読 蘇軾「范増論」


蘇軾に、范増を論じた「范増論」がある。以前に張良を論じた「留侯論」を紹介したが、この「范増論」も蘇軾の興味深い視点がうかがえる史論である。”蘇子曰く”と、書き出しに自己問答の体裁をとっている。文中の”義帝”は、范増が項羽の叔父の項梁に勧めて擁立した、楚の懐王の孫(一説に曾孫)の心(しん)であるが、当初は懐王を名乗らせた。秦で幽閉の後に死んだ懐王の再来としたのである。鴻門の会の後に項羽が論功行賞を行う際、その名義を立てるにあたって”義帝”に尊称を引き上げた。しかし蘇軾の文中ではすべて義帝で通している。

以下に大意を示したい。

(一)

漢用陳平計、間疏楚君臣、項羽疑範瘍亟鼠私、稍奪其權。畭臈樂、”天下事大定矣、君王自為之、願賜骸骨、歸卒伍。”未至彭城、疽發背、死。

漢は陳平(ちんぺい)の計を用い、楚の君臣(くんしん)を間疏(かんそ)す。項羽、范瓠覆呂鵑召Α砲魎繊覆ん)と私(わたくし)ありと疑い、稍(しばら)く其の権(けん)を奪う。瓠覆召Α紡隋覆お)いに怒りて曰く”天下の事は大いに定まるかな、君王(くんおう)自(みず)ら之(こ)を為(な)せ、願くば骸骨を賜わり、卒伍(そつご)に帰せん。”未だ彭城(ほうじょう)に至らずに、背に疽(そ)を発し、死す。

漢(の高祖)は(謀臣)陳平の計(略)を用い、楚の君臣の離間をはかった。項羽は范増が漢と内通していると疑い、しばらくその(軍における)権限を剥奪した。范増は(疑われたことを)非常に怒って言った「天下取りの計画はおおよそ定まりました。我が君はご自分でそれを実行してください。わたしくは骸骨を賜(たまわ)り(謀臣を引退して)、(彭城を守る)一兵卒(あるいは庶民)に落としていただきたい。」そして彭城にたどり着く前に、背中に壊疽を起こして死んだ。

(二)

蘇子曰:”畴卦遏∩奄磧I垉遏羽必殺瓠獨恨其不早爾。”然則當以何事去。痃葦殺沛公、羽不聽、終以此失天下、當於是去耶。曰、”否。畴畦濟沛公、人臣之分也。羽之不殺、猶有君人之度也。痙為以此去哉。『易』曰、‘知幾其神乎’『詩』曰、‘如彼雨雪、先集為霰。’畴卦遏≡脹羽殺卿子冠軍時也。”

蘇子(そし)曰く”瓩竜遒襦∩韻かな。去らざれば、羽は必ず瓩鮖Δ后獨り其の不早(はやからず)を恨むのみ爾。”然則(しからば)當(まさ)に何事を以て去らん。
瓩榔に沛公を殺すを勧める、羽は聽かず、終に此を以て天下を失う、當(まさ)に是に於いて去らん耶(や)。曰く”否。瓩塁鏝を殺すを欲するは、人臣の分なり。羽の殺さざるは、猶ほ君人の度(ど)有るなり。瓩麟為(なんすれぞ)以此去哉。『易』に曰く‘知幾其神乎’『詩』に曰く‘彼の雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。’瓩竜遒襪蓮≡弔鳳の卿子冠軍を殺す時に於いてなり。”

(わたくし)蘇軾は言う「范増が去ったのは(范増自身にとって)良いことである。去らなければ必ず項羽は范増を殺したであろう。ただ(范増が項羽の下を去るのことが)遅かったことが残念である。」と。そうであるなら、では(范増は)どのような事があったときに、(項羽の下を)去るべきであったのか。
范増は(鴻門の会において)項羽に沛公(劉邦)を殺すことを勧めたが、項羽は聞き入れなかった。(劉邦を生かしておいたという)この出来事をもって最終的に天下を失うにいたるのであるから、まさにこの時(失望して項羽の下を)去るべきであったのだろうか?(わたくし蘇軾が心中おもうに)「否(いな)。范増が沛公を殺したがったのは、(このときは項羽に対する)臣下の本分をつくしたからである。項羽が(沛公=高祖を)殺さなかったのは、まだ君主としての度量があったのである。(君臣の本分がおのおの機能しているのであるから)范増はどうしてこのタイミングで去らなければならないのだろうか。」
易経にいう、”幾(き)を知るは其(そ)れ神や”(わずかな予兆を見て、その先の出来事を予見する)、あるいは詩経にいう「雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。」(物事は、雨や雪のように、まずあつまってから拡散するのである。)
(本来)范増が去るべき(時)は、項羽が卿子冠軍(宋義)を殺した時なのであった。


