四体筆勢 1. 〜蒼頡と沮誦

さて、宿題にしていた「四体筆勢」の読解を進めようと思う。別段、専門的な研究といったほどの知識も能力も持ち合わせていない者の解釈なのでいいたい放題であるが、読み物程度にお考えいただきたい。

しかし読むほどに四体筆勢が、現存する最古の書論のみならず、優れた内容を持っていることに気づかされるのであるが、今回は冒頭の以下の短い一節のみについて。

昔在黃帝、創制造物。有沮誦、倉頡者、始作書契以代結繩、蓋睹鳥跡以興思也。

書き下せば、

昔し黃帝(こうてい)あり、造物(ぞうぶつ)を創制(そうせい)す。沮誦(そよう)、倉頡(そうけつ)者あり、始(はじ)めて書契(しょけい)を作り、以って結繩(けつじょう)代える。蓋(けだ)し鳥跡(ちょうせき)を以って睹(もく)し思(し)を興(おこ)す也(なり)。
とりあえずの大意を示せば、

昔し黃帝が造物を創制された。沮誦(そよう)と倉頡(そうけつ)という者がいて、始(はじ)めて書契(しょけい=文章)を作り、それでもって縄の結び目による記録・伝達手段に代えた。おそらく鳥の足跡をみて文字を発想したのだろう。

というところか。
はるか太古の黄帝の時代、倉頡という人物が文字の創案者、ということを述べている。この倉頡はまた蒼頡ともかく。

「倉」は「クラ」すなわち”モノがたくさん集まったところ”を表すのが原義である。また「蒼」は「あおい」という意味があるが、もとは草が集まった色を表している。山は近くで見れば「みどり」でおおわれているが、遠くから見れば「あおい」ように、植物が密生した草原もまた「あおい」のである。
この「倉」ないし「蒼」という姓は、周の王室の姫姓とともに古くから存在し、もとは官倉の管理責任者の官職名が氏姓に転じたと考えられている。

四体筆勢の筆者の衛恒は三国時代末期から西晋にかけて生きた、西暦でいえばおよそ三世紀の人物である。一方で冒頭で触れた”蒼頡”による文字の起源説については、衛恒の時代からさかのぼることおよそ500年前、紀元前二世紀頃には知られていたようだ。

たとえば「荀子・解蔽」に“好書者眾(衆)矣,而倉頡獨傳者壹也”とある。また「韓非子・五蠹」には“昔者倉頡之作書也”とある。さらに「呂氏春秋・君守篇」にも”奚仲作車、倉頡作書”という記述がみられる。これらの書物はすべて紀元前2世紀ごろに書かれたと考えられている。
少し時代が下って紀元前1世紀の前漢時代、「淮南子·本経」には“昔者倉頡作書、而天雨粟、鬼夜哭。”という記載がある。
この淮南子の記述については、つまりは文字が出来たことを嘉(よみ)して天は粟(穀物)の雨を降らせ、鬼(神)は夜にむせび泣いた、ということである。
論語にはすでに「(孔子は)怪力乱神を語らず」という言葉がある。鬼神はここでいう神、のことである。文字の発明によって人間の知識が増加蓄積し、知恵の光に照らされることで怪異の立つ瀬がなくなることを嘆いた、という意味になるだろうか。

ともあれ紀元前2世紀から前1世紀ごろの知識人にとっては、文字の発明者として蒼頡の名は常識化していた、と考えていいだろう。だから三国時代後期の衛恒もその知識を踏まえて四体筆勢の冒頭に蒼頡の名を掲げているのである。
しかしこの2世紀の知識人たちの知識がどこから来たのか?という点は少し考える必要があるだろう。

