漢故黄君之碑 〜黄祖=黄承彦考5

前回は主に『襄陽耆舊記』の記述をもとに、黄承彦の出身地について考えてみた。

そもそも「黄祖=黄承彦」を論じた『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』という文章では、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』に基づいて黄承彦の没年を考察し、それが黄祖が敗死した建安十四年と推察している。ゆえに「黄祖=黄承彦」の論拠の一つとしているのだが、結論的に言えばこれは無理がある。
ともあれ、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』についてみてみよう。

この『漢故黄君之碑』については転載可能な図像を持たないため、興味のある方は”百度検索”等で『漢故黄君之碑』ないし『黄承彦碑』を検索して参照していただきたい。

この碑の原刻は確認されていない。拓本は2000年4月の北京『文物天地』という雑誌に、趙地、劉漢屏兩氏によって発表された一文『黄承彦碑』に掲載された。この文によれば『漢故黄君之碑』の拓本は趙地氏が1977年に天津の古書店で買い求めたものであるという。「漢故黄君之碑」という篆文の題字があり、また碑の下半分は剥落し、上半分のうちおよそ180字が認められる。
全文は後漢時代のフォーマルな書体である豊麗な隷書体で書かれている。
(□は剥落して読めない個所)

先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・
當其時若先生者感天之誌剛堅□□□□□
之稟性純誠音洋溢乎朝野天資剛健□□偉
績載記於史冊有果毅之志無畏葸之心・・・・
乃若上交不諂下交不瀆富貴不淫貧賤不・・・・
移威武不屈也唐豕不若而清□無□
者純理詞穆天□又其倜儻不群健・・・・
非碌碌庸眾者所可同日語而其倜・・・・
於□□四年甲寅朔葬於城西四十(裏) ・・・・
當其時士友感稟性不群乃人稱・・・・
相議乃作詞曰
藹藹前哲玉浩光明□□□□遐邇共□□
克勤克儉既和且平堅若介石穆如□□
人往風微刊石勒銘。
 
全文の詳細については省く。下半分が喪われているので文意をたどることも困難である。
ともあれ、重要なのは後ろから六行目の「於□□四年甲寅朔葬於城西四十□」という一行である。
剥落によっておそらくは年号が刻まれていたであろう二文字分が喪われている。そのあとに「四年」の文字が判読できる。この時代の年号は二文字で構成されているから、いつの時代か未詳にしても「於□□四年」は動かしがたい。ゆえに『黄承彦其实就是黄祖』が主張するような「建安十四年」はありえないのである。
黄祖が孫権に敗れ討たれたのは建安十三年である。仮に黄祖敗死の翌年に正式に墓地に埋葬され、この碑が刻まれたのであれば「建安十四年」でもおかしくはないのだが、方眼に区切られた碑の構成から考えても、二桁の漢数字がここに入る余地はないのである。ゆえに仮にこの碑が黄承彦の墓誌銘だったとしても、黄祖と没年が同年である根拠にはならないのである。

また一行目についてみてみると「先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・」とある。
「先生諱承彥」とあるが、補えば「黄先生諱承彦」ということだろう。「諱(いみな)」は生前は「名」であったものが死後は「諱」となるという事であるから、その場合「承彦」が名であるから黄祖=黄承彦は成り立たないという事で「黄祖=黄承彦」についての考察は終わり、という事になる.......しかしその点については三国時代の名(諱)が二文字であるというのは極めて稀、という事を念頭に置きつつ保留して、もう少し考えてみよう。

もう一点、「沔南白水人」という個所について。
「沔南白水人」の後に「其先乃□帝之苗」とあるのはおそらく「其先乃炎帝之苗」という決まり文句で、中原の人、というほどの意味である。
「沔南白水人」の「沔南」は、前回述べたように沔水(漢水)の南、という意味である。さらに”白水”とある。

