江夏黄氏縁起 〜黄祖=黄承彦考1

何回かに分けて、黄祖=黄承彦の考察を掲載しようと思うが、今回はまず江夏に栄えた一大宗族である黄氏の起源について概説したい。

詩詞を以て朝政を誹謗したと告発された「烏台档案」によって蘇軾は黄州に流罪となり、自ら荒れ地を開墾するなど辛酸をなめた。しかしこの地で文学上の成就を得、「東坡八首」「黄州寒食詩」「赤壁賦」などの傑作を残している。筆者も数年前に蘇軾が「赤壁賦」のモチーフにしたといわれる黄州“赤鼻磯”を訪ねた。かつての黄州は現在の湖北省の黄岡市の行政区内にあたる。
黄岡市以外にも、湖北省の武漢周辺には黃陂、黃安、黃梅、黃石、というように「黃」の字から始まる地名が多い。それは古来よりこの地に「黄」姓の一大宗族が栄えていたことに因(ちな)んでいる。
現在の武漢市、古くは江夏と呼ばれた地域に盤踞した“黄氏“の起源をたどれば、戦国春秋時代にまでさかのぼる。
” 潢川黄国“という小国が、現在の河南省潢川県にあたる地域に存在したという。この国はやがて南方の大国、楚の伸張にしたがって滅び、楚の版図に吸収された。黄国の支配者階級である”黄姓“をもつ一族は、ある者たちはこの地にとどまり、またある者たちは楚の国一帯に分散したといわれる。
この” 潢川黄国“に起源をもつ黄氏の中から、戦国四君のひとり、春申君こと黄歇(こうあつ)が現れる。
黄歇(こうあつ)ははじめ楚の襄王に仕える。考烈王の元年に(前262)楚の宰相に任じられ、春申君に封じられる。この春申君黄歇の封地はまたかつての“潢川黄国”は存在した土地であった。(ゆえに現在の潢川県は清朝にいたるまで”春申鎮“と呼ばれていた。)

「史記」では春申君は食客三千人の中の一人、李園の妹(李夫人)を寵愛し、李夫人は身籠る。やがて李園の献策で春申君の子を身籠った李夫人を、嫡子のなかった考烈王に献上する。李夫人が生んだ子が次代の楚王となれば、(実父の)春申君が楚を手に入れる、という計略である。李夫人は王后となり、外戚の李園は重職に抜擢されるが、この秘事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになる。そして考烈王の病没後、棘門で春申君は暗殺され、一族は皆殺しになったという。
ただこの話は、秦の始皇帝と呂不韋との関係にも類似の秘話がある。いずれにせよあまりにドラマチックな王宮秘話であり、春申君の最後についても実話とは考えにくいところがある。

ところで大陸における同姓の宗族の系譜を記した書物を「宗譜」という。いうなれば大家系図で、主だった祖先の事績も記されている。同姓の宗族といっても、時代を経ながら大陸全土に分居枝分かれしてゆき、たとえば”潮州黄氏”や”江夏黄氏”といったように分派してゆく。分派した宗族がそれぞれ「宗譜」を編纂し、また時代をへて加筆再編集を重ねるため、同姓の宗族の「宗譜」であってもいくつかのバージョンが存在する事が多い。さかのぼればそれぞれの「宗譜」に共通の祖先の事績が記載されているのであるが、その内容に異同があることも珍しくない。
「黄姓簡史(中華姓氏簡史叢書・江西人民出版社)」に拠れば、(仔細は省くが)黄氏には何種類かの「黄氏宗譜」が存在する。その「宗譜」のいくつかに、暗殺された春申君の長子の黄尚は、難を避けて江夏県城から三十里離れた黄鶴郷仁義村に遷居したという記載がある。また春申君は黄鶴郷仁義村に葬られたという。この黄鶴郷仁義村が、江夏(現武漢)を中心とする湖北省一帯に黄氏が繁栄する基礎になったという。
仮に複数の「黄氏宗譜」の記載が真とすれば、肝心要(かなめ)の長男が生きているのだから、史記にある「一族皆殺し」は疑わしいところである。
宗譜の記載が真、とは断定できないものの、その後もこの地方から黄姓の著名人が輩出していることから、黄氏が栄えていたのは事実である。春申君にしてもあるいは楚の宮廷における権力闘争に敗れるなり、老いるなりして郷里に隠棲した、というのが実情に近いのではないだろうか。
春申君がよほどの無道を行った、という事績は見当たらない。暗殺などすれば春申君の「食客三千人」が黙っているはずがなく、古くからこの地に勢力を張る一大宗族である黄氏一族も平穏ではいられなかっただろう。流れ者の食客に過ぎない李園が地元の大勢力を向こうに回すというのは、いささか飛躍が過ぎるのである。

『史記』に拠れば、楚は考烈王の死後、李大后の生んだ幽王が即位する。そして李園が宰相となり外戚として専横を振るった。ついで哀王の時代、(哀王の庶兄といわれる)負芻の反乱にあって哀王は殺害され、負芻が楚王に即位し、李園は李大后ともども殺されたという。負芻の簒奪後、ほどなくして秦の王翦、蒙武の侵攻で楚は滅びることになる。
あるいは楚の衰滅の原因を李園の専横に負わせるべく、ことさら李園の悪事を仕立てあげたのかもしれない。
もともと春申君・黄歇(こうあつ)の食客であった李園が春申君を殺害したとすれば、これほど仁義にもとる行為はなく、仁義にやかましい当時のこと、とても衆望は得られなかっただろう。

武漢の名勝“黃鶴樓”の“黃鶴”は、仙人が壁にミカンの汁で描いた黄色い鶴に乗って雲中に去る、という伝説に因む、とされる。しかしそれとは別に、江夏の南部一帯は黄鶴郷という地名で呼ばれており、「黄氏宗譜」のいくつかには、春申君は黄鶴郷の出身であったという記載がある。
通常、亡骸は故郷の一族の墓地に葬られる。黄歇が黄鶴郷仁義村に葬られたのだとすれば、黄歇の郷里はもともと黄鶴郷仁義村であったとも考えられる。
“黄”の字のつく地名が黄氏に由来するのだとすれば、”黃鶴”は黄氏の居住に由来する地名であり、春申君こと黄歇(こうあつ)がその地に本貫をもっていた可能性もある。

しかし春申君こと黄歇が江南黄氏の祖である、という説には異論も多い。あくまで黄氏宗譜の主張するところであり、多くの宗譜は起源を歴史上の著名人に求める傾向があるからである。
史料に「どこどこの人」と出身地が書かれていても、それは出生地とは全く異なる本籍地であったり、逆に本籍地がわからず出生地が記録されていると考えられる場合もある。黄歇の一族が河南から湖北の江夏の黃鶴郷に難を避けたのか、あるいは黄歇よりずっと前の代に黄鶴郷を本籍としていたのか、という点に関しては判断にたるだけの史料はみつからない。
しかし江夏を中心に、”黄”の字をもつ地域が散在しているところを見ると、「黄姓」をもつ宗族が中原に存在した小国に起源をもち、他の宗族がそうであるように、北方からの圧力を受けながら徐々に南下した、という事はいえるのかもしれない。同姓の宗族が集団で移住し、その移住地を姓をつけて呼称するという例は、南方によくみられる現象だからである。

さて黄氏の江夏安陸(現在の雲夢県東南一帯)中心に栄えた一派を安陸黄氏(または江夏黄氏)という。先の黄鶴郷とも重複する地域であるから、言うなれば安陸黄氏は黄歇の後代、という見方もできる。この安陸黄氏から、前漢の名臣、黄香が出る。
落款印01


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