沙羨の戦い〜黄祖=黄承彦考9

黄祖と孫家の二度目の戦争は、孫堅の死後、孫家を継いだ孫策との間に起きている。これは孫策にとって最後の大規模な軍事行動であったことは留意する必要があるだろう。そして孫策の死後、孫家の棟梁となった孫権の最初の外征も、黄祖に向けられているのである。

建安四年の冬に発生した、このいわゆる”沙羨の戦い”で孫策軍が黄祖の軍勢と戦った事は、『呉志』孫破虜傳の後半の孫策の伝記には記されていない。孫策の伝記中には劉勲と戦い、これを破った事しか記されておらず、江夏や黄祖の名すら見られないのである。

しかし孫権の伝記である『呉志・呉主傳』には

建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙奸

とある。また『呉志』程普の伝記には

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。

とある。また『呉志・宗室傳』の孫賁の伝記に

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。

周泰の伝記には

後從攻皖、及討江夏

とある。また韓当の伝記には

從征劉勳、破黃祖

董襲の伝記に

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。

呂範の伝記に

征江夏、還平鄱陽。

とある。内容に若干の異同があるものの、おおむね、劉勲を討ち、江夏の黄祖と戦った、という事がわかる。

呉主傳と程普の伝記には「沙羨」の地名が見えるが、他の諸将の伝記には「江夏」とあるのみである。この”沙羨の戦い”については、豫章郡の柴桑と江夏郡の鄂の中間地帯の、長江南岸地域で起こった戦いと考えられる事は以前に述べた。

”沙羨”と呼称するのは、『呉志』の地理の記載が誤っている、というように以前は考えていた。しかし後漢の時代は江夏郡における長江南岸一帯を(広義の)”沙羨”と呼称していたようで、江夏郡下の(現武漢市市区の)沙羨県(城)という場合の(狭義の)”沙羨”とはまた別の意味がある、という事のようである。

南宋時代の王應麟によって編まれた『通鑑地理通釋・武昌』の項に拠れば、

鄂州春秋時謂之夏汭漢為沙嫻慧豢

とあり、漢代は鄂州を以て沙羨の東の境としていた事がわかる。さらに

沙婪n申L乕霈燦療跪榛州東北八十里武昌山在縣南百九

つまり沙羨はすなわち鄂州であり、鄂州はすなわち武昌である、と考証している。つまり江夏>沙羨>鄂州(=武昌)、という事であろう。また”沙羨”と記されているのは、交戦はあくまで平野で行われ、後のように黄祖の守る鄂城(夏口)の攻略戦には至っていないことを暗示している。

もともと劉勲を追撃する延長上に起きた”沙羨の戦い”であるから、鄂城の攻城戦の準備などあるはずがない。また孫策にとって豫章は支配が及び始めた不安定な領域であり、豫章を策源地として隣接する江夏(鄂城)の攻略に乗り出せる時期ではなかったであろう。

同じ時期に北方官渡では袁紹と曹操の対陣が始まっている。曹操・袁紹両陣営は群雄諸侯へ盛んに同盟や協調の働きかけを行っていた時期であり、そういった全般状況の中で孫策は劉勲を攻めることを決断する。この建安四年の戦いの帰趨が北方の情勢に若干の影響を与えるのであるが、また一方で劉勲と孫策による、袁術の”跡目争い”という側面がある。

かつて袁術は孫策に廬江郡(安徽省合肥一帯)の攻略を命じ、成功したら廬江太守に任ずると約束する。先に孫策は袁術から九江太守を許されていたが、これは名ばかりである。
孫策は廬江の攻略に成功するが、廬江太守に任命されたのは劉勲であった。袁術配下の貫目からいえばNo2の劉勲を要地の太守にしたかったのだろうが、約束を反故にし、戦功を取り上げなかった事実は重い。あるいは袁術配下きっての”武闘派”である孫家の棟梁を廬江の太守などにしたら、制御するのが難しくなる、という懸念が勝った可能性もある。とはいえ袁術の”食言”は孫策と孫家の軍勢を大いに失望させたであろう。
この事ひとつをとっても、袁術が乱世を生き抜ける男ではなかった事がわかる。
(それでも大人口を抱える南陽を支配し、かつ名門の血筋に生まれた袁術は、その後もしばらくはその僭越を昂進させることが出来たのであるが、これも環境と時流のなせる業である)

