「祭姪文稿」見逃し残念記

........話題の顔真卿祭姪文稿、残念ながら2月は多忙で東京まで観に行く機会がとれなかった。その腹いせ、という意味では全くないが、祭姪文稿他、顔真卿の”三稿”の真実性には前から疑問があった。残念記念で少しその事を以下に。観に行かれた方には、あるいは水を差しかねまじき内容もあるかもしれないので、その点はお含みおきいただきたい。

個人的には、あの安禄山との激しい戦乱の最中、顔真卿ほどの能筆家が自己の感情もあらわに筆跡が乱れた(と言われている)草稿を残していただろうか?という疑問がある。また続く内戦と唐末の大乱の最中、石碑ですら原刻が喪われたもの数多という中、紙片が残るものだろうか?という点も。さらには1000年以上後まで伝存するような精良な紙を、草稿に使用するだろうか?という疑問がわくところである。
事実、現在知られる唐代の楷書の碑帖も原刻はすでに喪われているものが多い。また拓本も宋代より以前にさかのぼれない、というものが非常に多い。
唐代の筆書が実際どのようなものであったか?という点については、巷間言われているほどにはわかっていないことがまだまだ多いと考えている。ある意味、確実な史料がほとんどない王羲之の時代よりも、なまじ唐代の書と言われるものが多いため、かえってつかみにくいところがある、といえるのではないだろうか。

顔真卿はそれまで主流であった「二王」こと、王羲之と王献之の書風を超克するというところに問題意識があり、それを成し遂げたと通俗的書法史では評価されている。王羲之を越えないまでも、書の変革者であると。

これも私見で恐縮であるが、東晋の名門貴族として実在したであろう王羲之が、”書聖”であったというのは唐の太宗時代に創られた完全な虚像、と考えている。ゆえに現在みられる”蘭亭序”をはじめとする王羲之、王献之の書は、すべて隋唐から北宋にかけて創作されたものだろう、と。
それはごく少数の東晋時代の碑文や、先立つ漢代における隷書体の碑文をつぶさに検討すれば理解することは容易である。たとえば蘭亭序のような楷書を崩した行書体が、四世紀に存在したか?という問題である。さらに完成された楷書を崩した「蘭亭序」にみられる”行書”しかり、また草書の尺牘の類についても同じことが言えるのである。

顔真卿は四十四歳の作と言われる多宝塔碑で、北魏以来の楷書を集大成した、雄渾かつ端正な楷書体に到達しているとされる。しかしその後に書風を一変し、顔勤礼碑や顔氏家廟碑、麻姑仙壇記で”顔体”と称される独自の書風を確立している。これらをもって、王羲之以来の流麗な書風を革新したと、一般的には言われているのである。とはいえ王羲之の時代には完成した楷書体は存在しなかった。鐘繇や王羲之の小楷は、実際は北宋に入ってからの偽作と認められて久しい。

今日言う”楷書体”というのは、漢民族からみれば異民族王朝である北魏において大略完成した書体である。しかしそれは紙の上に毛筆で書かれた筆書として発展した書体ではなく、刻石の上で展開し、整理されていった書体であろうと考えられる。
北魏に先立つ漢代の碑、いわゆる漢碑における隷書体は、毛筆で書かれたであろう筆書の原型をかなり忠実に石に刻んでいる。それは毛筆書体のもつ美への深い理解と、それを後世に伝えんとする意識に支えられたものであると考えられる。
それが漢、西晋と時代を経て、北方に異民族王朝の北魏が成立すると、様相が大きく変化してゆく。おそらくは前後漢で成立した毛筆書の文化に疎い人々の手によって刻まれた刻字は、元の筆書を忠実にたどったものではなかったと考えられる。刻石の刀法の影響で筆書の曲線が直線に矯められ、隸書特有の右へ長い波磔が短縮される、という変化があったことだろう。
すなわち書がしるされる媒体の物性によって、書体が変化してゆくのである。たとえば木版印刷の上で彫りやすいように筆画が変化していった、活字書体である宋朝体、明朝体がある。また楷書体と同じく刻石の上で成立した、英数字のローマン書体と比較して理解されるところであろう。骨片に刻まれた甲骨文や青銅器上の篆文なども、書かれた媒体の性質を考えることで、書体の発展の必然性を説明することが可能である。
このような、文字を書く道具と材料の変遷が書体に影響を与える、といよりほとんど書体を決定してきた、という考え方は、西洋におけるアルファベットの書体の変遷の説明ではごく普通の見方である。しかし通俗的書法史によれば、すべて現代と同じような毛筆でもって紙の上で変化してきたかのようなとらえ方が主流になるところに、錯覚や誤解がみられる。これが東洋における書の歴史がそのまま能書家の列伝であり、あたかも英雄伝説のようなストーリーから脱し得ない原因ではないかと考えている。

