宗譜の混迷 〜黄祖=黄承彦考3

前回は黄香以降、主に後漢〜三国時代における黄姓の人物の系譜について概観した。今回は黄祖と黄承彦の宗譜上の位置づけの考察に入りたい。が、その前に後漢時代の地方官制度と、その禁令である”三互法”について簡単に触れておきたい。
 
刺史、牧、太守
 
まず後漢の地方制度であるが、詳細は別所に譲るが、
州の下に郡、郡の下に県がおかれ、全国は13州、105郡、1180県があったという。州には刺史ないし州牧(あるいは単に牧)、郡には太守(郡太守)、県には県令が任命された。
漢代は州を監督する刺史が置かれたが、時代によって州牧へ改められ、また刺史に改められるなどした。郡ごとに置かれた太守を監督するのである。
三国時代は刺史と州牧が並立しており、州ごとに刺史ないしは州牧が置かれた。同じ州に刺史と州牧が置かれることはない。また刺史が州牧に改められることもあった。徐州の陶謙は徐州刺史に任命されたが、後に徐州牧に改められている。それは劉表、劉璋等も同様である。
ともとも刺史は監察官であり、また州牧は行政長官としての意味合いが強かったが、後漢末にはどちらも実質的に州の最高責任者として太守の上位にあり、行政・軍事に大きな権力を持っていた。
とはいえ孫堅は荊州刺史王叡を殺害し、袁術は揚州刺史陳温を殺害するなど、地方軍閥が刺史・州牧を凌ぐ実力をもっており、いかに乱れた時代であったかがわかる。

また刺史・州牧は朝廷によって任命されるが、郡の太守は刺史・州牧が任命する。実際には朝廷にお伺いを立て、承諾を受けるのであるが、刺史・牧の推薦がなければ太守になることは出来ない。
ところがこれも世の乱れの表れであるが、事後承諾を良いことに各地の刺史・牧が勝手に太守を任命し始め、また互いに攻伐を繰り広げるようになる。
 
三互法
 
刺史・州牧・太守、県令が置かれたが、これらの官は自身の本籍地が置かれた行政区(州・郡・県)では官にはなれない、という法令があった。また姻戚関係のある家も、相手のの本籍地のある行政区では官にはなれない。つまりは妻の本籍地でも官にはなれない。
たとえばA州の人がB州の刺史になった場合、B州の人はA州の刺史にはなれない。さらにはA州の甲氏がB州で刺史になり、またA州の乙氏がC州で刺史になった場合、C州の人士はA州でもB州でも刺史になれない。それは姻戚関係でも同様である。
劉璋は荊州江夏が本籍だから益州の牧になれるが、荊州の牧にはなれない。劉表は兗州が本籍だから荊州の刺史に任命することが出来る。

このような法令があるのは、もちろん地元の有力者との癒着を防ぐためであるが、厳格に実行しようとすると候補がいなくなり、刺史や州牧が空席のまま、という事態を招く弊害もあったようである(後漢書・蔡邕傳など)

しかし刺史(牧)・太守・県令等の行政府における属吏(地方役人)はその限りではなく、地元の人物から採用された。現実問題、そうしなければ行政実務に支障をきたすであろう。
地方の行政長官に地元の人物を任命しないというのは、いわば中央集権制の矛盾である。地方を一元的に中央政府のコントロール下におこうとすれば、その地方に縁のない人間を赴任させるしかない。しかしそのようにして任命された行政長官は、地元の有力者の協力なしには何も出来ないのである。また世が乱れてくれば、地元の反乱によって真っ先に攻撃されるのは中央に任命された行政長官である。ゆえに行政長官と地方豪族とで、積極的に姻戚関係が結ばれる事は珍しくはない。
またこの”三互法”があるために、ある程度の官吏となる資格能力のある士人達は、必然的に本籍地ないしは出生地を離れる事になる。
また”三互法”から考えれば、ある人物が刺史、太守、県令となった場合、すくなくともその地域がその人物の出身地である可能性は低い、という事が考えらえるのである。しかしあくまで可能性、というのは後漢末の世の乱れを考慮した場合、どの程度厳格に三互法が実施されていたか?についてはいささか不明瞭だからである。
たとえば劉表は荊州襄陽郡の蔡諷の娘を後妻にしている。それは荊州に刺史として赴任した後の出来事であろうが、”三互法”を厳格に適用するならば御法度であろう。

