2018年11月の揚州行

.......旅の風情とか街の情緒というものは、あるいは旅人の得手勝手、というようなところがあるのかもしれない。そこの住人にしてみれば不便きわまりないものであり、できれば近代的な利便性に置き換えたくて仕方がない、というようなものなのかもしれない。
京都の町屋や奈良の山奥の木造瓦葺の日本家屋が、外国人にどんどん買われている昨今なのである。日本の、特に若い世代にとっては不便に思える家屋であっても、文化の違う外国人の目からすれば、修復保善に多少の苦労をしつつも所有したい、住みたいと思える何かがあるのだろう。

幾度か訪れてる揚州は、江南地方で古い都の風情を今に残す数少ない街である。江南の都というと蘇州・杭州を想起する日本人は多いと思われるが、杭州の西湖周辺も近代的なテーマパークのような整備にあって、交通渋滞をぬってまで行きたいとおもわせるような何かがない。強いて言えば蘇州はまだしも、なのであるが、それでも”蘇州駅”を中心に、だいぶん様変わりしてしまっている。

揚州に行くには上海から直通三時間のバスか、鎮江まで高速鉄道で行き、鎮江からバスかタクシーで行くのが通例であった。列車の駅があるにはあるが、南京を経由しなければならず、本数も少ないので利用したことがない。今年になってようやく高速鉄道が開通した。揚州は兄弟のように隣接する江都に広範な工業地帯があるにはある。しかし江南屈指の古都にして、大陸の高度成長には完全に乗り遅れた格好である。
そのおかげもあってか、揚州の旧市街地は初めて揚州を訪れた20年近く前とあまり変わっていないような雰囲気がある。もちろん商店は入れ替わり、変わるところは変わったのであるが、旧市街は大略は変わっていない様子がある。
巨大な鉄筋コンクリート建築や、郊外に層層と林立する無人の高層マンション群が織りなす人造の前衛山水画にいささか目が疲れを覚えるころ、歩きたくなるのが古い町並みなのである。

さて、令和に年号が代わってからは、諸事情あって残念なことに大陸には渡航できていない。以下は昨年の11月の揚州行の模様である。上海から蘇州を経由し、蘇州市街で若干の要件を果たした後、揚州へ向かう。揚州で一泊して翌日要件を片付け上海へ戻るという、ごく短い旅程である。

蘇州までは上海から高速鉄道で移動したが、蘇州から揚州へは今回は車である。同行してくれた上海のD君が、”滴滴”という配車アプリによって車を手配してくれるのである。
この日の蘇州は晩秋の冷たい細雨。そろそろ夕闇が迫ろうかという時候、獅子林近くの人民路に面したコンビニエンスストアのイートインスペースで、D君がアプリを使って車を探すことしばし。運よく蘇州から揚州へ帰る車が見つかった。
現れたのは江南の地方都市に多い、フォルクスワーゲンの黒いセダンである。私とD君をピックアップした後、蘇州旧市街のはずれでもう一人の客を待つことさらに暫時。蘇州の大学に通う揚州出身の女子学生を一名助手席に乗せ、揚州へ向かったのである。
案の定というべきか、この日の揚州への高速道路の車の流れはあまりよろしくない。急速に整備された大陸の高速道路網であるが、大陸有数の人口密集地帯を南北に移動する車両の数量を考えればドイツのアウトバーンよろしく8車線位にするべきところを、規格の上では日本の高速道路を模したかのような車線と道幅であるから、曜日時間帯によっては渋滞は避けられない。ひとつには昔の日本でもやっていた、車線変更で前を追い抜く車が多いのである。それが全体の車の流れを悪くする一因でもある。
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D君は上海の出身であるが、江蘇の方言も話すことができる。完全なる蘇州弁、揚州弁というわけではないが、曰く上海語を横滑りさせると近い雰囲気に聞こえるのだそうだ。大阪弁ならぬ関西弁、というところなのかもしれない。D君曰く、なるべく方言に近い発音で話した方がいい、ということである。それはそういうものだろう。

