鄂城の存在 〜黄祖=黄承彦考6

黄祖という、おそらくは後の諸葛亮と蜀の盛衰に少なからぬ影響を与えたであろう人物について調べてゆくと、そもそも黄祖について述べられた数少ない史料の内容そのものに多大な疑義が浮かんでくる。

中原をうかがう勢力の一角であった劉表の荊州も、その後は魏吴蜀に分割されてしまったためか、荊州の人士については信頼できる記録が乏しいものがある。
荊州については比較的豊富な記述がみられるのが『呉志』であるが、基本的に劉表と敵対する関係であったためか、客観的とはいいがたいところがある。もともと『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の出身で、蜀滅亡後は魏に仕えたためか、魏や蜀に比べると『呉志』の内容はやや疎漏の感がある。また呉にたいする陳寿の筆致はやはりどこか冷淡である。そして『呉志』の注に多く引かれる『江表傳』『呉録』についてもいささか饒舌が過ぎ、講釈本のようなところが随所にある。

ともあれ『呉志』の記録を見る限り、黄祖は呉軍に敗戦を重ねていることになる。しかし呉軍の戦略目標の達成の可否を見る限り、鵜呑みにはしがたいものがある。結局、劉表に委任されて黄祖が守る”拠点”は赤壁の戦いの始まる建安十三年、劉表の没時の直前まで陥落していないのである。ただこの黄祖軍と呉軍が攻防を繰り広げた荊州(江夏)の拠点がいったいどこなのか?という問題については、いわれているほど自明ではないのではあるまいか。今回はその点について考えてみたい。

黄祖が守っていた拠点は、現武漢市区内の長江南岸の沙羨ないし北岸の夏口であると、一般には考えられているかもしれない。しかしこの点は、大いに疑問がある。むろん夏口や沙羨にも軍事拠点ないし県城が存在したであろうが、それでも沙羨が呉に対する荊州側の最前線であったと考えるのは難しい。以下に理由を述べたい。

現在の武漢市はかつての夏口とよばれた漢口を中心に繁華な大都会を形成し、この漢口の対岸地域が武昌区である。そこに孫権の軍事楼に由来する黃鶴樓が聳え立ち、これが武漢のシンボルとなっている。しかし後漢から三国時代まで、沙羨県(城)に属したこの地方一帯はそれほど開発が進んでいた形跡はないのである。

そもそも沙羨を含む地域が武昌郡となり、沙羨に治所が置かれたのは三国時代の後の晋代に入ってからである。
紀元前221年に呉の孫権がそれまでの鄂城(現鄂州市)を「以武治国而昌(武を以て国を治め栄える)」の意味を込めて”武昌”と改め、その首府を建業(現南京)から遷している(229年に帝号を称すと、ふたたび建業を都としている)。そして武昌へ建業から一千家を移住させたという。これが”武昌”という呼称の起源である。後の孫皓の時代には、再び呉の首都を建業から武昌に遷都しようとした。しかしこの時は群臣の猛烈な反対にあって頓挫している。
後の東晋時代に、それまで江夏郡であった地域を武昌郡とし沙羨にその群府が置かれて後に、現在の武漢市武昌区一帯が”武昌”と呼ばれるようになる。いわばこの”新武昌”が現在の武漢市の武昌なのであるが、たいして鄂城は”古武昌”とも呼ばれる。

この”古武昌”こと鄂城が、後に建業と呉の首都の地位を争うほどに発展したのは、むろんのこと孫権肝いりの再開発が奏功したからであろう。しかしもともと都市として発展する基礎と伸びしろのある土地でなければ、多大な労力と資力を投資する価値はない。その点、鄂城は後漢の荊州江夏郡に属する十四県(城)の一つであるが、歴史的にも経済的にも当時の江夏郡でもっとも重要な県城であったと考えられるのである。

歴史をたどれば、時代によって鄂州と呼ばれたこの地域は、さかのぼること堯帝の時代は樊国という小国があったとされる。また殷の時代には鄂国という国があったという。その後春秋戦国時代に楚が副首都に定め、楚が秦に滅ぼされた際には始皇帝はこの地まで遠征している。また漢王朝成立後は漢高祖によって鄂県が置かれ、樊噲がこの地に封じられ、灌嬰が鄂県城を築城したという。

