襄陽の戦い 〜黄祖=黄承彦考8

黄祖が歴史に登場するのは、袁術から派遣された孫堅軍との戦いにおいてである。初平二年(193年)あるいは三年にかけて、袁術は孫堅に兵を与えて襄陽を攻撃させる。
戦いの前年、初平元年に劉表は単騎で荊州に入り、襄陽に入城している。さらに蔡瑁、蒯良,
蒯越等と図り、周辺の”宗賊”の頭目十数人を謀殺し、襄陽近郊の南陽を除く荊州北部地域の支配権を確立している。この謀議に黄祖の名はない。

”宗賊”というのは、盗賊集団という意味ではなく同姓の宗族からなる集落のことであろう。漢王朝の衰微とともに、険しい地形を頼みに支配を受けつけない宗賊の村が多かったのであろう。宗賊の討伐は後の呉においても盛んにおこなわれるが、長江南岸以南の、現在でいう安徽省や江西省、湖北省、湖南省には険しい山岳と河川に遮られた地形が続いている。徽州の郷土史にも、この時代に歙や黟が呉の討伐を受けた事が記されている。

蔡瑁は曹操とも旧知であるが、それは蔡瑁が都へ遊学した際の交際であったと考えられる。地方豪族・貴族の子弟が都へ遊学するというのは、王朝時代を通じて盛んにおこなわれている。劉表と蔡瑁もそのころに知り合ったのだろう。これは劉表と襄陽豪族の結託による一種のクーデターであるが、その翌年に襄陽は袁術の派兵による孫堅軍の侵攻を受けるのである。

この戦いで孫堅は戦死する。しかし戦いの経緯や孫堅戦死の経緯は後漢書や『三国志正史』、またその注によって諸説ある。また孫堅が戦死したと考えられる時期は本傳では初平三年、とあるが裴松之が注に引く呉歴や漢紀では初平二年とし、また英雄記では初平四年正月七日、という事になっている。
『三国志正史』における呉主孫権の父親であり、黄巾の乱やその後の董卓の乱において際立った活躍をしている人物の最後の戦いの経緯が至極不明瞭であり、その最後の時期についてもはっきりしない、という事は少し注意しても良いだろう。
『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の遺臣であり、後に魏に仕えた事から考えて、蜀や魏の記録なり口述なりを得るのは容易だったものの、呉の記録類や証言に接する機会は乏しかった、という事は言えるかもしれない。さらには呉の国史である「呉書」は完結していなかった、といわれている。また陳寿の呉に対する冷淡な記述態度もうかがえるところである。


孫堅を射殺したのは黄祖の軍兵であるとか、黄祖配下の呂介の軍兵であるなどこれも諸説ある。ともあれ、河北で驍勇を鳴らした孫堅を葬り、その軍を敗走させた事実は大きい。この時期、北方で袁紹と曹操が対峙し、中原から南では袁術と劉表が対峙していた。曹操にとっては官渡における袁紹への勝利が非常に大きな意味を持つが、劉表にとっては襄陽の戦いに勝利した意味は軽くないのである。


まず『三国志正史・呉志』の「孫破虜傳」では


「初平三年、術使堅征荆州擊劉表。表遣黄祖逆於樊之間。堅擊破之追渡漢水遂圍襄陽。單馬行峴山為祖軍士所射殺」


という記述がみられる。大意を示せば、


初平三年に袁術は孫堅に荊州の劉表を討伐させた。劉表は黄祖(の軍)を派遣して”樊之間”で迎え撃たせた。孫堅はこの軍を破り追撃して灌水を渡り、ついに襄陽を包囲した。そして単騎で峴山を騎行中に黄祖軍の兵士に射殺された。


というところだろうか。


それが後漢書になると


袁術與其從兄紹有隙而紹與表相結故術共孫堅合從襲表表敗堅遂圍襄陽㑹表将黄祖救至堅為流箭所中死餘衆退走


とある。大意を示せば、


袁術とその従兄の袁紹に隙が出来、袁紹と劉表は手を結んだ。ゆえに袁術が孫堅と合従して劉表を襲い、劉表は敗れ、ついに孫堅は襄陽を包囲した。劉表の将である黄祖の救援が到着し、孫堅は流れ矢に当たって戦死し、孫堅の軍勢は敗走した。


