黄香以降の黄氏 〜黄祖=黄承彦考2

前回は江夏黄氏について、戦国春秋時代の楚の春申君にまつわる、いささか伝説的な起源を紹介した。つまり江夏黄氏も中原の諸侯国に起源が求められ、また戦国春秋時代の大国の名門の流れをくむ、という事である。
この辺の話は、ヨーロッパの王室が起源をたどれば皆古代ローマの貴族の家系につながる”という事になっている”という、いささか信憑性に乏しい系譜とも似通った事情があるのだろう。
しかし北方から絶えず異民族の侵入を受け続けてきたのが大陸の歴史であり、中原の諸宗族が戦乱を避けて長江の南へ遷移していったのという点については信じてよいのではないだろうか。徽州製墨の起源も、もとは河北の易水に起源が求められるのもその一例である。
 
今回は時代を下って主に後漢(東漢)時代の名臣、黄香から三国時代までの黄氏の系譜をたどってみたい。結論的にいうと”黄氏宗譜”で特定人物の系譜をたどるのは、そのままでは正確性に問題があることがわかる。
 
後漢の黄香について述べる前に、黄姓で史書に名を残す人物として前漢の黄霸(前130-51年)について触れておこう。字(あざな)を次公といい、淮陽陽夏(現河南省太康県)の人である。漢書第八十九巻・循吏傳第五十九に名を連ねる人物であり、官位は丞相に登っている。
黄霸の事跡については別所に譲るが、黄霸は黄歇から数えて六代目の子孫にあたるという。しかしこの黄霸の家系は王莽の乱の際に途絶えたとされているので、次に述べる江夏黄氏とは一応別系統とみなされる。
 
江夏一帯の黄氏は、ひろくは江夏黄氏と呼称するが、江夏黄氏の中でも安陸を中心とした宗族は特に安陸黄氏とも呼ばれる。
安陸は三国時代は江夏郡に属していたが、現在の安陸市は武漢市の北西に位置し、孝感市の行政区画に入っている。また安陸市の北は随州市、南は雲夢県に接している。上流から随州、安陸、雲夢、武漢の順に府河という河川で連絡し、府河は武漢で長江に注いでいる。府河は多くの支流を持ち、この地域の水運物流に貢献しているが、三国時代においても安陸と江夏(現武漢)は府河によって互いに連絡の良い地域であったことがうかがえる。
後漢(東漢)時代、この安陸の黄氏から名臣黄香が出る。
 

黄香


黄香(68-122年)、字(あざな)は文強は江夏安陸の出身である。父は黄況といい、葉県(河南省)の県令を務めた人物である。
黄香はいわゆる”二十四孝”に数えられ、”扇枕温衾”の故事で知られる。九歳のころすでに”天下無双、江夏黄香”の名声があり、官位は尚書令にまで登った。
122年に魏郡太守に赴任したが、この年水害が魏郡を襲う。黄香は私財をなげうって救済にあたったが、結局災害復旧の責任を問われて免官となり、その数か月後に死去した。

”天下無双、江夏黄香”と称えられたことから、黄香は間違いなく江夏の出身であると言って良いだろう。あるいは安陸黄氏の祖、とみなしてもいい人物である。
この黃香は八人の男子をもうけたという。すなわち黃瓊(世英)、黃瑰、黃院黃琛、黃瓚、黃珂(世藻・冀州刺史)、黃珮(世尉)、黃理、である。
名に同じ”玉偏”の付いた字を当てているが、同じ宗族の同世代の子弟に同じ一字を使用したり、同じ偏旁をしようして命名する(拝名制)は当時ひろくおこなわれていた。

三国時代は一般的に名が一文字で字(あざな)は二文字である。二文字で構成される字(あざな)には、同じ一文字を使用することがある。黄香の息子すべての人物の字はわからないが、世英、世藻、世尉というように”世”の一字を共有しているのだろう。
黄香の息子のうち、黃瓊(こうけい・86-164年)、字は世英である。すなわち