「水経注」という古代の地理書がある。これは前漢から三国魏にかけて「水経」という地理書が編纂され、のち北魏時代「水経」に注が施されて成立した史料である。「水経」はその名の通り大陸の河川に沿って地理を述べた書であり、漢代から三国時代の地理を考証するうえで重要な資料である。
この「水経注」の「沔水注」によれば「洞水出安昌縣東北大父山,西南流謂之白水。又南逕安昌故城東,屈逕其縣南,縣故蔡陽之白水鄉也。」とある。

この文に拠れば、白水は安昌県(現河南省確山県)の大父山を源流とした河で、安昌県の西南方向、つまり襄陽方面への流れを白水といい、白水郷は襄陽の北東に接した蔡陽(現棗陽市)という事になる。
しかし位置的に蔡陽は沔水の北岸にあり、いわば沔北であって”沔南”とは矛盾する。ただ『襄陽耆舊記』にある”沔南名士”の沔南とは一致するのである......これをどう考えるべきであろう........?

そもそも、果たしてこの碑が本当に黄承彦その人の墓誌銘なのであろうか?

この碑の題は『漢故黄君之碑』であり、「先生承彦」から始まるから「黄承彦」の墓誌銘ないし記念碑に違いない、という主張はもっともにも思える。しかし拓本を見る限り、この『漢故黄君之碑』の題部分と下部の本文とでは墨色がずいぶん違い、連続した一体の碑を為していたかについてもいささか疑問が残る。
また別の考察で、この年号部分が「建安四年」とする主張もある。それであれば建安四年当時の諸葛亮が17〜18歳であるから、黄承彦が諸葛亮の岳父たるに不自然はないということであり、だからこの碑は黄承彦の墓誌銘なのだ、という。
しかし剥落したこの部分を凝視する限り、ここに隸書で「建安」という文字が入るかどうかは、わずかに残る点画のバランスから見ていささか無理があるような感じもする。

墓誌銘の偽作などは古来からあり、拓本が高く売れるため後を絶たないのが現実である。全く別の人物の墓誌銘の拓本に『漢故黄君之碑』と偽刻した拓本をつなげて作られた、という可能性は十分にある。

本文の書体は流麗豊満な隸書体なのであるが、これが諸葛亮の岳父、劉表の義弟ほどの人物の墓誌銘とすれば、その内容についてはいくつかの疑問が兆す。

たとえば五行目の「不諂下交不瀆」は『易傳·繫辭傳下』の「君子上交不諂,下交不瀆」そのままである。また六行目の「移威武不屈也」も『孟子』の「貧賤不能移,富貴不能淫,威武不能屈」からそのまま採ったような文言である。水準以上の教育のある士大夫であれば、この個所が出典そのものという事はすぐにわかるところであろう。
要はオリジナリティに欠けるのであり、黄承彦その人の人となりや事跡に基づいた、懇切な文とは認めがたいものがある。

個人的には、この碑は(某)承彦の拓本を元にした偽作であると考えている。名士として名が通り、諸葛亮の岳父でありかつ劉表の義兄弟であったほどの人物の墓誌銘ないし記念碑文としては内容がいささか杜撰である。たとえば曹真の墓誌銘と考えられている『曹真碑』(これも偽作説があるが)に比べても、内容があまりに乏しいのであり「先生承彦」以外に、黄承彦とのつながりを確実に担保できる内容が見当たらないのである。

『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖』では、この拓本が黄承彦の墓誌銘という前提で没年を建安十三年と推理しているが、字数的にその考察自体に無理があるのはもちろん、この碑自体が黄承彦その人を考察する史料になりうるかどうかも、多くの疑問がある。
ただ「黄祖=黄承彦」をひとつの仮説として考えてみると、今まで見えてこなかった歴史上の関係性が見えてくるのも確かである。

次回は黄承彦から少し離れ、正史に傳を立てられるほどではないにしても比較的豊富な言及のある黄祖という人物について、少し丁寧に見てゆこうと思う。
落款印01


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