となり、戦いの経緯がずいぶんと異なっている。


南陽の宛城を本拠地とする袁術は孫堅に兵を与えて遠征に遣るのであるが、この時の孫堅軍の総兵力は未詳である。南陽から襄陽までは直線距離でおよそ115kmであるが、たとえば大阪から大垣までの直線距離が120kmである。大阪城を発って、関ヶ原へ向かうほどの距離はない。
南陽から襄陽までの孫堅軍の進軍において、補給線はおそらく白河という河川に拠ったであろう。白河は南陽を貫流し、新野を経て襄陽の北東で漢水(沔水)に合流している(大陸的基準でいえば)中小河川である。
この時代に限らず、近代においても大陸の行軍はほぼ河川に沿っている。兵員は陸路を進むとしても、軍需物資は河川に拠らなければ長距離の運搬は困難である。
当然、後漢末と現代では河川は堆積浸食を繰り返して姿を変えているであろうが、南陽を貫いて襄陽にいたる経路はおおむね変化はないだろう。後に曹操もこの経路を使って大軍を荊州へ南下させたと考えられるが、膨大な食糧・軍需物資の運搬は陸路ではほとんど不可能なのである。


”樊之間”とあるのは、漢水を挟んで襄陽の対岸に位置する樊城(襄陽市樊城区)とそのさらに北西に位置する城(現城区)の事であり、南岸の襄陽城からみて北岸の二拠点である。襄陽と城の間は8km程度であるから、襄陽城から戦いの様子は望見できたであろう。樊城と城は襄陽城の出城のような存在であろうか。”城”といっても、日本の戦国時代の城塞ではなく、ある程度の人口を有した城郭都市とみるべきである。


孫堅は長沙での董卓討伐の義勇軍結成以来の古参の将兵と、袁術から借りた、おそらくは戦に慣れた傭兵部隊で構成されていたであろう。たいして劉表や黄祖が率いたのは、襄陽や江夏の県城における兵役義務をもつ市民階級(有戸籍階級)の兵士たちが主力あったと考えられる。戦闘が専門ではない市民兵であるが、郷土防衛の意識が強く、また結束力はある。しかし都市国家が攻伐を繰り返していた春秋戦国時代とは違い、漢代における市民兵の役割とは賊からの専守防衛である。ゆえに城邑の市民兵は城壁に拠って防戦するように訓練されており、外征して野外決戦するような訓練はあまり受けていなかったであろう。
”樊の間”というと平野で決戦をしたかのように見えるが、騎兵の戦力では北方の孫堅軍がはるかに優勢であったと考えられるから、開けた土地で決戦するのはいささか無謀である。この戦役の当初から黄祖が前線に出ていたのか?あるいは襄陽包囲後に援軍として来着したのか?については『呉志』と『後漢書』で記述が食い違っているので定かではないが、前哨戦が行われたのは確かなのだろう。
その漢水北岸の二拠点を攻略した後、孫堅軍は漢水の渡河に成功するのである。これは襄陽からみて漢水の上流から漢水を渡ったと考えられる。白水からけん引してきた舟艇が使用されたのであろう。この地点は現在は広い中洲が存在し、河道が狭くなっている。当時も中洲が無いまでも比較的渡河が容易な地点であったであろう。また孫堅軍の補給線である、白河と漢水の合流地点は襄陽城からみて下流に位置するが、渡河する際には敵の陣営の上流から渡るのが常である。

孫堅が討たれた峴山(けんざん)は襄陽城の南方に位置する、標高500mに満たない山である。現在は襄陽郊外の名勝であるが、ここからは襄陽城が一望にできる。『呉志』の”注”では敗走する黄祖を峴山に追撃した、とあるが峴山は襄陽の南であり、峴山に至る前に漢水を渡河しなければならない。一息に追撃というのは無理がある。
ともあれ『呉志』の本文では、孫堅は単騎で移動中に、黄祖軍の兵士に射殺された、となっている。この点はどうか。