日本では無許可の個人が旅客を運ぶ、いわゆる”白タク”行為は禁止されているが、そもそも日本はタクシーが過剰なくらい多い、という前提がある。大陸はどこの都市もタクシー業界は台数が規制されていて、正規のタクシーはまったく足りないのである。それで従来から白タク行為が横行していたのであるが、配車アプリが公認されることで堂々と、かつ効率的に白タク経営が可能になった、という事情がある。
そうは言っても、見ず知らずの運転手に頼っての長距離移動であるから、運転手と親しんでおくに越したことはないのである。
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日没の車窓から広大な江蘇の田園を眺めると、田畑や水濠や一叢の木立のかなたに。一群の鼠色の高層マンションが現れては遠ざかる。車のヘッドライトが点灯し始めたほどにあたりは暗くなってきているが、みえるマンションの一棟一棟、夕もやの中に暗くたたずんでいるだけである。
建設途中のマンションの上部には、さまざまな角度で首をかたむけた巨大な水鳥のくちばしのようなクレーンが数基、静止している。それは聳え立つ岩峰のいただきに根づいた松が蓋を傾けているようでもあり、これが現代の大陸の”江南高楼図”ということなのかもしれない。

レーニンの時代『社会主義とは全国の電化である』というスローガンがあった。1972年にソ連で製作された『電化を進めよ』という短編アニメーション映画がある。
現代の中国を見る限り『社会主義とは全国を高層マンションで覆いつくすこと』ということなのかもしれない。確かに大陸は慢性的な住宅不足の時代がかつてあった。それが解消され、あまつさえ過剰な現在の様相を呈するようになったのは、鉄筋建築工法とエレベーターの国産化によるところが大きいのである。
近現代史において、もっとも経済に影響を及ぼした科学技術は自動車でも電気でもなく、鉄筋建築工法ではないか?と最近は考えている。鉄と石灰、砂でもって無尽蔵かつ急速に資産を増やせる建築法は、どこか人間の理性を集団的に麻痺させ、狂わせる何かがあるのだろうか。

ともあれ、揚州についたときは時計は20時を回っていた。まず旧市街から外れた揚州郊外の住宅街で女子学生を下ろし、揚州市街地へ向かう。この日の宿はD君が手配してくれた”東関街”の路地にある一軒の民泊である。
東関街は、その名の通り揚州旧市街の東門から街の中心に向かって伸びる通りに面して展開する商店の多い街並みである。東関街を東に、昔の城壁を抜けたあたりに昔の揚州の東門があり、その先には運河と船着き場もある。この揚州の運河は一方では市街に続き、一方では長江にまで連絡している。江南地方はその昔は水路伝いに主要な都市を行き来できたわけであるが、その名残をとどめているというわけである。
以前に『唐解元一笑姻緣』の解釈を試みたが、蘇州で秋香を見初めた唐解元が無錫まで船で跡を追いかけ、城門近くで船を降りる場面があった。このような場所は江南の都市のそれぞれに存在したのだろう。