 
(三)

陳涉之得民也、以項燕。項氏之興也、以立楚懷王孫心。而諸侯之叛之也、以弒義帝。且義帝之立、甍挧甜艪磧5祖詛径庫粥豈獨為楚之盛衰、亦畴圭裹估渦卻〔蕁Lね義帝亡而痼彷週彗玄毀蕁

陳涉は項燕を以て民を得る。項氏の興(おこ)るは、楚の懷王の孫の心を立たせるを以てなり。而(しこう)して諸侯の叛(そむ)くは、義帝を弑(ころす)を以てなり。且(か)つ義帝の立つは、瓩遼邸覆呂りごと)を主に為す。義帝の存亡、豈(あ)に獨り楚の盛衰(せいすい)を為さん、亦た瓩硫卻,鯑韻犬紊Δ垢襪箸海蹐覆蝓5祖襪遼瓦咾凸い煎瓩類廚蠻修久しく存(ぞんす)る者にあらざるなり。

(そもそも)陳涉(ちんしょう)が(楚の)民心を得たのは、(かつて秦軍に抗戦して敗死した、楚の名将)項燕(こうえん)を名乗ったからなのだ。項氏が(反秦勢力の筆頭に)勃興したのは、(范増のすすめを項梁が採用して)楚の懐王の孫にあたる心(しん)を(楚の懐王、のちに義帝として)擁立したからである。しかしながら諸侯が(項羽に)反逆したのは、(項梁が擁立した)義帝を弑逆したからなのである。
(そもそも)義帝を擁立したのは、范増がその計画の中心にあった。義帝の存亡は、ただ(項羽の)楚の盛衰を決定しただけではなく、また范増の禍福の行く末と同じ意味をもっていたのである。義帝が殺されたというのに、(義帝を擁立した)范増が、長いこと無事でいられる道理など、絶対にないのである。

(四)

羽之殺卿子冠軍也、是弒義帝之兆也。其弒義帝、則疑畴桂槎蕁豈必待陳平哉。物必先腐也、而後蟲生之。人必先疑也、而後讒入之。陳平雖智、安能間無疑之主哉。

羽の卿子冠軍を殺すや、是れ義帝を殺す兆(きざ)しなり。其の義帝を殺す、則ち瓩遼棔覆發函砲魑燭μ蕁豈(あ)に必しも陳平を待たんや哉。物は必ず先ず腐る也、而後に之に蟲を生ずる。人は必ず先まず疑い也、而後讒入之。陳平、智と雖(いえど)も、安んぞ能く無疑之主を間(さか)んかな。

項羽が(懐王が総大将に任命した宋義こと)卿子冠軍を殺したのは、これは義帝を弑逆する前兆であった。項羽が義帝を殺すのは、范増の本分が(義帝と項羽の)どちらに向いているかを疑ったからでもあった。どうして必ずしも陳平(の離間工作の実行を)待つ必要があったであろうか。物は必ず、まず腐ってから、しかるのちに蟲がわくのである。(同じように)人はかならずまず(その人物を)疑い、しかるのちに(その人物への他者の)讒言(ざんげん)を信じるのである。陳平が知恵者であるといっても、どうして(讒言を言わせて)信頼関係のかたい君臣(の間)をさくことができるであろうか(それ以前から、項羽が范増に多かれ少なかれ、疑惑を抱いていたのである)

(五)

吾嘗論義帝、天下之賢主也。獨遣沛公入關、而不遣項羽。識卿子冠軍於稠人之中、而擢為上將、不賢而能如是乎。羽既矯殺卿子冠軍、義帝必不能堪、非羽弒帝、則帝殺羽、不待智者而後知也。

吾(わ)れ嘗つて義帝を論じるに、天下の賢主(けんしゅ)なり。獨り沛公を遣り關に入らしめ、而して項羽を遣らず。卿子冠軍を稠人(ちゅうじん)の中に識り、擢(あ)げて上將と為す、賢ならざれば而能く如是乎。羽の既に矯(きょう)して卿子冠軍を殺すは、義帝は必ず堪うる能わず、羽の帝を弑(ころ)すに非(あら)ざれば、則ち帝は羽を殺す、智者を待たずして後に知らんや。

私はかつて義帝について評論してみるに、天下(に恥じないだけ)の賢明な君主といえると(考えた)。(なぜなら)ただ(穏健な)沛公のみに(秦の首都の咸陽のある)函谷関を越えさせ、(危険な)項羽を(その方面に)派遣しなかった(項羽を差し置いて、劉邦に功績を立てさせ、野心家の項羽を牽制しようとしたのである。)。卿子冠軍(こと宋義)を多くの人の中から(能力ありと)抜粋し、抗秦諸軍の総大将に任命した。これは賢明でなければどうしてなしえたことだろうか。項羽が矯激(きょうげき)に走って卿子冠軍を殺害し(軍権を奪っ)たのは、(宋義を総大将に任命した)義帝はかならず(内心)これに耐え難い思いをしたはずである。(もし後になって)項羽が義帝を殺さなければ、すなわち義帝が項羽を殺していたことくらいは、知恵者ではなくてもあたりまえにわかることである。

(六)

畛碗姐猯体義帝、諸侯以此服從。中道而弒之、非畴薫嫐蕁I恁園徃鸞彊奸將必力爭而不聽也。不用其言、而殺其所立、羽之疑疉自此始矣。

瓩六呂痃阿瓩胴猯造傍祖襪鯲たしめる、諸侯は此を以て服從す。道に中(あた)りて之を弑(ころ)す、瓩琉佞鉾鵑兇襪覆蝓I廚跛院覆◆砲摩廚蠡兇琉佞鉾鵑兇譴弌將に必ず力爭(りきそう)して聽(き)かず也。其の言(げん)を用いず、而して其の所立てるところを殺す、羽の瓩魑燭Δ鷲ず此(ここ)自(よ)り始まるかな矣。

范増は始めは項梁に勧めて義帝(当時懐王)を擁立させたが、諸侯はこの行いを見て(項梁個人に野心はなく、秦に滅ぼされた楚や列国の再興を目指すのであるという大義を信じ、また抗秦の名将項燕と、楚国最後の王の懐王を思い出し、心をまず懐王として立てた項梁を盟主として)服従した。その(楚国再興の)途中で義帝を弑逆したのは、(この計画を発案した)范増の意思ではなかった(はずである)。(この重大事が)范増の考えでないとすれば、(范増は事前に)かならず項羽に強く諫めたうえで聞き入れられていないのである。(すなわち)范増の意見を用いず、范増が擁立した義帝を殺したのである。項羽の范増を疑いはじめるのは、かならずこの(卿子冠軍と義帝を殺した)ことから始まっているのである。

(七)

方羽殺卿子冠軍、瘍弍比肩而事義帝、君臣之分未定也。為畄彈圈⇔惑暑榔則誅之、不能則去之、豈不毅然大丈夫也哉。畴七十、合則留、不合即去、不以此時明去就之分、而欲依羽以成功名、陋矣雖然、瓠高帝之所畏也。疉垉遏項羽不亡。亦人傑也哉

方(まさ)に羽の卿子冠軍を殺すや、瓩榔と比肩(ひけん)し義帝に事し、君臣(くんしん)の分は未(いま)だ定(さだ)まらざるなり。瓩侶彈圓飽戞覆え)て、力めて能く羽を誅(ちゅう)すれば則ち之を誅し、能(あた)わざれば則ち之を去る、豈(あ)に毅然たらざる大丈夫にあらざりしかな。瓩稜七十、合すれば則ち留(とど)まる、合せざれば即ち去る、此の時を以て明(めい)に去らずして之の分に就き、而して羽に依りて以って功名を成すを欲す、陋(おろか)かな。雖然(しかれども)、瓩痢高帝(こうてい)之を畏(おそれ)るところなり。甬遒蕕兇譴弌項羽はほろびず。亦(ま)た人傑(じんけつ)なるかな。

まさに項羽が卿子冠軍を殺したときは、范増は項羽と(同僚として)肩を並べて義帝に仕えていたのであり、(項羽と范増の間に)君主と臣下の関係はまだ定まっていなかったのである。范増は(義帝に対する忠誠の上からいえば、総大将を殺害した)項羽を誅殺しうるのであれば項羽を誅殺し、それが出来ないのであれば(楚軍を)去る、それであってこそ毅然たる士大夫だったといえるのである。范増は歳も七十を越えたのであれば、(楚の王室を再興しようという志に)合致していればそこにとどまり、合致していなければ去る(べきところを)、この時にいさぎよく去らず、項羽によって自身の功名を成し遂げることを欲したというのは、おろかなことではないだろうか(名を惜しむべきであった。)しかしそうであるとはいっても、范増は漢の高祖が畏れはばかった人物であり、范増が項羽の下を立ち去らなければ、項羽も滅びることはないだろう(と高祖は考えたほどである)。また(范増も)傑物であるとはいえるのである。


 
(後記)

項羽の軍師として名高い范増であるが、歴史に登場したのは、項羽の叔父の項梁に楚の懐王の孫である(熊)心を楚王として擁立するべき、と説いたところに始まる。
項梁は楚における抗秦の最後の名将、項燕の末子であるといわれる。秦に最後まで抵抗したのが南方の大国、楚であった。楚の総大将の項燕は、李信に大勝するも、王翦率いる秦軍六十万の前に大敗する。なおも項燕は楚の王族の昌平君を立て、抵抗をつづけたが、王翦、蒙武に追撃され敗死している。項燕の生死の定かではないという民間伝承を陳涉が利用し、はじめ陳涉は項梁を偽称して民心を得たのである。
項燕の末子の項梁は、項燕と同じく楚の王族を立てて秦軍に向かうべき、というのが范増の計画であった。項燕を詐称した陳涉は、のちに王を自称したとしても所詮は私兵集団の域を出ず、国家としての体を為していない、ということでもあった。楚王を立てることで、人々に項燕の再来を想起させ、また項梁の個人的野心ではなく、亡国の再興という”大義”を旗印にしたのである。その言をいれて、項梁は心を楚の懐王として建てた。懐王は秦に幽閉の後に死去しているが、陳涉が項燕を名乗った如く、反秦勢力の旗頭として、秦を恨んで死んだ、懐王の再来を名乗らせたのである。
項梁存命時の范増の立ち位置は微妙である。項梁は最高実力者であるといっても、大義名分上としては義帝に従属する存在である。その義帝を立てよと勧めたのが范増であるとすれば、義帝から見れば范増は羊を放牧して世を送っていた自分を引き上げてくれた恩人でもある。項梁にそうするように勧めた范増は、立場上は項梁に次ぐ存在であったと言えるだろう。
当時はまだ懐王であった義帝にしてみれば、代々楚の将軍の家柄であった項氏の軍は、その実際の戦闘力の高さから見ても別格の、親衛隊のような存在であったであろう。宋義にとっても、最強の予備軍を手元に置いておくのは、別段不思議な事ではない。
寄せ集めのような劉邦の軍を咸陽に向かわせたのは、劉邦に手柄を立てさせるというよりも、仮に途中で劉邦軍が壊滅したとしても、項羽の一軍があれば十分に秦軍と渡り合えると踏んだからではないだろうか。それは後に項羽によって証明されている。
項羽は兵が雨に濡れ、飢えていたことを見かねて宋義を斬ったという。これは軍を停滞させていたから兵が飢えたのではなく、兵が飢えたから停滞した、という事も考えられる。
この時代の軍の行動は補給は現地調達に頼りきりで、停滞していると周辺に食料が無くなるので軍を移動した、というように書く人もいる。むろん、現地調達もある規模で実施したかもしれないが、根拠地からの組織的な補給無しには、さほど人口が稠密ではない当時の大陸で、大軍を移動させるのは不可能である。多くは水運に拠ったであろう。この時代の大規模な会戦は、河川の付近で行われている。事実、項羽ですら、鉅鹿の戦いではまず秦軍の補給線を断つ行動に出ているのである。
宋義は軍を停滞させているうちに食料、補給物資を集積して力を蓄え、諸軍の包囲と劉邦の後方遮断によって、飢えた秦軍を討とうとしたのだろう。手元には項羽率いる精鋭も控えている。たしかに負け難い作戦であり、項梁の敗死を予見した宋義は、やはり凡庸ではないのである。