黄況--黄香--黃瓊(世英)

である。

一家から傑物が二代続くことは稀であるが、黃瓊の栄達は父の黄香以上であった。この稿の目的から逸れるのでその功績は詳述しないが、官は司空、太仆、司徒、太尉等、いわゆる”九卿”と”三公”を歴任し、死後は車騎将軍を追贈され、謚号に”忠”の一字を許されたほどの顕臣である。
漢王朝はこのころから宦官の勢力が大きくなる。黃瓊はたびたび宦官の害を除くことを訴えたが、その弊害をただすことが出来なかった。
ともあれ県令どまりであった家庭から黄香、黃瓊の親子二代にわたって漢王朝の重臣をつとめ、ともに優れた業績を残した事が、漢代における安陸黄氏の名声を確立したことは間違いないだろう。
この”位人臣を極めた”黃瓊の孫に、ようやく”三国志”の序盤で著名な黄琬が出る。

黄琬

黄琬(141-192年)、字は子琰は、黄香の曽孫にあたるという。その父親は早世しており、黃瓊の息子のうちの誰の子であるかは「宗譜」によって諸説ある。

黃瓊には陳氏、顔氏、李氏の三人の夫人がいて、併せて14人の男子が生まれたという。このうち李氏の生んだ三人の男子、黄賁、黄賛、黄資のうち、黄賁、字は子貴が黄琬の父親であるという。
黃瓊の息子は”貝旁”を持つ一字を名の共通にしたのだろう。

黄香--黃瓊(世英)--黄賁(子貴)--黄琬(子琰・公琰)

という事になる。黄琬(141-192年)字は子琰(あるいは公琰)は幼い時に父を亡くし、祖父の黃瓊に育てられた。
黄琬の琬は、黃瓊の世代と同じ”玉旁”をもつ文字であるが、これは異例である。字が子琰と公琰のふたつがあるが、子琰は父親世代の字に使われる”子”の一字がある。これは祖父の黃瓊が育てた事に由来するのかもしれない。”公琰”の”公”は後述するが、黄琬の世代の字に共有する一文字と考えられる。
周知のとおり、黄琬は董卓の長安遷都に反対して罷免され、後に王允、呂布とともに董卓暗殺を画策して成功している。しかし李傕、郭椶陵陲虜櫃僕傕に捕らえられ、屈せずに獄死する。黃瓊に育てられただけに、黄香から黃瓊以来の黄家の男の硬骨を受け継いでいた、と言えるだろう。
しかし非常な権門の家系にかかわらず、黄琬の父親がはっきりしないというのは、後漢(東漢)末から三国時代の戦乱によって、記録が亡失してしまった事が察せられるのである。
 
ともあれ、黄香、黃瓊、黄琬については史書(後漢書)に傳をもち、生卒年もわかっている人物たちである。次に三国時代の黄姓の人物について述べてゆくが、『演義』の世界で大活躍する著名な人物であっても、その生卒は未詳で、また系譜もはっきりと確かめ難いのが事実である。そもそも「宗譜」ないし「族譜」によっても主張が違い、時代的に矛盾する記載もある。「宗譜」を盲信するのは危険という点は、注意しなければならない。
 

黄蓋


苦肉の策”で有名な呉の名将、黄蓋(字は公覆)についてみてみると、まず『三国志・呉書』の記載では、

「故南陽太守黃子廉之後也,枝葉分離,自祖遷於零陵,遂 家焉。」

とある。すなわち南陽太守の黃子廉という人物の後裔で、黄蓋の祖父の代から零陵に移り住んだ、という事である。
この黃子廉という人物の生卒年は未詳である。後に東晋陶淵明が”詠貧士”という連作の詩の其七に黃子廉の名があるが、陶淵明の詩の中の黃子廉は本当は別の人物であるという指摘もあり、はっきりしない。
『黄姓簡史』に拠れば、南陽太守黃子廉は名を”守亮”といったという。二文字の名はこの時代珍しい。”子廉”は字(あざな)とすると”子”の一字を共有する黃瓊の息子世代の人物のように思われる。
南陽は洛陽から南下し、襄陽へ至る途上に位置する。この地域の黄氏宗族の一派を特に”南陽黄氏”というが『黄氏宗譜』では南陽黄氏の祖が黃子廉であるという。