以上を踏まえて、黄承彦、黄祖の系譜上の位置づけを見てゆこう。

黄承彦

まず黄承彦の系譜であるが、前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄香の後裔ではなく、黄香の兄弟、黄季という人物の後裔であるという。すなわち黄香の父親、黄況からたどれば、

黄況--黄季(文盛)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

となるという。黄季、字は文盛は黄況の末子であるという。官は典(官)、すなわち宮中の給事官といっても、本当に宮中で勤務していたかはわからない。宗譜に記載されている官位は、晩年、あるいは没事に朝廷に礼金を積んで買った官位の場合も少なくないからである。ともあれ名に「禾(のぎへん)」を共有し、字には黄香と同じ「文」の一字を共有している。
黄季は龐氏を娶り、黄理が生まれた。黃瓊と同じく「玉偏」を共有している。その次男に黄孚勇が生まれる。
黄孚勇の名は不明だが、字にこの世代の「孚」を共有している。黄孚勇は刺史に登ったという。刺史といえばかなりの地位であるが、どの州の刺史を務めたかは未詳である。何氏を娶り、その一子が承彦であるという。
以上が正しければ何の問題もないのであるが、黄承彦の祖父、黄理は”黄香八子”と呼ばれる黄香の息子のひとり、と記載されている宗譜もあるという。その場合は、

黄況--黄香(文強)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

という事になる。このように「黄氏宗譜」によって系譜の記載に異同があるので、実際のところを突き止めるのは難しい。ともあれ、宗譜をみても黄承彦の「名」は未詳である。”承彦”は字(あざな)ではなく名という事も可能性はゼロではないが、この時代に二文字の名は僅少である。仮にある人物について二文字の名としている記述があっても、字(あざな)が未詳である場合はこれが字である可能性もある。宗譜の上でも名がわかって字(あざな)がわからない場合もあれば、字がわかって名がわからない場合もあるのである。
次に、黄祖についてみてみたい。
 
黄祖
 
前回、以下の黄忠の系譜を掲載した。
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)
 
この黄忠の弟に、黃賁という人物がおり、その二人の息子、和璞と自溟のうちの自溟の子が黄祖であるという。

黃瓚-黃簪-黃智頃-黃賁-黃自溟-黃祖

この主張を信じるならば、黄忠は黄祖の”大伯父”という事になる。しかしこれは明らかに無理がある。
後漢の初平元年(190年)に劉表が荊州にはいる。初平二年には袁術は孫堅を派遣して劉表を攻めるが、この時に黄祖は江夏太守として孫堅を迎撃している。また建安二年(208年)に禰衡が黄祖によって処刑されるが、この時に長子の黄射は章陵太守であるという。つまり太守を任されるほどの息子がいる年齢、という事である。

一方の黄忠である。劉表は荊州刺史に赴任後、南陽以外の七郡を支配する。その後、劉表の甥の劉磐を長沙の攸県守備に派遣し、黄忠を中郎将として随伴させている。(この時の長沙太守は張仲景という)
軍職の中郎将であるが、いわば劉磐の副将格である。軍中にあっては低くない地位であるが、所詮は攸県という県の守備隊であり、県より上の一郡の行政・軍政を司る郡太守とは比較にならない。普通に考えれば、黄忠は黄祖よりもかなり若い年代のはずである。ゆえに黄忠の弟の孫が黄祖、というのは考えにくい。
 
ちなみに”老名将”とされる黄忠であるが、実際は関羽よりも若かったのではないか?と考えている。黄忠は220年卒であるが、生年が未詳である。正史をひもといても、黄忠が劉備に仕えた時点ですでに老年であったという証拠はない。ただ『蜀書・費詩傳』に

「先主為漢中王,遣詩拜關羽為前將軍,羽聞黃忠為後將軍,羽怒曰“大丈夫終不與老兵同列”不肯受拜。」

とある。関羽を前将軍、黄忠を後将軍に任命した人事に関羽が怒り、使者の費詩がなだめ諭した故事である。しかしこの「老兵同列」の「老兵」は、ベテラン兵、というほどの意味でかならずしも”老人”を意味しない。老人に兵隊など務まらないのである。関羽としては荊州以来の、部隊長からたたきあげの新人に並ばれてしまったのが不満だったというわけであり、むしろ黄忠の方が関羽よりはずっと若かったはずである。おそらく戯作や『演義』では、この「老兵」を拡大解釈し、戦国春秋時代の廉頗のような”老名将”の黄忠像を作り上げたのだろう。「老いてますます壮(さか)ん」というのは、不老長寿を貴ぶ大衆には受けの良い話なのである。
「正史」と突き合わせるなど、確たる考証なしに再編集を重ねたであろう「宗譜」なのであるが、この黄祖と黄忠の年代的に無理な関係も、その表れのひとつであろう。黄忠を『演義』の”老将”にしたいがために、黄祖の祖父の世代の人物にしてしまっていると考えられるのである。
 