しかしここで項羽、である。項羽にしてみれば、項梁の敗死を予言した、卿子冠軍こと宋義を総大将にすることには、愉快であったはずがない。親代わりに育ててくれた叔父の項梁、のみならず項氏の武勇を否定されたようなものである。武門の誇りにこだわりぬいた項羽にしてみれば、これには非常な屈辱を感じていたことだろう。このことが、当時はまだ懐王であった義帝への疑念の元となっていることも、想像に難くない。
そしてその宋義の立てた作戦によって、みすみす手柄を奪われることは、項羽の性格からいっても到底我慢できることではなかったに違いない。宋義を斬り、手勢を率いて鉅鹿に向かわせたのは、かならずしも劉邦への対抗意識ばかりではなかったであろう。この時点で戦に弱い劉邦などは、項羽の意識の端にも上らぬ存在なのである。
宋義を斬る、という事について、項羽は范増に相談したであろうか?もし相談していたのであれば、蘇軾の述べる通り、范増はきっと強く項羽をとめたであろう。この時点では、蘇軾の言う通り、范増は項羽に完全に従属する関係ではなかったのである。范増にしてみれば、懐王を盟主として楚国の再興を目指すのが当初の計画であり、秦軍と戦って勝利するのは、かならずしも項羽である必要はないのである。
しかしいわば親衛隊長である項羽が、総大将の宋義を斬り、手勢を率いて秦軍に猛進を始め、これを打ち破ってしまうのである。

蘇軾は「宋義が殺されるのは、義帝が殺される前兆であり、義帝が殺されるのであれば、范増も無事では済まない」趣旨を述べている。
范増は義帝が殺害された翌年、韓王成の殺害(前205年)を進言している。韓王成は張良が初め項梁に進言して擁立した、韓の王族である。その前年に義帝は英布によって殺害されているが、義帝の殺害については范増の進言とは明記されていない。項羽が義帝を疎んじた、とあるが、韓王成の殺害に范増がかかわっているのであれば、その前年の義帝の殺害の相談に、范増が預かっていないということはないだろう。義帝の殺害を英布にやらせたのも、范増が義帝殺害には、少なくとも前向きではなかった傍証ともとれる。義帝の死により、范増の当初の楚国再興のプランは完全に瓦解するのである。翌年、張良によって擁立されていた韓王成を殺害するように進言したのは、あるいは毒食らわば皿まで、というところなのだろうか。たしかに、項梁によって擁立された義帝が項羽の手で殺された以上、張良によってやはり項梁に擁立されていた韓王成が残り、それを劉邦が支援しているとなると、名分の上で項羽の陣営は不利である。とはいえ、韓王成の殺害は、張良を完全に劉邦陣営に走らせ、また諸侯の反感を高めただけであった。

後に范増は項羽の下を去る時「骸骨を賜りたい」と言い、彭城に向かったという。”骸骨を賜わる”、あるいは”骸骨を乞う”というのは、引退して故郷に帰り、先祖の墓に骨を埋めたい、という意味であり、廷臣が引退を願うときの言葉である。なぜ楚軍の根拠地である彭城に向かったか?であるが、敵方へ走る気配が見えれば、項羽はきっと范増を殺したであろう。しかしその途上で范増は落命している。

蘇軾は、范増自らが立案し、懐王を立てたプランに忠実であれば、項羽が卿子冠軍こと宋義を殺害し、楚の軍権を奪った時点で、反逆者として項羽の誅殺を図るべきであった、と述べている。そして誅殺が不可能であれば、この時去るべきであった、と言っている。それはいずれ項羽が懐王を害し、自立することが予測出来ていたはずであるからだ、という事である。
ここで蘇軾は、范増に懐王への絶対的な忠誠心は期待していない。あくまで自らが推した懐王に忠実であれ、という事であれば、宋義が項羽に殺されたのちも、項羽から懐王こと義帝を守り抜くべきである、という結論に至らなければならないからである。蘇軾はそうは言っていない。宋義が殺した項羽を誅殺出来ないのであれば、所詮は義帝を守ることもかなわないのであり、范増も義帝とともに項羽に殺されるのが見えている。そうまでして懐王に従うべき、とは論じておらず、あくまで懐王を立てて行く、という自らのプランが崩れた段階で、去るべきであったと言っているのである。