漢代の竹簡や木簡の上で発展した隷書体は、一辺の木簡に一行が原則の書体として、より多くの文字を書き入れるために扁平になって行った。また可読性を高めるために、波磔が強調されるようになる。

文字を刻んだ石碑の製作が流行するのは漢代に入ってからである。それは硬い石に彫刻を施すのに適した、焼きを入れた鋭利な鉄器の精錬が可能になったからであると考えられる。その技術は、刻石の文化と同時に、西方から伝播したであろう。漢代は、それまで青銅器を主流とした戦国春秋〜秦時代から、鉄器の文化へと移行した時代でもあった。
摩擦に弱い青銅の刀では、硬質な石材に緻密な線を彫り上げることは難しい。春秋戦国時代にみられる画像石のような、ごく柔らかい石におおらかに図像を彫り上げるのが限界であろう。また硬い石でなければ、そもそも繊細な線を彫れないのである。ごく硬い石に精緻な文字が刻まれるようになるのは、道具の進化と無縁ではない。

文字が刻石上に多く刻まれるようになると、縦横の方眼の方が見た目には整然としている。さらには縦方向に文字を目で追う上で、隸書のような横広がりの文字よりは、正方、ないしやや縦長に構成されていた方が視線を移動して読みやすい。さらに漢字という文字の構造上、筆画の外側は直線的に彫りやすい。しかし内側の点画はやや慎重に彫らないと、内包された点画など、文字の構造を壊してしまう。こうして、顔真卿以前の楷書は、歐陽詢に代表されるように、いわゆる”外方内円”の字形をとるようになったと考えられる。

また刻石上の下書きは、多くは石の上に直接書かれたであろう。総じて字形が大きな魏碑の文字は、円錐状の筆ではなく、平たい刷毛のような筆で書かれたと考えられる。刷毛であれば、毛筆書の心得の薄い者でも、比較的容易に、縦横に整った線をえがくことが可能なのである。

ところで四世紀の東晋時代〜南朝宋時代までの、南方の碑文や墓誌の類というのは現存するものが非常に少ない。しかしはじめから無かったわけではなく、後世になって破壊されたり建材にされたり、新たな墓誌や碑帖の材料として刻面が削り取られてしまったからと考えられる。それは北朝に南朝が征服されてゆく過程での、意図的な破壊もあったと思われる。
五世紀の南方の筆書を伝える数少ない碑の一例を挙げれば、420年に東晋がほろんで後の南朝劉宋の時代、458年に造られた「爨龍顏碑」がある。これは清朝の乾隆年間に雲南省で発見されている。これは地元豪族の墓誌であるが、雲南省のような僻地であったからこそ、奇跡的に破壊を免れたのだろう。ゆえに南朝の支配地域において、墓誌を刻む習慣がなかったとは言えないのである。東晋〜南朝時代の南方の碑帖が異様に少ないのは、やはり北朝の征服過程と統治下で、相当な破壊があった事がうかがえるのである。
この碑の書体を見る限りでは、現代のゴチック体を思わせるところがあり、唐代の洗練された楷書にはまだ相当な距離がある。5世紀の時点では依然として、唐代の整理された楷書体への発展過程にあったのではないか。

北魏を中心とする北朝で楷書体が発展を遂げていた同じ時期、南朝では隸書の早書きである草書体が洗練の度を増していた、と考えられる。それは会稽を中心とした製紙業の隆盛が背景にあり、また筆や墨の質の向上も貢献していたであろう。草書の連綿の発展は、精良な紙と筆墨なしには到達できないものである。
ゆえに南朝貴族の自国文化に対する矜持は、草書の美に拠るところが大きい、と考えてよいだろう。それは平安朝における仮名の発達と対比して理解しても良い。
草書のような筆記書体は平安朝における仮名と同じく、書き手の個性を表現する事が可能であり、むしろ積極的に表現を試みたであろう。同時に、名手の筆跡の模倣も盛んにおこなわれるのである。
対して北朝の、いわゆる魏碑を中心とする碑帖群は、作者がほとんど分かっていない。北方騎馬民族を継承する異民族王朝であり、政権における軍事色の強い北朝にあっては、文字はあくまで通信や広報手段の道具である。そこに書き手の個性を表現する必要性は、おそらく認められなかったのであろう。

隋の楊氏も唐代の李氏も、もとは鮮卑族をルーツに持つ武川鎮軍閥の出身である。一方で、唐の太宗のブレーンの多くは漢王朝以来の南朝貴族たちある。虞世南、歐陽詢、褚遂良たちは互いに師弟関係にあり、その祖に王羲之の後衛と言われる智永がいたとされる。
彼等”唐の三大家”は、北朝で完成された楷書体(とおそらくは異字の統一など)が採用されることに、積極的に関与している。そこには隋唐王朝の成立と同時期に、楷書体が公文書における制式な書として定められたのであれば、その模範となる書体は、ぜひとも南朝文化の継承者の手によって、完成されなければならないという、ある種の危機感のようなものがあったのではないだろうか。
それと同時に、南朝文化を継承する運動として、おそらくは”書聖王羲之”を創造したのではないか?と考えられるのである。