呂氏春秋を編纂させた呂不韋も、韓非子、さらには荀子も、ほぼ同時代の人物である。韓非子は荀子の弟子であったという説もある。(これを否定する説もある。)
いうまでもなく呂不韋は秦の始皇帝に仕えた(始皇帝の実父という説もある)豪商であり、巨費を投じて知識人を集め、呂氏春秋を編纂させた。韓非子は後に秦に仕えるが、それは呂不韋の失脚の後である。
秦というのは戦国春秋時代のはじめは西方の後進国であったが、次第に強大となり、ついには六国を滅ぼして中原を統一する。
それまで中原における知識の先進地域というのは、孔子の出身地である魯を中心とする地域、中原の東方であった。しかし呂不韋のころには秦も相当に知識文化が進んでいることがうかがえる。むろん、秦の統一後に焚書坑儒によって膨大な文献が亡失したと考えられ、先に挙げた荀子や韓非子、呂氏春秋といった書物は秦にゆかりをもつだけに残存したとも考えられる。しかしそれとは別に、秦は西方との交易をひらき、西域経由で西アジアの文化を積極的に輸入していた事も無視できない。
秦が天下を統一できたのは、中原に対して黄河の上流に位置する地の利もさることながら、西域からの新知識の導入も貢献していたと考えられる。始皇帝は手を尽くして不老不死の法を求めたが、現代風に言えば最先端の知識・テクノロジーを求めてやまなかった、ということになる。
始皇帝陵がピラミッド構造をなし、復活再生を信じて壮大な死後の世界を地下に築くという発想、知識自体が、おそらくはエジプトを起源とする死生観に基づくという説もある。
推測の域を出ないが、この蒼頡の文字の起源説も、やはり西方由来の知識に基づくのではないか?と考えられるふしがある。

話が西に飛ぶが、人類最古の文明といえばメソポタミアに始まるとされる。ひとくちにメソポタミア文明と言っても、実際はメソポタミア地方に大小複数の文明が存在したことがわかっている。
そのメソポタミア文明における粘土板に刻まれた楔形文字は、その最古の部類は占いの結果を記すものであったという。これは古代中国において、甲骨文がやはり占いの結果を記録する用途において使用されてきた事に類似している。

先に掲げた「四体筆勢」の冒頭には『蓋(けだ)し鳥跡を睹(もく)し、以って思(し)を興(おこ)すなり』とある。すなわち「鳥跡」つまりは鳥の足跡をじっとみて、その形象に文字のアイデアを得た、ということである。

鳥が足跡を残すのは泥濘の上である。また湿地に降り立つのは、多くは足が長く首の長い水鳥を想起する。
メソポタミア文明における楔形文字は、粘土板にアシのペンでもって刻み付けることで筆記されたという。紙に比べれば重量もありかさばるが、乾く前なら修正が用意で再利用もできるうえ、焼成すれば焼失しにくい記録媒体である。
逆三角形が基調の鳥の足も、見る角度では楔形にも見える。基本的に同じ形象のクサビの数や配置によって記号の異同を表す楔形文字であるが、鳥の足跡が並んでいるようにも見える。
また水鳥が泥濘に残した足跡が文字になったという伝説は、どこか粘土板に葦のペンで刻まれたクサビ形文字を想起させるところがある。いうまでもなく葦は河岸に繁茂する植物である。
現代でいう篆書体と隸書体が中心であった衛恒の時代も、出土文物である青銅器や獣骨に刻まれた古代文字は知られていたと考えられる。後述するが「四体筆勢」には古文、つまりは古代文字が発見された事例が記述されている。
獣骨や亀の甲羅、あるいは青銅器に刻まれた甲骨文の形状が、鋭い水鳥の足跡の重ね合わせに似ているといえば、似ていないこともない。

ちなみにメソポタミアにおける知恵と文字の神はNabuといい、またはTutuともいう。そのイメージは、美髯の神人ないしは有翼神人として描かれている。
また古代エジプト神話における文字の神はThoth(トト)であり、水鳥のトキないしはヒヒの姿をしているという。一般にThothといえばトキの姿ないしは鳥面有翼の神人としての像が良く知られている。
ここでメソポタミア神話におけるNabuがエジプト神話におけるThothなのである、というのはまったくの早計なのであるが、人類最古の文明といわれるメソポタミア文明と二番目に古いとされるエジプト文明において、文字の起源に神が存在する、というのは示唆的である。神の意思を読むべき卜占を記録する文字の創案が、人間の手によるべきものではない、という考え方であろう。

以下は推測に過ぎないが、おそらく紀元前2世紀の中原の書物に言及されるところの”蒼頡”というのは、西域経由でこれら中東〜西アジア起源の神話が伝播した結果、その知識内容が翻訳変化したものではないか?と考えられるのである。

蒼頡の”頡”は、詩経(邶風・燕燕)に「燕燕於飛、頡之頏之」とあるように、鳥が(上方に)飛翔することを意味する語である。また「頡」には(まっすぐに硬直した)「首」という意味がある。また「頏」は飛び降りることと、さらにはやはり「首」という意味がある。
蒼頡の「頡」は首、ないしは鳥の飛翔にかかわる文字であり、鳥の足跡が文字の創案の契機となったという伝説と考え合わせると示唆的である。エジプトのThothが水鳥の格好をしているところにも、どこかつながりを感じさせるものがある。
Thothが水鳥の姿をしているのは、天空を舞う鳥に神の姿を仮託するという古代エジプト神に共通のイメージと同時に、筆記媒体であるパピルスがナイル川河畔に多く自生し、また筆記具として葦のペンが使用されることと無関係ではないだろう。鳥の中でも、特に水辺を想起させる水鳥、すなわちトキの姿をとるのではないだろうか。

蒼頡とならんでもう一人沮誦、という人物が出てくる。道教の説では沮誦は蒼頡とともに黄帝の四人の史官の一人であり、蒼頡の助手を務めた、といわれている。もちろんこれは「四体筆勢」よりさらに後世、道教の発展の過程で形成された伝説である。
ところが蒼頡に関しては2世紀頃の複数の書物にその名が現れているが、沮誦に関しては記載されている史料が見当たらない。四体筆勢には蒼頡の前に沮誦の名が挙げられているにも関わらず、先の韓非子や荀子、呂氏春秋には見当たらないのである。

沮誦は、また詛誦、ないしは沮頌とも書かれる。”沮”には流れをせき止める、という意味がある。”沮”のサンズイと”詛”とゴンベンは、草書ないし行書に約せばほぼ同じ字形になる。”詛”は呪詛、というように誓いや呪いを口にする、という意味がある。また”頌”は古くは祝願を表す字であるが、朗読という意味もあり、ほぼ”誦”と同意の文字である。
沮誦ないし詛誦、または沮頌という人物の名も、文字の発明と無関係ではないだろう。すなわち記録可能な文字の出現以前には、口伝による伝承の時代が長く続いていた、と考えられるからである。文字はなかったが言葉や会話はすでに存在していて、それが沮誦ないしは詛誦という人物の名に、痕跡として表れているのではないだろうか。

あるいは沮誦という人物の名称自体、西方から伝播してきた書物を誤訳した結果ではないか?という疑惑がある。なぜか?

文字の発明の後、”書契”でもって”結縄”にとってかわった、と述べている。
この書契は今でも”文章”という意味でつかわれる単語であるが、書契の契は古くは”鍥”と同意であり、”鍥”は刀でもって刻む彫刻する、という意味である。これはどことなく獣骨や亀甲に刻まれた甲骨文を想起させるところがある。
また”結縄”これは縄の結び方や、結び目の数によって記録や意思伝達をする手法である。

「老子道徳経」の中でも比較的有名な「小国寡民」の章に”使民復結縄而用之”とある。つまりは文章で複雑な事を記述する必要はなく、結縄くらいの簡単な記録や意思伝達で事足りるくらいの小さな国家が理想なのだ、ということである。また易経・周易・繋辭には”上古結繩而治,後世易之以書契。”とある。
易経・周易は東洋最古といわれるテキストであるが、その繋辞伝の成立は漢代であるといわれる。老子道徳経の成立年代は諸説あって定まらないが、遡れても紀元前2〜3世紀ごろであるから、早くとも蒼頡が文献に現れる時代とほぼ同じ時期である。

単純に考えれば、まず記号としての文字が発明され、やはり記号に過ぎない結縄にとってかわる、ということは理解しやすい。しかし”書契”すなわち文章が発達し、記号である結縄が表す単純な意思の伝達や記録に代わるというのは考えにくいものがある。
もし”書契”が置き換わったのだとすれば、結縄で表された単純な記号もむろんあったにはちがいないが、歌謡や言い伝えのような、ひとカタマリの内容を持った口伝、口承の類なのではないだろうか。
とすれば”沮誦”という”話す”あるいは”語る”行為に関係する文字のつながりは、もとは人物名ではなく、文脈上は”結縄”と同列の、文字の発明以前の情報の記録・伝達の手段をあらわしていたのではないだろうか?と考えたくなる。
”沮誦”の名が「四体筆勢」以前の”蒼頡”に触れた文の中には見当たらないのも、そのあたりに理由を求めることができるのではないだろうか。

衛恒がどのような書物を参考にして「四体筆勢」を記述したのか?今となっては確かめることができない。西晋の衛恒より前の時代の前漢の「淮南子」にも文字の発明者としては”蒼頡”の名ばかりで”沮誦”の名は見当たらない。
現在読むことができる「晋書・衛恒傳」の文が正しく衛恒の文を伝えているのであるとすれば、やはり衛恒は文字の起源について、当時の常識的な知識以上の何事かを伝えようとしている、という見方もできるのではないだろうか。
落款印01


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