項梁にとっても懐王は所詮は大義名分をたてるための、いわば傀儡に過ぎないのであるが、その名分を守り抜く事が、この際は重要なのである。それは春秋戦国時代のあまたの名将名臣にしても、簒奪を計れば非常な汚名を歴史に残すことになる。懐王(心)を楚の王として、後に皇帝として、自らが擁立した存在を殺害するというのは、天下の信を失いかねない行為なのであり、現実に項羽はこれを行った事で滅びるのである。范増はそれを阻止するべきであったにも関わらず、かえって弑逆者の項羽に従い、自らの功名を為そうとした。これは当初の自らのプランの正当性を否定する行為であり、単に状況に応じて身の振り方を転々とする世間師と、節義において大きな違いはない。策士であっても、志や節操は大事であろう、というのが蘇軾の価値観なのであろう。それはそうである違いない。謀略のみに頼って信がなければ、やはり国家は成り立たないのである。この点、老齢まで人に仕えたことが無かったという范増と、韓の宰相の家に生まれた張良の、違いと言えるのかもしれない。
しかし、あらゆる史論がそうであるように、過去の人物や事跡を後世の価値観をもって批評、論断するのは安易な行為である。ゆえに蘇軾は范増を高祖を恐れさせた”人傑”と評価し、范増が項羽の下を去らなければ、項羽も滅びることがなかっただろう、というように結んでいる。しかしこの点にしても、果たしてそうであろうか。

戦国春秋時代に、秦が六国を次々に征服することが出来たのは、函谷関以西の関中平野の肥沃と要害を生かしたからであった。西から東に流れる大小河川を利用し、東方の前線へ容易に補給物資を送り届けることが出来た、この利点は計り知れない。北を渭水、南を漢水に挟まれ、西辺を秦と接していた韓の国の宰相の家系に生まれた張良などは、そのことを痛感していたであろう。張良の持久戦略は、咸陽を首都とし、関中平野を掌握した時点で急速に完成に向かうのである。
項羽は鴻門の会の後、秦の首都であった咸陽を略奪するや、故郷に近い彭城に帰還してしまっている。咸陽に遷都するべきと進言した者がいたが、聞きいれず、その者を煮殺してしまうありさまであった。この時范増は、咸陽に留まるべきと進言したのであろうか。
史記では、劉邦を蜀に追いやり、函谷関以西の秦の故地である関中を三分割し、楚に降伏した章邯、司馬欣、董翳、の三将に統治させた計画は、范増の案という事になっている。そうとすれば、范増には、この秦発祥の肥沃な盆地の地政学的な重要性をあまり認識していなかったということである。
鉅鹿の戦いで降伏した秦兵二十万は項羽によって皆殺しにされたといわれ、秦軍を率いていた章邯等三将は秦の人の恨みを買っていたという。章邯以下の関中統治がうまくゆくはずがなく、また投降したばかりの秦の旧将を信用し過ぎでもある。仮に関中が離反しても、大きな問題ではない、と考えていたのだろうか。この点、范増の戦略には疑問が残る。

(秦軍二十万は、項羽は英布を派遣して穴埋めにして皆殺しにしたというが、これは事実であろうか?投降した秦軍二十万は楚軍より圧倒的に数が多かったというが、近代兵器もない時代、圧倒的少数側が多数側、それも屈強な兵士達を、短期間に虐殺する方法があれば知りたいものである。秦兵達は従順に殺されていったのであろうか?項羽は攻略した城の軍民をしばしば皆殺しにしたというが、これも漢軍の諜報作戦の一部だったというのが実情ではないだろうか。)

ともあれ戦略という面では、関中を手に入れ、そこを根拠地に持久戦を採った、張良を筆頭とする劉邦のブレーンの方がはるかに上手であった。春秋戦国時代においても、秦以外の国々にも多くの謀臣名将が現れたが、結局は地の利を占めた秦の前に屈服せざるをえなかった。漢楚の勝敗の趨勢は、かつて秦が富国強兵につとめ、東方の列強を次々に滅ぼしてゆく、その再現であったともいえるのである。
范増が進言し手を下した韓王成の殺害も、項羽への諸侯の反感を助長しただけである。七十歳になるまで人に任えず、奇策を好んで世を送っていた范増は、張良や陳平に比べると、人事にやや疎いところがあったのではないだろうか。項羽の下に范増が留まり続けたところで、勝敗の帰趨を変えることが出来たとは、やはり考え難いと思われるのである。
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