この時、孫策が袁術に”サカヅキを返す”ことをしなかったのは、抱える軍勢を養うだけの確たる根拠地を持たなかった事によるであろう。父親の孫堅はかつて義勇軍を結成し北上する途上、荊州刺史王叡と南陽太守張咨を次々と殺害していったが、要は彼らが兵糧を支給しなかったからである。孫堅が袁術の客将として終わったのは、袁術が孫堅の軍勢に食糧を支給し続けたからである。(孫堅が太守を殺した南陽を袁術は本拠地にしてしまっている)
その後、孫策は母方の伯父である丹陽太守呉景を頼って丹陽へ遷る。しかし丹陽だけでは孫策の全軍を養えなかったようで、大半は孫賁に預けて袁術の下に残留させている。そして揚州刺史となった劉繇との戦いを通じ、江東の掌握に努めるのである。(劉繇との抗争の経緯は複雑で興味深いのであるが、話が逸れるので割愛する。)
ともあれ袁術の死後、劉勲が袁術の軍勢と所領の大半を継承し、独立した勢力となる。袁術の妻子が劉勲に身を寄せた事からも、袁術の正統な後継者は劉勲、とみなされていたのであろう。

その劉勲は皖城(安徽省合肥近郊)を本拠地としていたが、孫策の計略によって長江南岸に誘い出され、留守にした皖城を孫策軍に奪われるのである。

豫章郡の海昏県に上繚城という城塞があり、そこの宗賊の討伐を孫策は持ちかけるのである。当然、攻略のあかつきには劉勲が上繚一帯を支配する。海昏県は現在でいうところの江西省南昌市の一部であるが、豫章郡が呉軍の支配下に入って後は太史慈がここを治めている。孫策は言辞をへりくだった手紙を劉勲に送り、併せて”珠寶葛越”つまり真珠宝石の類と、植物繊維で編んだ布を送って劉勲を喜ばせたという。

劉勲の下には揚州の名士、劉曄という武将がいた。劉勲以下衆人皆出兵に賛成する中、彼一人は孫策の意図を見抜いて上繚の形勢を説き、これに反対したという。『魏書』の劉曄の伝記には、

策乘虛而襲我、則後不能獨守。

とある。劉曄は劉勲に帰順する前に集めた数千の軍勢を握っていたのだが、孫策軍に留守を襲われたら自分の軍勢だけでは守り切れないと述べ、出兵を止めたのである。しかし劉勲は劉曄の忠告には従わず、長江を渡って上繚へ向かう。おそらく皖城から安慶に南下し、そこから長江北岸を遡上し九江付近で南岸へ渡江したのであろう。孫破虜傳には、

勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江。勳衆盡降。

すなわち孫策が軽装備の少数部隊で廬江を急襲したところ、(留守部隊の)劉勲の軍勢はことごとく降伏し(窮した劉曄は曹操に下へ奔る)さらに

勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

(海昏へ向かった)劉勲は数百人の配下とともに、曹操の下へ帰順した、とある。

海昏へ向かった劉勲の軍勢と孫策の軍勢が戦ったのは程普や董襲の伝記には「尋陽」とある。尋陽は現在の九江市の市区である。また”柴桑”も現在の九江市の市区内である。劉勲は尋陽からさらに南の(現在の南昌市)海昏の上繚城へ向かおうとしたのであろうが、まだ長江南岸に留まっているうちに孫策軍に補足され、敗北したのであろう。

実のところ『孫破虜傳』の本伝に戦いの経緯が書かれているのはここまでで、江夏で黄祖と戦った事までは『孫破虜傳』の中では述べられていない。しかし諸将の戦歴を見る限り、黄祖の軍勢と戦ったのは事実なのであろう。問題は戦場となった場所である。

黄祖の根拠地と考えられる鄂城から尋陽までは、長江を使えば比較的早く軍勢を送り込むことは出来る。後、孫権の時代に黄祖は柴桑に軍を派遣している。しかしこの時は黄祖派遣軍との合流より早く、劉勲は孫策に撃破されていたであろう。長江を上流に、鄂城へ向かって敗走する劉勲を孫策が追撃し、柴桑から鄂城へ至る長江南岸のどこかで両軍は衝突したと考えられる。