日本の戦国時代でも物見(ものみ)つまり敵情視察は将校クラスの任務であるが、大将自らが物見に出るいわゆる”大将物見”もしばしば行われたという。戦術の知識を備えた人物が視察しなければ敵情の観察などは意味がないのであり、ときに大将自らが偵察に出る必要があったのである。
「内藤三左衛門」ではないが、敵に気付かれないためにはできる限り少数、時に単騎で行く方が発見される危険性が低い。とはいえ敵近くまで進出し、いったん発見されればきわめて危険である。ゆえに偵察には”馬廻り”という武芸兵略兼ね備えた選りすぐりの将校と、屈強な馬があてられていた。


それは後漢〜三国時代の大陸の戦場においても、後世のように航空機も人工衛星も光学機器もないのだから、ほぼ同様の事情があっただろう。三国時代、時に主将がふいに最前線に姿を現し遭遇戦が起こる場面があるが、それは指揮官自ら危険を冒して前線に出る必要があったからである。敵情がわからぬままに戦って軍を全滅させるか?大将がリスクを冒すか?それは本質的に賭博である戦場において、必ずしも天秤にかけられないような話ではなかったであろう。
『呉志』の本文の通り、敵の城を眼下にもし孫堅が峴山を単騎で騎行していたのであれば、やはり偵察が目的だったのであろう。それは戦術眼、武芸、乗馬において孫堅に並ぶ者がいなかったという事だったのかもしれない。
それにしても”単騎”というのはどうであろう。護衛を連れるよりは発見される可能性が低い、という考えがあったのかもしれないが、日本の戦国時代においても将校斥候はまだしも、総大将自ら単騎で物見という例はない。かつて孫堅は長沙から北上の途上で襄陽を通過しているから、峴山も知らない土地ではなかったにせよ、単独行は危険極まりない。


逆に考えれば、黄祖は孫堅軍の”物見”を見越して峴山に狙撃兵を潜ませていた可能性はある。それは必ずしも孫堅のみを狙ったものではなく、誰であれ相当の将校が物見に出るのであるから、討ち取って損はないわけである。
それでも孫堅ほどの戦場巧者が射殺されるのであるから、思いがけない長距離から狙撃を受けた可能性が考えられる。孫堅は山中を移動中も、狙撃の可能性のある地点に注意を配っていたはずである。孫堅の予想を超えた間合いから、複数の強力な弩の斉射によって撃たれたのではあるまいか。
黄祖が歴史に登場するこの戦いで、孫堅が弩によって斃れたのは象徴的である。後の黄祖の戦術は、強力な弩の使用に支えられている、と考えられるからである。それは後世、小銃が即製の市民軍を強力な軍隊に変えたのと同様の意味があったと考えられる。後漢末という動乱の時代にあって、比較的平和であった荊州の民をして、歴戦の軍隊に対抗せしめた主な要因であっただろう。(孔明は特に弩の改良を行っているほどである。)


弩は弦や銃把は木材や動物の皮が用いられるが、撃鉄にあたる機構部分は金属製である。後漢時代の副葬品に、青銅製の弩の出土例があるが、機構部分が青銅製の部品で造られた弩である。
中原の価値観では楚は大国だが後進国、とみなされている。しかし現実は周王朝の初期から大量の青銅器を鋳造し、また春秋戦国時代における鉄器のほとんどは楚(長沙)で製造されたと考えられるほど、極めて先進的な工業国であった。
青銅器には大量の銅と微量の錫が必要である。錫は交易で入手できるとしても銅の産出が必要である。鄂州市は現在も豊富な銅の鉱山があるが、漢代以前の銅鏡の主要な産地でもある。
いうなれば工業国であった荊州における主要な工業都市が鄂なのであり、前回考察したように、江夏太守として黄祖が鄂に拠点を置いたのは偶然ではありえない。後漢には既に鉄器の使用が普及していたが、ほとんどが農具への使用であった。鉄の硬度を青銅器並みに高めるには工業的に難しい面があり、武装の多くには青銅が使用されていた。加えて青銅は鉄に比べて重く、槍や矛のように打撃で相手を斃す武器には重い金属が有利である。