『黄姓簡史』に拠れば、『古今姓名辨証』という書籍では黃子廉は黄香の孫、と主張されているという。たしかに黃子廉の”子廉”が字とすれば、これは黄香の孫世代が字に共有するであろう一文字が”子”であるという拝名規則と一致する。
しかし別の「宗譜」では、黃子廉は黄香よりももっと前の世代であり、黄香こそが黃子廉の後代なのだという。

話を黄蓋に戻すと、『呉書』には「(黄)蓋少孤,嬰丁兇難,辛苦備嘗。」と、黄蓋が幼くして父親を失い、艱難辛酸を舐めた、と書いてある。また前述の『呉書』の記載をそのまま読む限り、黃子廉の後代にあたる黄蓋の祖父が零陵に移り住んだ、と読める。前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄蓋の系譜は

黃香--黄瓚--黄安(孚仁)-黃蓋(公覆)

とある。つまり黄蓋は黃瓊の兄弟、黄瓚の孫ということになるのである。その場合、黄蓋の字は”公覆”であるから、黄琬の”公琰”と同じく”公”を共有する、とも考えられる。
黄蓋はともかく、その祖先の南陽太守黃子廉については、黄香より以前の人物なのか、黄香の孫なのかすら「宗譜」では判別しがたいのである。
 

黄権


また蜀から魏に仕えた黄権(?-240年)について考えてみたい。
先に『黄姓簡史』を参照すると、

黄香--黄瓉--黄?(孚智)--黄権(公衡)

とある。この系譜を真とすれば、黄蓋と黄権は祖父が共通する”いとこ”という事になるのだが......父親については、名が”孚智”である、という宗譜もあるが黄蓋の父黄安の字が孚仁であるというのだから、これはやはり字(あざな)ではないだろうか。この世代は”子”の字を共有するはずであるが、そのかわりに”孚”が充てられている、とも考えられる。しかし”名”については未詳である。
周知のとおり、黄権は劉備の東征の失敗によって孤立し、魏に降伏する。後に魏で曹丕に重用され、車騎将軍、儀同三司(三公と同等の待遇)にまで登り詰めるほどの人物である。また黄琬の子、という説もある。しかし字に”公”の一字を共有するという事は、黄琬や黄蓋と宗譜上の同世代であることを示唆している。
もっとも、宗譜上の同世代といってもかならずしも同年代を意味しない。今の時代より、兄弟ですら親子ほどの年齢の隔たりは珍しくない時代であることは注意が必要である。

また『三国志・蜀書』に拠れば黄権は益州(現四川省)の出身ということになっており、江夏黄氏とは縁がないようにも見える。しかし史書における「〇〇の人」という出身に関わる記載は、実際の出生地の場合もあるし、本籍地の場合もある。また歴史に登場した地域をもって、あたかも出身地であるかのように(編纂者の類推によって)記録されていると考えられる場合もある事は、注意しなければならない。
黄権の場合、はじめ巴西郡(現四川省と重慶間)の郡吏からキャリアがスタートしている。郡吏は現地採用が多かったから、黄権をこの地方の出身としているのかもしれない。
 

黄忠
 

さて、三国時代の黄姓の著名人というと蜀の名将、黄忠を外すわけにはいかないだろう。
まず『三国志・蜀書』の記載に拠れば「黄忠字漢升、南陽人也」とある。また『黄姓簡史』を参照すると(黄氏宗譜の幾つかに)まず黄忠は南陽の人であり、南陽太守、黃子廉の後裔と主張されているという。
黃子廉の子が黄瓉、その子に黃簪、その子に黄知頃(字は煌霖)という人物がおり、その黄知頃の長男が黄忠、次男が黃賁という人物だという。上記をそのまま整理すると、
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)