もちろんのこと東関街も東門も多分には観光地化を目的に再建された姿なのであるが、古い建築材料を使うなど工夫を凝らしているためか、それなりに良い塩梅に古色を帯びた風情がある。
通りから垂直に枝分かれする路地が”小巷”ということになるが、迷路のように入り組んだ路地の中の民家で最近民泊を開業する家が多いのである。
東関街には自動車を乗り入れることはできないから、東関街とほぼ平行に走る文昌中路の皮市街付近で車を降り、東関街の裏側から路地に入る。
東西南北に道路が交錯するのが大陸の都市構造の基本である。区々たる”小巷”とて計画当初、大略は東西碁盤の目のように整備されたはずなのであるが、それが長い年月で敷地権なり所有権なりの交代を経、消滅する道もあり新たに通り抜け可能な道もできるといった具合で、結果的に迷路のようになってしまうのである。
11月の揚州は気温もすでに低い。小巷の小路や家々の”磚”や漆喰にまでしみこんだ冷気が左右足元から迫るところを、小さなスーツケースの車輪をガラガラと響かせながら、目的の家まで急ぐ。
”磚”すなわち青いレンガを敷き詰めた路地をぐるぐると廻り、民泊の小さな看板を掲げた一件の民家にたどり着く。
古民家を外から見ると”磚”と漆喰、それに瓦といった無機質で単調な色彩が印象に残るものだが、この民家の建物の内部は木材が多用され有機的で色調も暖かい。外界と対蹠的な雰囲気である。
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しばしそこの女主人とD君が話をしていたが、話がかみ合わない。どうも宿の場所を間違えたようである。気を取り直してあらためて女主人から目的の宿の場所を教えてもらい、そこへ向かう。初めの宿からいくたりかの辻々をまがり、ようやく今宵の宿にたどり着く。
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時間が遅いためか扉には閂がかけられている。
先ほどの「客桟」よりも、より普通の民家に近い格好である。
大陸のホテルは「酒店」「飯店」「賓館」という。大規模な国営ホテルは「酒店」ないしは「大酒店」、やや規模の小さなホテルが「飯店」「賓館」というように、ホテルの規模によって呼び名が分類されるという話もあるが、現在はあまり関係ないような印象である。そこへ民泊は多く「何々客桟」というような呼称を用いるところが多い。「客桟」は時代劇で使われる単語である。
予約された二部屋のうち、D君は一階、私は二階の部屋と決まった。一階の玄関すぐの広間から狭いらせん状の木の階段を上って二階に上がると、民家らしく人ひとりが通れるくらいの、左手に画欄、右手に画額の迫った短い廊下があり、その奥に今宵の寝床の部屋がある。6畳ほどの部屋は広いベッドが占有している。1畳ほどの空間をガラス戸で仕切ってシャワールームがしつらえられている。この設備は客桟のために新たに設置されたものだろう。
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揚州は夜が早い。少し正確に言えば早くなった。大陸の経済が沸騰していた以前は、夜半まで料理屋の明かりがついていたもので、それでも足りなければ市街のいたるところ路傍で屋台が盛んに炊煙をあげていたものである。
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民泊の家人に近郊の店を教えてもらう。ここは地元の人しか行かないような小さな店であるが、一通りの揚州料理が提供されている。地元の人が家族で行くようなお店というのはたいていは一皿の量が多いのであるが、はたしてこのお店もそうであった。
こうした地元の人が来る料理屋というのはラストオーダーの時間も閉店時間も曖昧で、顔なじみの近所の人が家族で宴会をしていれば、彼らが引き上げるまで閉店時間は延長される。我々が店に入った9時過ぎは、そろそろ終わりという時刻だったようなのだが、まだ2〜3の宴席が残っていて、しかしそれもそろそろお開きに近いのであろうか、食後の歓談が続いている風情である。店の人は快く空いたテーブルに案内してくれた。
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ここで定番の揚州炒飯、獅子頭、蟹黄湯干絲、蟹黄豆腐、それに魚香肉絲....は久しぶりにせよ、二人の人数にしては少し注文し過ぎだったかもしれない。D君に言わせると獅子頭が淡泊すぎるとか、揚州炒飯がここは正宗ではない、というのであるが、総じて味は悪くない。揚州料理は総じて薄味で、油脂も控えめなので量が食べられるのである。王朝時代、何日も宴会が続くような繁華な大都会の料理というのは薄味淡泊で、消化がいいように作られているのである。たとえば揚州名物の「獅子頭」は豚の脂身をたっぷり肉餡に練りこんでいるのだが、時間をかけて蒸しあげてはわざわざ脂を抜くのである。
ともあれほどほど食べ過ぎたところで店を後にする。
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恒例になりつつあるが、皮市街(ぴー・すー・じえ)で少しお茶を飲んでいこうということになり「皮市街」へ足を向けると、どことなく通りが暗い。10時近い時刻であるが、店の明かりがまばらである。
なんどか訪れている「浮世記」に行こうとおもったのであるが、文昌中路から皮市街に入り、まっすぐあるいて右手に見えてくるはずの「浮世記」が見当たらない。皮市街中ほどを過ぎておかしいと思い引き返すと、店はあったのだが今日はすでに店を閉めた後のようだ。記憶では11時くらいまで開いていたはずなのであるが。いささか残念である。
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そこで開いていたもう一軒のカフェに入った。明るいテラスを意識したようなインテリアに、観葉植物を多く置いている。Wifiを完備し、室温もほどよく調整されていて、外の冷気と世界を別にしている。何度か述べているが、江南の寒い季節に上着を脱いでくつろげる場所というのは、ホテルの自室以外ではあまりないのである。
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ここで私は自家製の果実酒、D君は珈琲を頼み、しばしの休憩である。果実酒は安徽の農村の酒屋で飲めるような、コケモモを度数の強い酒に漬けたほのかに甘い酒である。値段はどちらも30元くらいで、邦貨にして500円を超えない程度である。
メニューをみていると、この店は洋食を出すレストランカフェのようで、たとえば150gのステーキと羊のリブ・ロースト二本、チキンの手羽が二本というボリュームのあるセットがひとり158元である。もちろん、こういったお店で過ごすお値段というのは、揚州の一般的な消費の感覚からすれば高めであるが、ある程度の需要があるのだろう。
揚州の夜の街が最も繁華であった2008年〜2010年を想起すると、現在の揚州の夜は相当に静かである。東の空が白むころにようやく屋台が店じまいを始めるといった、あの夜更けの喧噪はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
店の中には若干の若者がくつろいでいたが、全般に閑散としている。この店でD君と1時間ほど今後の事を相談し、店を出た。宿に帰ると門が閉まっていたのであるが、呼び鈴で帰宅を知らせると家人が開けてくれたのである。こうした民宿は門限があるので、帰宅時間と夜間外出には注意しなければならない。家人はほとんど寝静まっているようなので、我々も早々に自室に退散し、寝についた。
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翌朝。朝の白い窓から、晩秋の揚州の光が部屋に淡く滲みだしている。家屋が密集しているためか、窓に曇りガラスがはめ込まれているので、寝る前に厚手のカーテンを閉めなかった。せっかくなら朝の光で目を覚ましたかったからでもある。
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昨夜までの冷たい細雨からは案に反して、この季節の江南にしてもいささか珍しい、念入りに掃いたような青い空である。窓外の景観を鉄筋コンクリートの白い建物がふさいでいるのは致し方ないとして、手前にはここにあること幾星霜といった風情の、黒く薄い甍が魚のうろこのように重なっている。眼下には路面も壁も新旧のレンガに囲まれた路地が見える。伝統的には”青磚”、つまりは青灰色のレンガであるが、ところどころ他所から運ばれたのか赤いレンガが見えている。