もっとも黄巾討伐の功績で長沙太守に任ぜられ、長沙から董卓討伐の義軍を起こした孫堅も、弩の活用を知らなかったはずがない。孫堅の率いた軍勢は諸侯の軍に比べて際立って精強で、北方の剽悍な騎馬民族傭兵軍と戦っても引けを取らないほどであったが、これもおそらく強力な弩の有効活用に理由があったであろう。


ところで孫堅の死については、『呉志』の注に引く『典略』という書物によれば、


堅悉其衆攻表、表閉門、夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還、堅逆與戰。祖敗走、竄峴山中。堅乘勝夜追祖、祖部兵從竹木間暗射堅、殺之。


とある。すなわち劉表は門を閉じて守り、また(夜襲をかけて)夜陰に黄祖を出戦させたが、黄祖の将兵が還りたがったところ(逃げ腰になったの意味か)孫堅が攻撃し、黄祖は敗走する。そして黄祖が峴山に隠れたところを、勝ちに乗った孫堅が追撃し、竹木の間(しげみ)から黄祖の将兵に射殺された、とある。


この記述の通りであれば、孫堅は単騎行ではなく、黄祖を追撃したところで狙撃され落命した、という事になる。黄祖が峴山に「竄(かくれ)た」とあるが、これは字義通り”ネズミ”のように逃げ隠れた、という意味がある。また夜襲に出たはずの黄祖の兵が「欲還」つまり還りたがった、などと、かなり黄祖とその軍勢を貶めている。孫堅を討ちとったのは、あたかも黄祖軍の偶然の賜物であるかのように読める。
しかし見方を変えればこれが黄祖の作戦であった、というような解釈も可能である。夜襲をかけた黄祖軍が浮足立つのも、黄祖自身が囮になって峴山に孫堅を誘い込むのも、予定の行動であったとすればどうか。
(後の黄祖と呉軍の戦いでも、呉軍は野戦で黄祖の軍を敗走させながらも拠点の攻略には失敗し、時に凌統や徐琨といった将を弩によって討ち取られている。)


当時の弩というのは、威力のあるものは相当な重量があり、軽快な移動は困難であった。また弦の反動が大きいため、命中率を高めるには安定させることが必要である。そのような武器を活用するには、敵を有効な射程距離まで誘い込む、あるいは追い込む必要がある。黄祖が自らを餌に孫堅を誘い込んだことも考えられ、また兵が敗走を偽装できるほどに訓練されていたのであれば、その練度も統率も優れていた、と考えるよりない。


もし『呉志』の本文の記述の通り、峴山を単騎騎行中の孫堅を狙撃したのだとしても、その行動を読んで兵を配置していた、と考えることが出来る。さらにいえば、襄陽城の東西と北側を遮る漢水の渡河をみすみす許したのも、孫堅(軍)を残る襄陽の南側の峴山の方面に誘い込む罠であった、という見方も可能なのである。


孫堅の死についてはやはり『呉志』の注に引く『英雄記』には、


堅以初平四年正月七日死。又云。劉表將呂公將兵緣山向堅、堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭、應時腦出物故。其不同如此也。


とある。ここでは劉表の配下の呂公という将が山に拠って孫堅と対峙し、孫堅が軽騎を駆って山中の呂公を討とうとしたところ、呂公が石を落として孫堅を斃した、とある。この山が峴山であるかどうかは未詳である。
裴松之がこれらの書物を注に引いたのは「其不同如此也」と、孫堅の死の場面に諸説あって定まらない、という事を示したかったからであろう。


孫堅は孫権が帝業に就いた際に「武烈皇帝」と諡(おくりな)されている。前述の『英雄記』にはその死は初平四年の正月とあるが、『呉志』の本傳に孫堅の卒年月日の記述はない。『孫破虜傳』には孫堅に続いて孫策の傳が付記されているのだが、後に見るように孫策の死についても諸説あり、卒した年と月が本傳の文中で明確ではない事も孫堅と同様なのである。建安四年12月の沙羨の戦いについても、孫策の死が建安五年の四月である、という点についても『三国志正史』の本傳に記載はなく、あくまで裴松之が注に引いた文中からしか確かめることが出来ない。