書体の変遷に当時の政局が影響していることは、近代史における簡体字の採用、また文化大革命における独特なプロパガンダ書体などにも類例を見ることが出来るものであり、別段特殊な事ではない。

ゆえに楷書体はすでに王羲之の時代に完成していた、という物語の中に”蘭亭序伝説”を位置づけることで(楷書がなければ行書も生まれないので)、文化面での南朝の優越性を太宗以下の北方出身の貴族たちに認めさせたか、あるいは信じさせた可能性がある。あるいは太宗も南北融和のために積極的に王羲之を賞賛した、という事もありうるだろう。
智永は楷書と草書を併記した”真草千字文”を八百本も書き、寺寺に配ったといわれている。またその一本が日本に伝存していると考えられている。その真偽はさておくとしても、何故智永が数多くの真草千字文を書き、配布したか?という故事の謎がある。これも北朝の刻石文化と、南朝の豊富な紙の生産の上に洗練された草書体文化の融合、という文脈で説明できるのではないだろうか。あるいは歐陽詢等よりやや後代の、孫過庭の「書譜」における草書の美と、書論の内容についても、やはり南朝貴族文化の系譜の上で理解しなければならないのではないだろうか。

そこで顔真卿に話を戻すと、多宝塔碑以降に顔真卿が目指したのは、結論的にはおそらく漢代の筆書への回帰であったのではないか?
それは北魏以来の刻石における(おそらくは石刻職人の技量や筆書への理解の不足に基づく)直線的な楷書体から、漢碑の隸書体における曲線的な筆線や波磔への回帰ではなかったのかと。また”ネズミのしっぽ”とも呼ばれる、(おそらくは褚遂良を継承した)顔真卿の楷書体における独特な波磔や、外円内方の、まる味を帯びた筆画にあるのではないかと。そう考えたくなるのである。
ゆえに二王以来の流麗優美な書風に対抗し、雄渾な書風と確立した、というのはまったく後世のこじつけであり(そもそも王羲之の時代に完成された楷書体は認めがたいのだから)、むしろ顔真卿の意識は、北魏以来の北方異民族政権による中原文化への圧迫に対する、ある種の抵抗の感情があったのではないか。

唐代にいたり、碑帖における毛筆書体の再現性は、再び漢代における漢碑のごとく、精緻な技術を回復する。毛筆書特有の線の肥痩までもが忠実に刻まれるところには、碑帖の製作者と注文主が、筆書に深い理解を持たなければならない。
顔真卿の後期の楷書作品にみられる、"ねずみのしっぽ”とも呼ばれる特徴的な右の波磔は、それが毛筆による筆書であることを強調しているように見える。この点、おそらくは平たい刷毛のような筆で書かれたであろう、北魏の碑帖とは文字通り一線を画すことを宣言しているかのようである。

顔真卿は虞世南や歐陽詢、褚遂良といった南方貴族の出身ではなく、山東省に本貫をもち、魯の国の孔子の高弟、顔回の末裔と称する一族の出身である。山東には漢代以来の刻石刻碑の類が現在も多く残っている。はじめ褚遂良以来の唐楷を極めた顔真卿も、やがて故郷に残る漢碑の隸書や八分書の影響を受け、その味わいを唐楷に取り入れようとしたのではないか?というのが、ごく個人的な理解なのである。唐朝への忠誠心を後世称えられる顔真卿であるが、文化面ではまた別の感情があった事と察せられるのである。

顔真卿の草稿については、俗にいう”三稿”があり、そのうちの「争座位帖」については、北宋の米芾が”見た”と書いている。それ以前に記録文献には見られない。唐末から五代の動乱のすさまじさは、あまたの文物の亡失が想像されるのだが、文献資料すらほとんど残っていない事実からも、その損失の程が察せられるのである。
総じて、記録が残っているが実物は残っていない例はあるものだが、古い記録が無くて実物のみが残っている、というのはなかなかあり得難いところである。北宋の米芾からさかのぼること、唐代は二百五十年以上前の時代。今でいえば2000年代の人が乾隆年間の書を見たような、そういう時間の経過が横たわっていることは、意識しなくてはならないだろう。
実のところ顔真卿の書風は時代によって毀誉褒貶を繰り返してきているのであるが、まず北宋において再評価の時期を迎えている。北宋は毛筆書の即興性、いわゆる”卒意”が重視された時代である。そうした北宋人の美意識の下で顔真卿が評価されたところに、”三稿”の位置づけを考えてみてもよいだろう。それは唐代初期において、”卒意”の書とされる”蘭亭序”が創作され、称揚された経緯も参考になるのではないだろうか。
蘭亭序の真偽に象徴される”書聖王羲之”の実在性と併せて、唐代の筆書文化の全体像についても、再考の必要があるのではないだろうか。
落款印01


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