重機などの無い古代社会においては、大都市、さらには一国の首都になるほどの地というのは、ほぼ決まっているのである。それは現在においては二線、三線級の地方都市に後退してしまったとしても、王朝時代を通じては、盛衰はあるもののそれなりの規模と人口を維持し、歴史文化を持つ街として継続してきているのである。
孫権が鄂城を武昌と改めて後、武昌が呉の滅亡まで首都、ないし副首都の地位を保った理由は何か?呉の支配下にはいってから急速に大土木事業を起こし、開発を進めた結果だけではないだろう。その地の重要性は戦国春秋時代からの鄂州の長い歴史を顧みれば明らかである。
たいして孫策が黄祖を破ったという沙羨の方面は、三国時代以前に一国の首都ないし副首都がおかれたというような、見るべき歴史はない。

結論を先に言えば、黄祖が劉表の信任をうけて守り、呉軍の攻勢を防ぎ続けてきたのは沙羨や夏口ではなく、この鄂城ではないか?と考えられるのである。
孫堅との襄陽防衛戦の後、江夏をめぐる黄祖と呉軍の最初の戦いを挙げると、孫策最後の戦いであった建安四年の”沙羨の戦い”が考えられる。しかしその呼称に反して、戦争の経緯と地理を照らし合わせれば、到底この戦いが”沙羨”で起こったとは考えられないのである。

鄂城から長江を東に下ると沿岸に柴桑(現九江市)があり、柴桑から鄱陽湖の西側を南下すると豫章郡(現南昌市)がある。いずれも孫策時代の呉の重要拠点である。呉が豫章郡と定めたこの一帯は呉郡、会稽郡ともにわずか数年で孫策によって平定された地域である。そしてこの地域を孫策が平定して間もない建安四年(199年)、呉軍と劉勲の間で戦いが起こるのである。

劉勲はもともと孫堅と同じく袁術の支配下にあり、袁術によって廬江郡(現安徽省合肥市)の太守に任命され、皖城(安徽省安慶市)を拠点にしていたという。
建安四年に袁術が死ぬと、孫策は劉勲にへりくだった書簡を送り、豫章近郊の上繚の賊を討つ援軍を求める。しかしこれは計略であったという。劉勲が軍を率いて長江を渡った隙に、孫策は留守になった皖城を攻めとってしまう。帰路をふさがれた劉勲は、柴桑からわずかに上流の西塞山に立てこもり、江夏の黄祖に援軍を求めたという。
孫策は劉勲の軍を撃破し、千艘の舟と二千の投降兵を得る戦果を挙げ、余勢を駆って黄祖を討たんとして起こったのが沙羨の戦いであったという。しかしこの”沙羨の戦い”ついては孫堅傳(孫破虜傳)に付随する孫策の傳の本文にはなく、注にひくところの『江表傳』また『呉録』にしか具体的な記載はみられない。
『江表傳』に拠れば、この時劉表は甥の劉虎と南陽人の韓晞に五千の兵を与えて黄祖軍の先鋒としたが、孫策に撃破された、とある。さらに『呉録』に拠れば、孫策は戦勝報告を朝廷に上奏している。上奏文の冒頭、戦いは(建安四年)十二月八日に行われた、とある。劉虎と韓晞以下二万が呉軍に討ち取られ、一万は溺死、また黄祖の家族七名が捕虜になり、六千艘の舟と無数の物資を奪ったという。戦いには周瑜、孫権、呂範、韓当、程普、黄蓋が従軍していたという。
むろん、上奏文は(もし上奏したのが事実としても)戦果を相当に誇張するのが常である。仮に沙羨で戦いがあったとすれば、いかにも江夏における長江南岸全域が呉軍の支配下にあるような印象を与える。
しかしこの”沙羨の戦い”については、(孫堅の傳に付随する)孫策の傳にはその地名の記載がない。孫権傳には「建安四年從策征廬江太守劉勲勲破進討黄祖於沙奸廚箸△蝓△泙芯普の傳に「從討劉勲於尋陽進攻黄祖於沙婀堋胆仂襦廚箸△襪世韻如△曚の諸将の傳には”沙羨”の地名は見られない。ただ”江夏”とあるだけである。

問題は、この時期に鄂城がどこの勢力の支配下にあったか?という事である。本拠地の皖城を攻略されてしまえば、劉勲は長江を渡って北岸に戻ることもできない。ゆえに柴桑からわずかに長江南岸をさかのぼった地点にある、西塞山に籠ったのは致し方ないだろう。
もしこの時ですでに鄂城が呉軍の拠点であれば、西塞山からみて長江上流も下流も呉の支配下という事であり、劉勲はほぼ敵中に孤立したことになる。江夏方面の経路を鄂城に遮断されているから、黄祖に支援を仰いだとしても合流することすら難しい。
しかし後に孫権が呉の首都にしたくなるほどの重要拠点である鄂城を、この戦い以前に呉軍が攻略したという記録はないのである。