裴松之が注に引く『江表傳』によれば、孫賁は劉勲を彭澤で撃破し、敗れた劉勲は西塞山にこもり、劉表と黄祖に援軍を要請する。黄祖は長子の黄射に五千の軍勢を与えて支援するが、孫策に破られ、劉勲は曹操を頼って北方へ敗走する。投降兵を吸収した孫策はさらに黄祖の守る夏口(すなわち鄂城)へ侵攻するが、劉表は従子の劉虎と南陽の韓晞という武将に五千の兵を与えて援軍に遣る。しかし孫策はこれを打ち破って大勝した、というように『江表傳』には記述されている。

『江表傳』は描写が精彩で、饒舌な歴史小説のような面白さがある。ゆえに後世の三国時代を題材にした戯作や『演義』にも影響を与えているのであるが、裴松之も認めているように史料としての信憑性には乏しいものがある。たとえば、この劉勲との戦いについて引用された文の頭には

江表傳曰。策被詔敕、與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等幷力討袁術、劉表。

とある。すなわち劉勲・黄祖をめぐる孫策の一連の軍事行動は、曹操や董承、劉璋らと協力し、袁術・劉表を討て、という朝廷からの詔勅を受けて実行された事になっている。しかし当時の状況から見て(この時袁術はすでに亡い)、さすがに孫策に朝廷から詔勅が下っていたとは考え難い。

さらに裴松之が注に引く『呉録』には、孫策が黄祖との戦勝を上奏した文が記載されている。これに拠れば、この戦いには江夏太守周瑜、桂陽太守呂範、零陵太守程普、孫權、韓當、黃蓋、等が従軍し、黄祖の軍を完全に打ち破り、その妻子七名を捕虜にし、劉虎、韓晞以下二万人を斬り、一万人を溺死させ、六千艘の船と多数の財貨を奪った、とある。

しかし、この『呉録』の資料としての信憑性、またこの上奏文の内容も(戦果は過大に誇張されているとしても)鵜呑みには出来ないところがある。従軍の諸将に黄蓋の名がみられるが、黄蓋の伝記にはこの戦いに参加した旨、記述がない。また周泰、董襲の名が上奏文に見られないのはひとまず置くとしても、孫賁の名が見られないのはいささか疑問である。

孫賁は孫堅の同腹の兄であり、すなわち孫策の伯父である。また孫堅死後の孫家の軍勢をまとめ、外戚の呉景とともに孫策をよく後見している。前述のように孫賁の本伝に「賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖」とあるにも関わらず、上奏文に孫権の名があって孫賁の名がないのは、これは少し不自然なのである。孫堅を討った黄祖との戦いが、孫家の復仇戦、という意味があるとすれば、そこに孫賁の名が無ければならない。

(さらに言えば、上奏文にしてはその文章に格調が欠けるのである。)

戦いの時期については『呉録』の上奏文に拠れば建安四年の12月8日である。『魏書・武帝紀』には「十二月公軍官渡。」と、曹操が官渡に進軍したという記述の後に、

廬江太守劉勳率衆降、封爲列侯。

とあり、その後「五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。」とあるから、戦いのあった時期については『呉録』の上奏文が示す通り、建安四年の冬の事であったのだろう。

しかし『三国志正史』の本伝中には、劉勲が劉表および黄祖に援軍を要請した旨の記載はない。

もともと袁術と劉表は敵対していた。袁術の跡目を劉勲がうけついだといっても、劉勲と劉表の関係が良くなった、という記録は見当たらない。しかし隣接する劉表に対し、劉勲がなんらかの外交を行っていた可能性はあるだろう。劉勲は劉表のように歴とした漢室の連枝、というわけではないようである。しかし袁術と代替わりしたことで、劉表と休戦ないしある程度の友好関係を築いていた事が考えられる。

『魏書』には「劉勳率衆降」とある。劉勲は救援した劉表にはつかずに、曹操を頼って北方に落ち延びている。劉表がみすみす劉勲を曹操のもとへ行かせたのは、劉表と曹操の関係も、このときはさほど緊張していなかった事を意味するだろう。袁紹から曹操の背後を突くように催促されていた劉表であり、曹操からも援軍を要請されていたという。しかし劉表は結局は動かない。官渡での袁紹との対峙に精一杯の曹操としては、劉表が曹操に援軍を送らずとも、荊州から動かないだけでもありがたいのである。そこへ劉勲が衆(つまり軍勢)を率いて帰順してくるのであるから、厚遇するよりない。

