪としても優秀とはいえない。実際、南方の山中にはこの種の樹木が多いのである。蘇過がここに画いた”枯木”は、このように枝が多く曲がりくねったまま枯れた雑木なのだろう。それが”交柯”、”蚴蟉(ゆうりゅう)”という表現に現れている。
”支離”はまばらなこと。役に立たない木でも、利用価値のある土地に密生していれば、開拓されるなどして伐採されてしまうかもしれない。どうでもいいような場所にまばらにはえているからこそ、見逃されて天寿を全うし得るのである、ということである。つまりは朝廷(の政争の場)のような、重要な場所からから離れているから、このような役立たずたちでも生きながらえるものなのだという、蘇軾父子の姿への自嘲を画に読み取っているのである。
また”鳴雁(めいがん)”は、鳴いて飛んで行く雁である。蘇過はこの絵に雁を画き込んだのであろうか?画き込んだ雁の絵を見て「あまりうまくないが、鳴雁をうまくえがくには、一生かかるからね。」という意味にもとれるが、「本来はここに鳴雁がほしいけれど、蘇過は鳴雁はまだうまくかけないから、あえて画かないのだね。」ともとれる。
いずれにせよ”鳴雁”ないし”雁”に象徴されるのは、北方への回帰である。古来、南方に流刑に遭った士大夫達は、南から北へ飛び帰り去ってゆく雁の姿に、北の朝廷への帰任や、望郷の念を仮託したのである。
すなわち蘇過が”鳴雁”をうまくかけない、うまく画くには一生かかる、というのは、蘇軾親子は一生この海南島から戻ることが出来ないのではないか、という絶望感を暗示している。

(三)

澀勒(そうろく)を倦看(けんかん)すれば蠻村(ばんそん)暗し
亂棘(らんし)孤藤(ことう)瘴根(しょうこん)を束ぬ
惟だ長身(ちょうしん)六君子(りくくんし)有り
依依(いい)として猶(な)ほ淇園(きえん)のごとくを得ん

(大意)

南方の竹を座ってながめていると、文明の及ばないこの小さな村も暮れてきた。
とげが乱雑にはえた藤づるが、気根を束ねて熱帯の樹木にまきついている。
ここにはただ、まっすぐに生えた六本の竹があるばかりだ。
風のまにまにゆれながら、はるか北方の淇園をおもわせるようじゃないか。

”澀勒(そうろく)”は竹の一種であるが、現代のどんな竹を指すかは未詳である。しかし”澀”は渋い、の意。”勒”はくつわ、おとがい、の意である。清の屈大均「廣東新語・草語」には、『有竻竹,一名澀勒。勒,刺也。 廣 人以刺為勒,故又曰勒竹,長芒密距,枝皆五出如雞足,可蔽村砦』とある。広東人が馬の”くつわ”をさすのに使う事からこの名があるという。むろん、蘇軾の北宋当時の同じ竹の名とはかぎらないが、どことなく枝多い、細身の竹を想起させる。ともかく孟宗竹などと違った、南方特有の竹なのであろう。それは続く”蛮村”と、未開の小さな村、の語からうかがえる。
瘴根は、現代の広東省の街路樹にみられる、ガジュマルのような熱帯の樹木から無数にぶら下がった気根のこと。それがトゲの生えた藤(フジ)のようなツル性の植物に巻き付かれた様子は、今の深圳や珠海といった、広東省の都会でもよく目にする光景である。しかし蘇軾の北宋当時としては、ほとんどジャングルの中に住んでいるような描写である。
次の”長身六君子”であるが、”六君子”は、ならび称される君子の一群を指し、例はさまざまであるが、古くは”禹、湯、文、武、成王、周公”を指す。直接的には眼前の竹のことを指しているが、この”六君子”が指すところの竹は、一句目の”澀勒”の事ではなく、蘇過が画中に画いた竹のことであろう。蛮村の”澀勒”であれば、ほんの数本、ということはない。”惟有”と強調していることからも、それはうかがえる。むろん、ここでは未開の村の蘇軾と蘇過等を暗示しており、未開人(やや差別的であるが)であるところの”澀勒”に対して、文明の地から来たのは自分たち”六君子”しかいない、という意味である。
蘇軾の弟、蘇轍はこのとき海南とは海を挟んで対岸の、広東の循州に流刑に遭っていた。蘇轍は長身で知られていたから、この”六君子”は同じく蛮地にある蘇轍をもふくむのであろう。さらには蘇軾の長子、蘇邁もこのとき広東の恵州に流されているから、蘇軾・蘇轍・蘇邁に蘇過(ほかにも同時期に左遷されていた黄庭堅などもふくむかもしれないが)で、ほぼ”六君子”として差し支えないわけである。
(ちなみに次男の蘇迨だけは、蘇軾・蘇轍等とは派閥的に距離をおいていたせいか、流刑はまぬがれ、このとき江蘇の宜興にいた。後に蘇軾が赦された際にはは、広東の恵州まで出向き、これを迎えている。)
それら”六君子”が「依依」として、つまりはつかずはなれず風に揺れている様に画かれている、ということであろう。その竹の姿がはるか北方、河南省は淇県に古来から続く竹林園である”淇園”をおもわせる、というのである。当時北宋の都は河南省開封である。”つかず離れず”は、蘇軾父子や蘇轍、その家族等の姿であり、いつか開封近くの淇園を揃ってそぞろ歩いたころを懐旧している、とも読める。
翌年、赦されて開封へ向かう途中、徐州で病み、そのままこの世を去ることになる蘇軾である。当時としては老境の60歳を越え、海南島の滞在中にすでに健康を害していたことが、この時期のほかの詩文中からもうかがえる。
すなわち第三首でも、望郷の念や都に戻りたいという想いが、第二首よりいっそう、切切と詠まれているのである。
............蛇足であるが、先日の香港クリスティーズのオークションで落札された蘇軾?の「枯木怪石図」が、真作とは到底考えられないという事は、前に述べた。その理由を詳述するのは別の機会に譲りたいが、「枯木怪石図」という画題から想起される蘇軾の詩として、「題過所畫枯木竹石三首」をここに挙げてみた次第。
この詩の内容では蘇過が枯木や竹石を画いているのであるが、その画は伝わらない。むろん、蘇軾も竹石や怪石、枯木を画くこともあったであろうし、それはただ一度とは限らない。複数の蘇軾の竹石や怪石の画があったのであろう。しかしその画のうち一点が残っていて、かの「枯木怪石図」がそれであるというのは、これはまったく別問題なのである。
落款印01


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