沔南名士 〜黄祖=黄承彦考4

前回までは、主に「黄氏宗譜」を参照しながら、系譜の上から黄祖と黄承彦の関係について考察をこころみた。結論としては、少なくとも系譜の上では黄祖と黄承彦は別の人物、という事が読み取れた。しかし同時に「宗譜」は史料とするにはいささか問題があるという事が明らかで、「宗譜」の系譜をもって史実とするにかなりの無理がある、ということもいえる。また黄祖は「正史」に別傳を立てられるほどではないにしても、それなりの量の記述をもっているにも関わらず、「黄氏宗譜」での扱いが極めて軽い、という点についても注意をしておきたい。
今回は黄承彦その人について、まずその出身地について考察してゆきたい。

そもそも黄承彦の出身地に関する記述については、三国志・蜀書・諸葛亮傳における裴松之の注にある「襄陽耆舊記(襄陽記)」という書物から引くところの、以下の内容しかない。すなわち有名な孔明の嫁選びの一節であるが、
 
黃承彥者,高爽開列,為沔南名士,謂諸葛孔明曰“聞君擇婦,身有醜女,黃頭鄂Аぜ才堪配。”孔明許,即載送之。時人以為笑樂,鄉裏為之諺曰:“莫作孔明擇婦,正得阿承醜女。”
 
黃承彥者は高爽(こうそう)、沔南(べんなん)名士に開列(かいれつ)し,諸葛孔明に謂いて曰く“聞く君は婦を擇(えら)ぶ,身に醜女(しこめ)有り,黃頭(こうとう)鄂А覆海しょく),而(しこう)して才は配するに堪う。”孔明許し,即ち載せて之に送る。時人(じじん)以為(おもへらく)笑樂(しょうれらく)し,鄉裏(きょうり)之を諺と為して曰く“莫作孔明の婦を擇(えら)ぶを作(な)す莫れ,正に阿承(あしょう)の醜女(しこめ)を得ん。”
 
一応大意を示せば、
 
黃承彥は豪快な人物として沔南(べんなん)名士に名を連ねていた。諸葛孔明に言うには「君は嫁を探しているようだが、ウチに醜い娘がいる。頭髪は黄色で色黒だが、才能は君の伴侶とするに足るだろう」孔明が承諾したので、輿(こし)にのせて送り届けた。
当時の人々は思うにそれを笑い楽しんだのだろう、その土地の諺にいうに
「孔明の嫁選びだけは真似てはならない、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらうだけだから。」
 
というところだろう。

※話が逸れるが娘を「輿」に載せて送りとどけるのは、当時の婚礼そのものである。また言葉通り黄承彦の娘が「醜女」であったとは限らない。一種の謙譲であるともとれる。むしろこの逸話が現代に伝わっている意味を考えなければならないところなのだが、その点については次回以降に触れる予定である。
 
この一節に拠れば、黄承彦は沔南(べんなん)の名士であるという。沔(べん)は沔水という河川の事である。沔水は陝西省の漢中盆地から流れ出、湖北省武漢の漢口で長江に注いでいる。長江流域の大河川のひとつである。

大陸の河川の名称は同じ一河川であっても、流れる地域によって呼称が変わることが珍しくない。沔水も流れる地域によって別称がある。
まず沔水は漢中(現陝西省)から西へのぼった勉県付近(古くは沔県)に端を発している。ゆえに沔水というのであるが、漢中盆地を貫くことから漢水とも呼ばれる。そこから東へずっと下ると襄陽があるが、この地域では襄水、襄江と呼称される。襄陽そのものが襄水の南岸だから襄陽なのである。それが武漢付近では漢水となり、武漢の漢口で長江に注いでいる。
したがって広義には、沔南といえば漢中から武漢へ至る長大な流域の南岸を指すのである。しかし武漢付近の沔水(=漢水)南岸一帯は三国時代は沔陽と呼称され、沔陽南部(現洪湖市)には赤壁の古戦場がある。この沔陽の南部を特に沔南と呼称したようで、中華民国の時代には沔南県が置かれていた。
三国時代の襄陽は現在の襄陽市とほぼ同じ地域であるが、襄陽から赤壁の古戦場のある洪湖市とではずいぶんと距離がある。

また「開列沔南名士」とある。「開列」は名簿や伝票の項目に並び掲載されることであるがここでは「名を連ねる」というほどの意味であろう。
当時の襄陽は劉表が拠点とした荊州の一大都市であるが、赤壁付近は今も昔も襄陽に比べれば片田舎である。はたして黄承彦が襄陽における名士なのか、江夏より南の沔南の田舎紳士なのかでは大きな違いである。
黄承彦は姻戚を通じて荊州刺史として襄陽を拠点とする劉表とは義兄弟であり、また孔明が襄陽付近で耕作していたことから、結局は襄陽と縁が近い、という事はいえるだろう。
あるいはこの一節の筆者が沔水と襄水を混同していたのであれば、沔南はすなわち襄陽の事を指す、という可能性もある。事実、『三国志正史』より後世の書物では、黄承彦を襄陽の人とみなしている記述も少なくない。

しかしこの孔明の嫁選びの話は三国志・蜀書の注が引くところの『襄陽耆舊記(襄陽記)』という書物に記載されており、『襄陽耆舊記』では襄陽の人物は襄陽人、という記述がみられる。一例として蜀に仕えた馬良は、