また荊州の劉表に対して袁紹、曹操の両陣営から支援要請がなされたように、劉勲や孫策に対しても袁紹や曹操から協力の要請があったはずである。袁紹としては孫策に許都を突くか、曹操の支配下の徐州を攻撃するように働きかけ、また曹操は孫策に劉表、劉勲を牽制するように依頼したであろう。と同時に曹操は劉勲に対しては孫策の北上を抑止するよう要請し、袁紹は劉勲に許都に進撃するよう使者を送るくらいの事はしたであろう。
そういった状況下で劉表が劉勲に援軍を送ったというのは、敗北した劉勲との関係によるというよりも、劉表が(あまり積極的ではないにせよ)曹操を利する行動をとった、とみることが出来る。また劉勲を皖城から排除した孫策に、曹操は脅威を覚えることになる。

劉勲は『魏略』に拠れば、諸葛氏と同じ琅琊出身の人物であるが、徐州郡は沛の建平で長官を務めたことがあり、やはり沛出身の曹操とは旧知の間柄であったようだ。曹操に帰順してからは征虜將軍に任ぜられ、また列侯に封ぜられた。劉勲の兄は豫洲刺史に任ぜられ、その兄が病没すると、またひとりの兄を後任にしたというから、曹操としてはよほどの厚遇である。もっとも曹操との縁故をかさに着て無法な振る舞いが多かったようで、告発され免官されている。(司馬芝の伝には”誅”とある)
ともあれ”率衆”とあるのは、いくばくかの軍勢を率いて降った、という事になる。『呉録』にあるように、江夏の軍勢が数万の死者を出すような大敗であれば、加勢を頼んだ劉勲の軍勢も、その形骸すら保てなかったであろう。

戦いの場所については『通鑑地理通釋・武昌』の説に従えば、当時の”沙羨”の東端が鄂城であったのだから、鄂城近郊であった、と考えられる。そして劉勲の撤退支援という意味では、劉表(黄祖)の援軍は劉勲とその軍勢の最低限の収容に成功した、という事が言える。劉勲とその手勢を鄂城に収容し、そこから黄祖の手配した軍船に搭乗し、長江をさかのぼって沔水(漢水)に至り、襄陽を経由して南陽、さらに許都に至ることはさほど困難ではなかったであろう。

袁術の”跡目争い”における最大のライバルである劉勲については、孫策は討ち取るなり捕らえるなりしたかったはずであるが、それには成功していない。しかし皖城の攻略時に袁術の妻子を保護することには成功している。後に孫権は袁術の息子を取り立て、娘は孫権の子に娶せている。袁術の子等は漢室から見れば”叛臣”の子である。しかし袁術の僭逆ぶりから距離を置いたとはいえ、孫堅・孫策と二代にわたって孫家が袁術の”世話になった”のは事実であり、その”義理”は果たすあたり、この一族の価値観の一端を表してもいる。

”沙羨の戦い”の諸記録では、黄祖の軍勢は大敗した事になっている。しかし孫策軍はそのまま鄂城を攻略することなく豫章に撤収し、これが孫策最後の大規模な軍事行動になるのである。後に示されるように、鄂城は充分な準備なしに攻略できるような拠点ではなかった、ということもあるだろう。しかし劉勲がある程度の衆を率いてまんまと逃げおおせた事と、その後も黄祖がこの方面を固守し続ける事を考え併せると、一方的に黄祖の軍勢が敗れた、とは考えにくい。

 

『呉録』の上奏文にあるように、黄祖の軍勢が三万もの犠牲を出したとすれば、荊州の江夏方面軍はほぼ全滅、と考えなければならない。そうであれば翌年の建安五年も孫策は継続して江夏を攻撃しようとしたはずであるが、次に孫家が鄂城の攻略に遠征するのはさらに丸三年が経過した建安八年の事なのである。そして孫策は”沙羨の戦い”翌年建安五年の早ければ四月、遅くとも八月には死去すると考えられるのであるが、その間の孫家の軍勢の行動は、江東領内、特に豫章郡の平定に集中している、という点も注意する必要があるだろう。

ここで”沙羨の戦い”の結果を考察するうえで、何故か孫策の死が関係してくるのである。”孫策は許貢の刺客に襲われた”という主張は『三国志正史』の本伝、また裴松之の注、ないし裴松之の評にみられるのであるが、いずれも孫策は許都を襲撃しようとしていた、事になっているのである。

しかし(長くなるので次回に回すが)その後の孫策の諸将の行動、また前後の孫策の行動を見る限り、とてもの事、許都を襲撃し献帝を迎える、というような意図を孫策が抱いていたとは考えられないのである。

 

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