もし鄂城が黄祖の拠点であり、西塞山に陣を構えた劉勲が鄂城の黄祖に援軍を仰いだのだとすれば、地理的距離的に沙羨などよりもずっと支援が得られる可能性が高い。襄陽や夏口の兵力を漢水や長江を下って鄂城に速やかに送り、そのうえで水陸を併進して劉勲を支援した、とすれば当時の輸送交通の技術でも可能である。
もし黄祖の拠点が沙羨であり、沙羨から江夏郡の中央部を通って反対側の西塞山へ向けて援軍を送ったとすれば、途中で大湿地帯である”雲夢澤”の無数の湖沼、沼沢、中小山岳地帯を行軍しなければならない。しかも食糧を徴発できるような大規模な集落もない。いかに自領内とはいえ、補給の確保の上でも当時の軍隊ではまったく現実的ではないのである。
それは孫策の軍から見ても同じことである。鄂城という敵の前線拠点を迂回する格好で、江夏郡を横断して沙羨を強襲するような作戦は、たとえ空軍が存在する20世紀であったとしても非常な冒険であっただろう。

先の大戦で日本軍はまず九江を攻略し、そこから南は南昌、西に漢口(武漢)へ侵攻している。(九江へいたるまでももちろんだが)漢口への進撃は長江に沿って行われ、鄂州と黄州を先に攻略している。鄂州はすなわち三国時代の鄂県であり、黄州は邾県である。いかに漢口、武漢を攻略したくとも、九江(すなわち柴桑)から鄂州を迂回して陸路を進む、というような”無謀”な作戦は20世紀の軍隊でも採らないのである。
 
戦争において補給の重要性を強調する文は少なくないが、実際にどのように補給を行ったか?を考慮していないと思われる分析が多くみられる。軍隊がある地点に到達したとすれば、その人数を食べさせるだけの食糧が必要なのであり、その食糧を供給した方法が必要なのである。

人口が稠密な時代であれば、みちみち物資を徴発(略奪)して進むことも不可能ではないだろう。しかし『後漢書・郡国誌』にある数字では江夏郡全体で、

十四城户五萬八千四百三十四、口二十六萬五千四百六十四

とある。つまり十四城(県)ぜんぶで戸数五万八千戸、人口二十六万五千人、ほどのわずかな人口が100km四方の地域に分散していた、という事になる。むろんこれは税を課せられる戸籍人口であり、農奴の類、流民や水上生活者も相当数生活していたであろう。しかしそのほとんどは、長江沿岸を生活圏としていただろう。ゆえに柴桑(九江)から沙羨(武漢)まで、直線距離で200kmを超える距離を行軍し、決戦し、帰還することが、もし可能であれば長江の水路を使用するよりない。しかしこの時点で呉軍が江夏周辺流域の制河権を掌握していた、という根拠もまたないのである。
むしろ、江夏郡一帯の長江流域の制河権を掌握するには、まず鄂城を支配下に置く必要があったと考えられるのである。

鄂城がおそらく黄祖軍と呉軍の攻防の中心であったと考えられる根拠についてはほかにもいくつかあるが、長くなるのでここでいったん回を区切りたい。
歴史をたどるには時系列もそうだが、地理関係も出来る限り明確にしておくことが重要であろう。また後漢〜三国時代の軍隊は陸路のみで長距離の行軍は補給に非常な困難を伴う。河川をうまく利用しなければたちまち食糧不足に陥るのは、はるか後世、20世紀においてさえ同様なのである。

次回は鄂城についてさらに補足したうえで、黄祖の戦歴を概観したい。

※※「黄祖=黄承彦」という命題から離れてゆくかのようであるが、黄祖について調べてゆくにつれ、諸葛亮と黄祖、あるいは諸葛家と黄家のつながりがうっすらと見えてくる。
注意しなければならないのは、(黄祖=黄承彦に真偽はともかく、すくなくとも)孔明が黄承彦の娘を娶ったことにより、蜀の諸葛家にとって江夏の黄家が外戚になる、という事である。それは後の黄忠や黄権の活躍、あるいは諸葛瞻と黄皓の関係など、孔明出蘆後から蜀の滅亡にいたる歴史の、あるいは伏流水なのではないだろうか。
落款印01


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