話がそれるが、三島由紀夫の「文章読本」には、上手な文章の書き方の原則として「形容詞を多用しない」というものがある。形容詞というのは名詞にくらべて不安定で、時代や地域によって変化しやすいものだから、ということである。言い添えれば、形容詞の多い文章というのはたしかに主観的に偏った印象を受ける。何でも「美しい」では何が美しいかわからない。
「青い」や「赤い」のような色彩にかかわる形容詞も要注意で、たとえば大陸中国で「青い」といった場合は、かなり黒に近い色が想起される。日本人がイメージする「ブルー」は「藍」である。だから「青磚」といっても、ほとんど暗灰色のレンガである。墨に「青墨」があるが、いわゆる”ブルー”ではない。
三国志における「赤壁」の「赤」についても、「赤」が「レッド」を指すことは稀である。通常は「レッド」は「紅」である。「赤」は「赤子」ないしは「赤裸々」というように「むきだしの」という意味が原義であるから、赤壁というのは「あかい壁」ではなく、むき出しの河畔の岸壁の事なのではないだろうか.......話がそれた。
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部屋は民宿にする際に改装したのであろう、白い壁紙の壁面は新しいが、窓の木桟には時代のついたつやがにぶい光を放っている。墨色にも通じる話であるが、手沢にまみれた翳りを帯びた光は好ましいものである。大陸の都心というのは昔も今も人工物で囲まれており、地面が露出したところが少ない。その隙間隙間に工夫を凝らして住人が植物を植えこんでいる。
こういった民宿に逗留しながら2〜3日ゆっくり滞在したいところであるが、今日の夕方には上海に戻らなければならない。
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朝食はいつもの国慶路沿いの「五亭吟春茶社」へ。文思豆腐(10元)をふたつ、三丁包(3元)と五丁包(8元)を二つづつ、虾仁蒸餃(3.5元)をふたつ、小籠蟹黄湯包(15元)をひとつ、蟹黄獅子頭(15元)ふたつ、を注文する。このお店もわずかづつであるが値段が上がっていて、数年前は1.5元だった三丁包が3元に上がっている。しかし湯干絲の小皿が6元、普通の小籠湯包(五個)が8元、あるいは麺とスープだけの陽春麺が4元というのは、物価高騰の著しい江南にあってはまだしも穏やかな方である。
”蟹黄”はこの季節が旬である淡水の蟹肉と蟹味噌を肉の餡に混ぜたもので、普通の湯包や獅子頭(肉団子)より少し値が張るがたまにしか来られないのでいいだろう。この店は観光客にも有名になってしまったのであるが、地元の人にとっては依然として忙しい朝に朝食をとったり、包子をテイクアウトして職場に向かう店なのである。