このように史料として盲信するのはあまりに危険な「宗譜」であるが、黄祖と黄忠が比較的近い関係であった、という事は全く考えられないことではない。
黄祖と黄忠は、二人はほぼ同時期に、劉表によってそれぞれの任務を与えられている。
『蜀書』に拠れば黄忠は南陽郡の人である。荊州に刺史として赴任した劉表は当初は南陽郡など、荊州のごく一部しか掌握できていなかった。特に南部の長沙や零陵は、袁術や孫堅の影響力が残っていた状況である。劉表は荊州赴任後の1〜2年で荊州南部も掌握するのであるが、その守備の要所に身内の劉磐と南陽人の黄忠を派遣するのは不自然ではない。
また黄祖は江夏郡の太守に任命され、また黄祖の息子の黄射は章陵の太守に任命されている。(実際は朝廷に上奏して承認されるのであるが)
すなわち先の”三互法”に拠って考えれば、黄祖は江夏郡の人ではない、という事になる。黄祖は安陸黄氏ないしは江夏黄氏の出身という説があるが、いずれにせよ”三互法”に従えば江夏太守への赴任は禁令を犯すことになる。
仮に黄祖が黄忠と同じ南陽郡の人であれば、江夏太守にするのに何の問題もないのである。もっとも乱世の事であり、対孫家の最前線の要地を任せるのに”三互法”にこだわっていたとは限らない。地元の首領格の人物をそのまま太守にした、という事も考えられる。
章陵郡は南陽郡と隣接するが、仮に黄射が南陽郡の人であっても別郡であるから”三互法”には触れない。劉表が刺史に赴任当初は蒯越が章陵太守であったが、何らかの理由で黄射に交代したのかもしれない。また蔡瑁は(任期は未詳だが)江夏、南郡、章陵の太守を歴任したというから、蔡瑁と交代した可能性もある。

ともあれ、劉表時代の荊州において、黄祖の地位や権限は低いものではない。荊州の防衛という面では、北方は南陽郡を劉表自身が守り、東方最大の要衝江夏は黄祖が守っている。特にこの方面は孫家という強敵がいるため、黄祖の任務は重い。実質的にこの時期の荊州における軍事面のNo.2が黄祖であるといっても良いだろう。
ゆえに黄忠も、どちらかといえば黄祖に推挙されるような立場にあったと考えてもいい。中央から赴任した劉表が南陽や襄陽周辺にどんな人材がいるか?いちいち把握していたはずがなく、当時人材登用は推挙・推薦によるのが一般的なのである。
しかし少なくとも、宗譜を見る限りでは黄承彦と黄祖は同じ宗族といっても、遠い親戚のような関係である。しかし見てきたように、宗譜の記載にはさまざまな主張があり、また不明瞭な部分が多すぎる。やはり「正史」から生卒のわからない人物に関しては、宗譜を参照しても系譜はよくわからない、というのが本当のところなのであろう。
むろんそうなってしまったのは、後漢末から三国時代の戦乱で記録が亡失してしまったことにも拠るだろう。

ゆえに宗譜上の別人物が本当に別人物なのかも、確かな事は言えないのである。黄祖の荊州における実力は劉表存命のころは黄忠よりはるかに上であったにも関わらず、宗譜上では明らかに矛盾した、とってつけたような軽い位置にある。また黄承彦についても、黄香の後代か黄季の後代なのかもはっきりしない。そして黄祖の字(あざな)はやはり未詳である。黄承彦はの”承彦”は当時の士大夫の命名の慣例から言って、まず二文字の字(あざな)とみて間違いないだろう。

以上で宗譜上の考察はひとまず置く。ところで黄承彦の墓誌銘と考えられる拓本があるという。次回はこの墓誌銘を中心に、当時襄陽の名士であったという、黄承彦について考察してみたい。
落款印01


calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< May 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM