夏口と鄂 〜黄祖=黄承彦考7

前回は、黄祖が呉軍の侵攻から守っていた拠点は現在の武漢市漢口(当時の夏口)ではなく鄂(城)だったのではないか?という疑問点についてあらましを述べた。結論的にいえば、『三国志正史』の記載における夏口はほぼ鄂なのである。今回はこの点をもう少し捕捉したい。
(今回は黄祖と呉軍の交戦についても概観したかったが、長くなったのでそれは次回に。)
夏口は夏水の河口、という意味であるが、異称の多いこの河川は漢水あるいは沔水とも呼ばれ、ゆえに沔口また漢口という呼称もある。また時代によって大陸の大小河川の河道はかなり変遷してきたようで、1800年前と今日では、河川と地名を安易に結びつけるのは注意が必要である。


呉軍と黄祖軍の最後の戦いの模様は『三国志正史・呉志』における董襲の傳にもっとも活写されているが、そこに”沔口”の名がみえる。すなわち以下の一節である。


建安十三年權討黄祖。祖横兩䝉衝挾守沔口以栟閭大紲繫石為矴上有千人以弩交射飛矢雨下軍不得前。襲與淩統俱為前部各將敢死百人。人被兩鎧乗大舸船突入䝉衝裏


黄祖は沔口を挟み込む格好に二隻の蒙衝を並べ、それを岩石に繋留し、千人の弩兵に雨あられと矢を放たせたため、呉軍は前進することが出来ない。董襲と凌統は鎧を二重に重ねた決死隊百人を率いて蒙衝の背後に進み、繋留を切断して蒙衝を動揺させ、ついに突破に成功する、というくだりである。
後に『演義』の赤壁の戦いの描写にも影響したであろう、この一節の精彩な戦闘描写のためか、呉軍は沔口(すなわち現在の漢口)で戦い、その県城を攻略した、という印象が強いのかもしれない。
しかしこの一節における”沔口”は、黄祖が二隻の蒙衝を浮かべて守備していることから、戦場における特定のポイントとしての”河口”を意味している、とも考えられる。


また『呉志』凌統の傳において


権統軍從討江夏入夏口先登破其前鋒輕舟獨進中流矢死


とある。凌統の父凌操が戦死したのも、夏口における黄祖との戦いに従軍した時(この戦いでは呉軍は攻略に失敗している)という事になっている。

『三国志正史・武帝紀』には、赤壁の戦いの直前に起きた呉軍と黄祖軍との最後の戦いを、


復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城。


と記述している。ここでは”屠其城”とある。”其城”とあるだけで、どこの城なのか?この武帝紀の文脈からは読み取れない。また”屠城”とある。屠城すなわち住民を皆殺しにすることであるが、人口・労働力・生産力が貴重な当時、実際にそれが行われたとは限らない。しかし少なくともその県城を攻略した事を示している表現である。


さらに武帝紀には、曹操が荊州攻略へ南下を開始した事がつづられ、


九月公到新野、遂降、備走夏口


とある。すなわち(劉)備が夏口に(敗)走する、という事が書かれている。呉軍が攻略しているはずの夏口城に劉備が敗走するというのはいささか不自然であるが、『呉志』の魯粛の傳には、夏口へ至る以前に孫権から派遣された魯粛が劉備と合流したことがわかる。呉の使者の手引きがあれば、それも可能だろう。
しかし蜀志・先主傳には劉備の敗走経路について、


先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。遇表長子江夏太守、衆萬餘人、與俱到夏口


とある。まず劉備は漢津へ斜趨(しゃすう)した、とある。斜趨とは東西南北に平行に進む(=横行)ことに対して、東南あるいは北東というように、斜めに移動することであるが、當陽の長坂(現在の湖北省宜昌市付近)から、南東方向の漢津(現在の武漢市漢陽区)へ敗走した、という事であろう。
”津(わたし)”というのは河川の渡し場という意味であり、漢津で先に襄陽から漢水伝いに脱出させていた関羽の船団と合流し、”沔を得濟”とある。”得濟”は保全するという意味であり、沔、すなわち沔水流域を掌握したという事であろう。
より端的には江夏郡の沔口周辺地域を抑えた、という事になると考えられる。さらに江夏太守である劉に遭遇し、一万の軍勢を率いて”夏口”に向かったのであるが、この夏口はすなわち呉が攻略した”鄂”をさすのであろう。
後に”沔”を含む地域に夏口鎮が置かれ、また現在は武漢市の漢口区になっている。そのため、この武漢市における漢口が夏口と考えがちである。孫策がやはり現在の武漢市に含まれる沙羨で黄祖と戦ったという(おそらく虚構の)歴史があるため、なおさらそう思ってしまうかもしれない。