朝食後、午前中に用件を済ませると、少し空いた時間を使って揚州文物商店をひやかす。揚州文物商店は、硯の売り場が大きく縮小し、ながらく二階にあったの硯のショーケースが書画とともに1階に移ってきている。むろん、買おうと思うモノには出会えないし、相場もずっと高くなってしまっている。
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ついで文物商店から程近い、銀杏の巨木が色づいた天寧寺の骨董街の散策で過ごすことにする。昔は地方都市の骨董街は上海の骨董街よりずっと安かったのであるが、今や情報化によって相場が変わらなくなってしまっている。高い家賃を払って古玩城(骨董ビル)に店を構える業者も減り、インターネットでの取引をもっぱらとする方が主流なのである。ここでもモノを買うというよりは、秋の天寧寺の境内散策と合わせて、骨董街をのぞいてみる、くらいの趣向である。
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そこで骨董ではないが、なかなかよく焼けた釣窯のティーセットが一式売られていた。価格は50元と破格である。どこかに瑕疵があるのだろうが、普段使いには申し分ない格好である。とはいえ、釉薬には発色のため鉛や重金属が使用されている可能性がある。
釣窯は基本的に酸化銅、酸化チタン、酸化錫などが使用される金属であるが、発色の隠し味に何を使用しているかは定かではない。使用にあたっては注意が必要である.....と思いながら買ってしまう。怖いのは鉛であるが、たまに酒器につかうくらいは大丈夫であろう。

その後軽く昼食をとり、やはり”滴滴”で車を探す。今度はなんと上海まで帰る車が見つかったということで、一息に上海に戻ったのである。帰途は車中で眠りっぱなしであったので、取り立てて書くべきことがない。それにしても手軽になったものであるが、滴滴を使うには現地の携帯電話番号を持ち、決済の口座がないと利用することができない。その点、改善してほしいところでもあるが、当局者としてはトラブルの発生を考えると、外国人にはあまり利用してもらいたくないのかもしれない。
ともあれ今回もD君には感謝感謝、である。
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