であるという。まず、黃子廉の子が黃瓚、とあるが黃瓚は黄香の八人の息子のうちのひとりに名がある。むろん、あるいは黄香と黃子廉が同世代で、偶然同じ名を男子につけた.....という可能性がゼロではない。しかしかなり不自然な見方であろう。
しかし黃子廉の子が黃瓚というのは、先の黄蓋の系譜における黃子廉と黃瓚との関係を思い起させる。
また『黄姓簡史』には別の主張があり、黃瓚には孚仁、孚義、孚礼、孚智、孚信という(いささか出来すぎでいるが)五人の子がおり、孚智の子が黄権、孚信の子が黄忠、であるという。それが真であれば、

黃瓚--黄孚信--黄忠

である。また先に黄蓋が孚仁の子である、という事は述べた。つまり三人は従兄弟同士、という事になるのだが.....

参照した『黄姓簡史』は複数の「黄氏宗譜」を参照して書かれているが、各地にちらばった黄氏がそれぞれに編纂してきた「宗譜」にはかなりの異同があり、いわゆる”正史”と対比すると矛盾するところが多い。

また三国時代も”養子”は頻繁に行われていたから(劉備の養子、劉封など)年齢や年代と世代が一致しないことも珍しいことではない。それを無理に血縁上の関係に辻褄あわせを行った可能性もあるのだから、まずうたがってかかるのが無難なのであり、宗譜・族譜を史料として盲信するのは問題がありすぎるのである。
 
「正史」に傳のある黄香、黃瓊、黄琬あたりは史実として差し支えなく、黄香以下の安陸ないしは江夏黄氏に属するとしても良いだろう。しかし黄蓋、黄権は黄香の宗譜上は黄香の後裔であるが、黄蓋はその祖が南陽太守黃子廉という事で、南陽黄氏の後裔という主張がある。さらに黄忠の系譜については、ひとまず参考程度に考えておくべきであろうが”南陽の人”と蜀書に記載があることから、黄蓋と同じ南陽黄氏という事もできるかもしれない。
また黄琬、黄蓋、黄権の三人については、字(あざな)に”公”を共有することから、宗譜上の同世代という可能性があるという事くらいは、留意していいのかもしれない。
 
ところで黄蓋、黄権、黄忠の三人は、有為転変の激しい人生を送っている。黄蓋は零陵から孫堅に従軍して涼州や中原を転戦し、また黄権は蜀に仕えながら魏に降伏して魏の重臣として生涯を終え、黄忠は劉備に従って蜀に入り、漢中の戦いで活躍している。
とはいえ黄忠の出身地である南陽郡は荊州に属し、史書に登場するのはやはり荊州南部の長沙への赴任である。また南陽太守の後裔である黄蓋は、その出生地とされる零陵も荊州の南部である。
 
黄権の出身地である巴西郡閬(ろう)中県は益州の管轄下であるが、夷陵の戦いで黄権が魏に降伏した当陽は、やはり荊州の南郡に属している。劉備は黄権に長江北岸方面の魏軍を防ぐ事を命じたのであるが、地理に暗いものには託せない任務である。またあるいは、そこに黄権と江夏黄氏との関係性にたいする配慮(疑念)が作用した可能性もある。江夏ないし荊州の黄氏は、黄蓋の例ではないが蜀と呉の両陣営に分かれていると考えられるからである。
宗譜上の関係はうのみに出来ないとしても、やはり「三国志」における黄姓の人物には、黄姓の多い江夏を含む荊州との関係がある、ということは言えるのではないだろうか。
 
江夏ないし安陸黄氏といい、宗譜をたどっておきながら、かえって宗譜が史料としてあてにならない事を示したようなものである。しかしあえて次回は黄承彦、黄祖について、やはり宗譜上の位置づけを考えてみたい。
落款印01


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