諸葛亮傳には


先主至於夏口、亮曰”事急矣、請奉命求救於孫將軍”時、權擁軍在柴桑、觀望成敗


と、やはり先主(劉備)が夏口に至った事が書かれている。さらに呉主傳にも


備、進住夏口、使諸葛亮詣權


と、いずれも劉備(軍)が夏口に向かい、駐屯したという記述がある。これらの夏口もすなわち鄂のことであると考えられる。
この時劉備は襄陽以降の敗走兵を収容し、少なくとも1万人以上の軍勢を率いていたと考えられ、さらに諸葛亮が孫権に語ったところでは劉と併せておよそ2万の軍勢を率いているとされる。人口がそれほど多くない江夏郡の、さらに一部地域だけでは長くその補給を支えられない上に、漢水上流から曹操軍が攻め降ってくるおそれがある。ゆえに最低限の備えを残し、ほとんどの軍勢を率いて夏口(すなわち鄂)に向かったのであろう。


実のところ後漢書の劉表傳における李賢の注には


「夏口今之鄂也左傳吳伐楚楚沈尹戌奔命於夏汭杜預注曰漢水入口今夏口也」


とある。そこには”夏口今之鄂也”すなわち夏口とは今の(東晋時代の)鄂であり、”漢水入口今夏口”と漢水が長江に注ぐ場所が夏口なのである、と書かれている。


また欽定四庫全書の『吳志卷十七考證』には「胡綜黄龍見夏口於是權稱尊號」すなわち胡綜が黄龍を夏口において発見し、その瑞祥によって孫権が帝号を称したという故事について


按夏口毛本作舉口太平御覧作樊口舉口盖樊口之誤


と考証している。
”毛本”は明代の蔵書家、毛晋が刻版した一大叢書、汲古閣本のことであるが、その版本における呉志には、夏口ではなく”舉口”と書かれており、また太平御覧では樊口のことを舉口と記述している、という。樊口は鄂における長江沿岸の地名である。すなわち夏口ではなく舉口=樊口(=鄂)ということで、黄龍が発見されたのは夏口ではなく(鄂すなわち武昌の)樊口であろうと。
そう考えると、董襲の傳にある”沔口”とは、おそらく樊口をさすと考えられる。


さらに付け加えれば胡綜傳には「從討黄祖拜鄂長」とあり、胡綜が黄祖との戦いに従軍し”鄂長”すなわち鄂の長に任ぜられた記述がある。


また裴松之の注に引かれるところの『江表傳』には、曹操軍に追われて敗走する劉備に呉から派遣された魯粛が合流し、呉と同盟を結ぶ事を勧め、


備大喜、進住鄂縣、卽遣諸葛亮隨肅詣孫權、結同盟誓。


とあり、鄂県(城)に進駐した、と書かれている。さらにやはり『江表傳』の注には、

備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望權軍。


とあり、劉備は魯粛とともに鄂県の樊口に至り、諸葛亮を呉に派遣した、と書かれている。樊口は現在の湖北省鄂州市の樊口街道にその名がみえる。後に孫権が長安という三千人乗りの大型船の進水式をやるのも樊口であるが、鄂州における港湾地域であったと考えられる。
少し歴史小説めいたところもある『江表傳』であるが、蜀の遺臣で魏に仕えた陳寿よりも、呉の支配下の地名に関する錯誤は少ないかもしれない。黄祖と呉軍の戦いの描写が『江表傳』にもあったはずであるが、残念ながら裴松之の注には引かれていないので未詳である。また魯粛と鄂城に至る前に劉備が夏口城へ入ったかどうか?この個所についても『江表傳』の引用はない。


劉表は長江北岸を防衛するため、漢水と長江の合流地点(すなわち沔)の北東に位置する西陵県の石陽にも黄祖に命じて築城させたという。これは安慶を攻略し現在の安徽省北部を制圧した呉軍が、長江北岸からの陸路伝いで夏口方面への侵攻する可能性への備えであっただろう。また最前線の鄂に対する後方基地の役割を負っていただろう。いうなれば呉に対する第二防衛ラインであり、鄂が陥落後に江夏太守となった劉が向かったのも、この地域だったと考えられる。


以上から黄祖が呉軍の侵攻を防ぎ続けてきたのは、やはり後に孫権が武昌と呼称を改める、鄂(城)であり、『三国志正史』における夏口とは鄂、また董襲傳における沔口というのは鄂の樊口である、そう結論付けて良いのではないだろうか。
大陸で通常”城”といえば万人以上の住民が住む地域を城壁で囲んだ都市をさす。日本の戦国時代における領主の居館、ないし純粋に軍事拠点としての砦の類ではない。江夏太守に任ぜられている黄祖の居城が、単なる前線の”砦(とりで)”に過ぎないという事は、考えられない事なのである。自給能力を持たない砦や山塞は後方から補給を受けなければ維持できない。そのような純粋な軍事拠点を長期にわたって”江夏太守”が守るのは不自然なのである。鄂(州)城が歴史的に江夏地方の首府となるべき地であったことをと考え合わせれば、孫権率いる呉軍が躍起になって攻略を目指し、後に呉の首都ないし副首都となった史実とも符合するのである。
黄祖が守る城が鄂城であったとすると、なぜ黄祖は呉軍の数次の侵攻を良く防ぎ、最後に敗れたか?その原因も見えてくる。

とはいえそこは後回しにし、次回は黄祖が歴史に登場する、孫堅との戦いについて概観したい。

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