『三国志正史』を著した陳寿は蜀から魏に仕えているが、『呉志』を執筆するにあたって呉の史官が編纂した史書である「呉書」に取材している、と考えられている。呉に史官が置かれたのは孫権が帝号を宣して後であり、その中心人物であった韋昭は孫策の死の前年に生まれ、孫皓の時代に生きた人物である。言うなれば韋昭が半世紀前の出来事を取材し編纂した史料を、さらに陳寿が参照して『呉志』が執筆されているわけであるから、実際がどうであったか?わからなくなっている事柄も多かったであろう。また「呉書」自体、編纂途中で完結していなかったといわれる。
とはいえ、人の生卒年は墓誌銘にも明記される重要な情報であり、陳寿はともかく呉臣の韋昭は孫家の廟堂をあたれば、孫堅孫策の生卒年くらいは調べることが出来たであろう。韋昭が編纂した史料にも、孫堅孫策の生卒年が記されていなかったと考えるのは不自然である。このあたり、ひとつには陳寿の呉に対する冷ややかな態度がうかがえるのである。さらにいえば、孫堅孫策の死は孫家の歴史にとって、あまり触れたくないような痛恨事だった事も考えられるのである。


『三国志正史・呉志』においては、黄祖は呉軍との戦いで度々敗走し、単騎で逃亡を図るなど、当時の価値観としても戦が下手な、見ようによっては卑怯な将軍であったかのように記述されている。そうであれば、孫堅を討ちとったのは全くの”ラッキーパンチ”であったのだろうか?また孫堅が討ち死にした初平二〜四年(191〜193)の間に起きた襄陽の戦役から、赤壁の戦いの起こる建安八年(208)に至るまでの十数年間、黄祖が更迭もされずに度重なる呉軍の侵攻を防ぎ続け得たのも、全くの僥倖の産物であったのであろうか.........?
むろん、戦争という複雑な事象の原因と結果を、たかだか数人の武将の個人的能力に換言してはならないだろう。『演義』という非常によくできた英雄絵巻の影響か、結果論に過ぎない勝敗から逆算して武将の能力が計量されがちである。戦争は同じ条件で競うスポーツではないのだから、現実の勝敗は個人的能力以上に戦略上の環境の影響が圧倒的に大きいものである。


後に江東を平定した呉軍は黄祖の守る江夏への侵攻を繰り返すのであるが、劉表は襄陽を中心とする荊州北部を支配していたとはいえ、二百万を超す大人口を擁する南陽を支配していない。また南方の長沙や零陵の帰属は、孫策が死ぬ建安五年の事である。後漢書の『郡国志』の人口統計を概算すると、大人口を抱える零陵と長沙(それぞれ百万超)が加わったことでようやく荊州(現湖北省・湖南省)は、孫権の支配する豫州南部と揚州(現安徽省南部、江西省、浙江省)と国力的には均衡すると考えられるのである。
このような情勢下、黄祖と荊州軍は孫策、孫権と続く呉軍の侵攻を防ぎ続けるのである。呉軍は孫策が特命した”江夏太守”周瑜を筆頭に、この方面に選りすぐった人材と兵力を投じ続ける。控えめに見積もっても、黄祖の軍事的な手腕は低いものとは言えないであろうし、同時に劉表の荊州経営も悪いものではなかった、という事は言えるであろう。

(そして姻戚を通じ劉表と蔡瑁の義兄にあたる黄承彦という人物が、果たして襄陽近郊の名士ないし隠士に過ぎない人物か?という事も考えてみてもいいであろう)


この襄陽の戦いについて付け加えれば、この戦いの経緯は『三国志正史』の本傳でも注釈でもごく簡単にしか述べられていない。記述量が少ないため、短期間で終わったかのような印象をうけるが、現実には”官渡の戦い”に匹敵する長期にわたる対陣であり、袁術と劉表がそれぞれの総力を傾けた戦役であっただろう。


次回は黄祖と孫策の戦いを概観するが、そこで孫策の死についても再考しようと思う。

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