馬良,字季常,襄陽宜城人也。

という具合である。また『襄陽耆舊記』における蔡瑁も「襄陽人」と書かれている。
そもそも『襄陽耆舊記』の「耆舊記」とは、すなわち襄陽の古老の覚書き、回顧談、というほどの意味である。襄陽の人物が書き残したとすれば、襄陽と沔南を混同していたとは考えにくい。
ゆえにわざわざ”沔南名士”としていのは、黄承彦はやはり襄陽とは別の”沔南”に居住していたか、あるいは襄陽に居住しながらもその本貫は狭義の沔南(現洪湖市)付近だった、と考えることが出来る。
豪族として田地と先祖代々の墓を沔南にもちながら、主な居住地は襄陽ないし襄陽付近であり、襄陽の上流階級で名を知られていた、という解釈もできるのである。古代から中世にかけての士大夫の生活形態として、政治文化の中心である大都市に邸宅をもちながら、その郊外の田畑からの収入で生活を維持するのは珍しいことではない。
また時代によって行政区は変化するのであり、襄陽近郊の地域も後に襄陽に含まれてしまった結果”襄陽の人”というような言われ方に変化することもある。また襄陽近くの無名の地域をふくめて「襄陽」にくくられてしまう事もある。
たとえば襄陽と南陽は隣接地域であるが、諸葛孔明が晴耕雨読の日々を送っていた襄陽郊外は襄陽なのか、南陽なのか、議論が分かれることがある。

ともあれ黄承彦の出身地という”沔南”については、後に黄祖の戦歴との関係を考える際にまた触れるが”沔南”がどの地方を指すか?そこで改めて考えたい。

さて「黄承彦=黄祖」という仮説について考えるきっかけとなった文章『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』はとても面白い観点による考察であるが、詳細は原文を参照していただきたい。
その特徴的な内容は「黄承彦の墓誌銘」と思われる碑文から黄承彦の卒年を考察し、それが黄祖の卒年と一致する云々、という点にある。しかしその辺の考察ついては次回以降に譲りたい。
またこの『黄承彦其实就是黄祖』には問題もある。たとえば『劉表と黄承彦が同年の生まれ』というようなことが唐突に書かれているのだが、調べる限り黄承彦の生年は未詳である。
さらに『”江表傳”に拠れば劉表は江夏黄氏と姻戚関係を結んだ』という記述があるのだが、”江表傳”にはそのような内容は見当たらない。
いささか牽強付会な面もなきにしも有らずなのであるが、他にも注意をひく論点もある。

ひとつには『黄承彦其实就是黄祖』では黄祖と黄承彦を仮に同一人物とみなした場合、その名と字(あざな)には、意味的な対応が見いだせる、という指摘である。
漢代において、一般に名は1文字、字は2文字だったようである。むろん例外もあるかもしれないが、明確な例が見当たらない。一見二文字の名のように記録されていても、字が伝わっていない場合はそれが字である可能性がある。
また名と字は意味的に対応する関係にある場合が少なくない。わかりやすいのが「劉備・玄徳」で、これは「劉氏の玄孫、徳を備える」と読める。少し出来過ぎのきらいすらある。また関羽・雲長も「関氏の羽(人)は雲中にて長(とこ)しえに」と読める。羽人は原初的な神仙のイメージであり、雲中で長生する羽の生えた神人である。
曹操・孟徳であれば、孟は一族の長、という意味があるから「曹氏の孟(かしら)は徳操(とくそう)あり」。また夏侯惇・元譲(おそらくは元は玄に代えたのであろう)も「夏侯氏の玄孫、譲に惇(あつ)し」と読める。譲、は礼の則った人物を言う。他、諸葛亮・孔明、龐統・士元など、有名どころの人物の名と字はうまくつながっている。

仮に”祖”が名で”承彦”が字(あざな)とすればどうであろう?”彦”は”古代の有徳才人”を指す字であり、日本でも「なになに彦」というように、彦は男子の美称として用いられる。ゆえに祖・承彦「古代の先賢を継承する」という意味になり、これも名と字はうまく対応している。
もっとも、”祖”と”承彦”が名と字(あざな)で呼応しているからと言って、そのことのみをもって同一人物、とみなすのはあまりに粗雑である。あくまで必要条件、としなければならないところである。

また『黄承彦其实就是黄祖』では黄承彦と劉表の姻戚関係にも触れている。やはり『襄陽耆舊記』の蔡瑁についての項に、

漢末,諸蔡最盛,蔡諷姊適太尉張溫,長女為黃承彥妻,小女為劉景升後婦,瑁之姊也。

つまり漢代末期には「諸蔡最も盛ん」すなわち蔡氏の一族が栄えており、蔡諷は有力者と次々と姻戚関係を結んだ、という事である。
この蔡諷は蔡瑁の父親であるが、まず姊(=姉)が張溫に嫁いでいる。張溫は襄陽の南、荊州北端地域、南陽の人である。張溫は三公のひとつ太尉に上り、黄巾討伐の諸将から信頼を寄せられた。また董卓の上官として董卓をよく御しえた剛毅な人物として知られるが、最後は董卓の誣告によって拷問死を迎えている。
蔡諷の長女は黄承彦に嫁ぎ、またひとりの娘が劉表の後妻に嫁いでいる。彼女らがすなわち蔡瑁の姊(あね)というわけである。つまりは黄承彦、劉表、蔡瑁は義兄弟の間柄である。

『黄承彦其实就是黄祖』では、この点、もし黄承彦=黄祖とすれば、安陸黄氏の有力者である黄祖が劉表と姻戚関係のつながりがあったことになり、それは力関係のバランスから見て合理的だ云々、とある。しかしこの『黄承彦其实就是黄祖』の本文はいささか論理の飛躍があってわかりにくい。
しかし個人的にはこの点こそが「黄承彦=黄祖」という仮説の検討の上で重要であると考えている。次回はこの部分を詳細に考えてゆきたい。
落款印01


calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< May 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM