豫章の平定 〜黄祖=黄承彦考10

瞬く間に江東を席巻した孫策であったが、その支配はまさに”点と線”であり、建安五年初頭の時点で、充分な基盤が形成されていたとは言い難い。支配しているといっても、そこで円滑に生産が行われ、徴税が滞りなくできているとは限らないのである。

 

劉勲・黄祖との戦いには、孫家の有力諸将の大半が参戦していたと考えられる。しかしそのほとんどは江夏郡の西に隣接する豫章郡に留まり、劉繇の死後、不安定化したこの地域の平定や鎮圧に動いている。それは孫策の死後もほぼ継続されているのである。

 

豫章の情勢

 

ここで”沙羨の戦い”が起こる以前の、豫章の情勢を概観したい。

 

孫家にとって、豫章(郡)は江夏を攻撃する際には、重要な策源地となる地域である。現在の江西省とほぼ同地域であるが、その支配は目まぐるしく変わる。『蜀書・諸葛亮傳』には

 

從父玄、爲袁術、所署豫章太守。

 

とあり、袁術によって諸葛亮の叔父の諸葛玄が豫章太守に任ぜられたという。ところが、

 

會漢朝、更選朱皓代玄。

 

漢の朝廷により、朱儁の子の朱皓が豫章太守として送り込まれる。

 

李傕・郭椶陵陲亡き込まれ朱儁が憤死したのが興平二年(195年)であるが、翌年の建安元年に曹操は献帝を迎えている。朱皓の豫章赴任時期は、曹操の力で漢の朝廷が機能を回復して後の事であろう。また漢朝に節義を貫いて死んだ朱儁の功績が嘉された、という面がうかがえる。そして、


 玄、素與荊州牧劉表有舊、往依之。


漢の権威に拠った朱皓の赴任を機に、諸葛玄は旧知の劉表を頼って荊州へ行く、といった経緯になる。

 

当時の群雄は勝手に太守を任命し始めるが、事後にせよ朝廷には上奏(と献金)の上で承認をもらう形式を踏む。とはいえ僭逆の傾向を強める袁術による太守任命は、諸葛玄にとっても居心地の良いものではなかったのであろう。しかしながら命令を断れない事情もあったのかもしれない。あるいは漢朝による朱皓の太守任命自体、諸葛玄の働きかけがあった可能性すらある。諸葛玄としてはこれを機に袁術から距離を置こうと考えたのかもしれない。

 

一時にせよ、諸葛玄と孫策は袁術の麾下で同僚だったことになる。

 

諸葛玄の豫章太守をめぐっては異説があり、裴松之が注に引く『獻帝春秋』では劉表が諸葛玄を豫章太守に任命したことになっている。そして朝廷から揚州刺史に任ぜられた劉繇は、同じく朝廷から豫章太守に任命された朱皓を支援し、諸葛玄を攻める。諸葛玄は西城に撤退し、建安二年にそこの住民蜂起に遭って殺害された、とある。

 

しかし『献帝春秋』も『江表傳』と同じく史料としては信用し難い小説本の類である。『蜀書・諸葛亮傳』の記載通り、諸葛玄は劉表を頼って荊州へ行った、という理解で良いであろう。

 

ともあれ、豫章太守になった朱皓であるが、これが徐州から流れてきた笮融という佛教を信奉する人物に殺害されるのである。その笮融を劉繇は攻め、敗走した笮融は最後は民に殺される。

 

劉繇は漢朝のお墨付きを得た揚州刺史であったが、袁術は孫策とその軍勢を使って劉繇を攻撃する。見方を変えれば、江東を支配したい孫策が袁術の後援の下に劉繇を攻めた、ともいえる。また袁術と曹操が支配する漢の朝廷との間に起きた、”代理戦争”という側面もある。

 

孫策は曲阿(現鎮江近郊)を根拠地に、西へ西へと劉繇を追いつめる。最後に劉繇は豫章の支配権を維持しつつ、長江南岸の彭澤に拠り、そこで病死したと考えられる。これが”沙羨の戦い”の直後の出来事である。

 

孫家諸将の行動

 

以上の”沙羨の戦い”前の豫章をめぐる情勢を踏まえ、以下、孫家諸将の行動を概観してみたい。前回と重複もあるが、劉勲・黄祖との戦いに従軍した諸将の行動は以下のようなものである。

 

まず孫策の兄弟分の周瑜は

 

破劉勳、討江夏、還定豫章、廬陵、留鎭巴丘。五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。

 

すなわち”沙羨の戦い”の後、軍を”還(かえ)し”、豫章、廬陵(江西吉安)を平定し、巴丘(ほぼ廬陵と同地域)に留まり、鎮(しず)めた、とある。だいたい現在の江西省の範囲で活動していた、といえるだろう。

 

”鎮(しず)める”とは、単に軍を駐屯させるのではなく(武力を用いて抑圧し)その地を安定させる、あるいは鎮圧する、という意味である。これは豫章、蘆陵、巴丘が江夏の戦い直後に、不安定化していた事を示している。

そして「策薨、權統事。」とある。すなわち孫策が薨去し、(孫)権が「事を統べる」すなわち家督を継いだ、という事である。そして周瑜は将兵を率いて(呉に)喪に赴き、そのまま呉に留まった、とある。

 

「(孫權)統事」という語については、複数の人物の伝記に見られ、時に「策薨」のすぐ後の文脈にみられる。特に孫策の死後間もない頃を表していると考えられ、文脈上の時期を特定するために注目すべき語である。

 

孫堅以来の宿将の中でも最年長の程普は

 

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。策薨、與張昭等共輔孫權、遂周旋三郡、平討不服。

 

やはり軍を還(かえ)して、石城を鎮(しず)めた、とある。そして「策薨」の後、張昭と共に孫権を補佐し、三郡を”周旋”して不平分子を討伐した、とある。

この”石城”という地名は江西省贛州近郊に石城県があり、宣城近くに石城県があり、また現南京近郊の古称でもある。

 

しかし程普の伝記には”沙羨の戦いより以前に「従丹楊都尉、居石城。」とあるから、この石城は丹楊(現安徽省宣城)にほど近い地域を指すのであろう。やはり”鎮”の字を用いているから、単に軍をとどめたのではなく、鎮圧のための軍事行動を起こしているのである。

 

孫堅以来の古参武将の韓当は

 

從征劉勳、破黃祖、還討鄱陽、領樂安長、山越畏服。

 

やはり軍を還(かえ)して鄱陽(の賊)を討ち、海昏(南昌)から撫河を南東に下った楽安(江西撫州)に駐屯し、山越(山岳地帯の異民族)はみな畏服した、とある。鄱陽、とあるのは鄱陽湖の水賊ことで、海昏から長江へ連絡する鄱陽湖を掌握した、と考えられる。

 

周泰は

 

後從攻皖、及討江夏、還過豫章、復補宜春長、所在皆、食其征賦。

 

豫章を過ぎ「復補宜春長」とある。宜春は現江西省宜春市で、南昌から贛江を南西に下り、袁河を経由して至る。豫章郡南部地域であり、その西方に荊州の長沙がある。

 

孫策と古くから兄弟同然の付き合いをしてきた呂範は

 

征江夏、還平鄱陽。策薨、奔喪于吳。

 

おそらく韓当と合同で鄱陽(湖)を平定し、孫策の死を聞くと呉に喪に奔(はし)った、とある。

 

董襲の伝記には、

 

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。策薨、權年少、初統事。太妃憂之、引見張昭及襲等

 

とある。董襲はおそらく孫策や孫権と共に呉に帰還したのであろう。ゆえに「權年少、初統事」とあり、孫権が年少にして「事を統べる」つまりは孫家の家督を継いだ時、孫権の母親から今後について下問を受けたのである。

 

以上のように、孫権以外の諸将は石城の鎮定に動いた程普や、呉に帰還した董襲等を除いて、豫章郡で活動していた、という事がいえるだろう。

 

孫策の行動

 

さて、肝心の孫策については、劉勲との戦いの後の行動と所在については『孫破虜傳』中の、孫策の伝記の中では明確に記述されていない。その伝記中では、

 

勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

 

と、劉勲の衆(軍勢)が孫策に下り、劉勲以下数百人は曹操の下へ帰順した、とある。続いて、

 

是時、袁紹方彊、而策幷江東。曹公、力未能逞、且欲撫之。

 

すなわち袁紹と対峙していた曹操は江東を平定した孫策を制する余力がなく、「欲撫之」すなわち懐柔策に出る。

 

乃以弟女、配策小弟匡。又、爲子章、取賁女。

 

姪を孫策の末弟の孫匡に嫁がせ、曹操の子の曹章には孫賁の娘を娶せた、とある。

さらに、

 

皆禮辟策弟權、翊。又命揚州刺史嚴象、舉權茂才。

 

孫策の弟の孫権、孫翊を”禮辟(れいへき)”したとある。禮辟は朝廷に征召、すなわち召し出す、という意味である(必ずしも応じるとは限らないが)。また曹操は揚州刺史の嚴象に命じ、孫権を”茂才”に推挙させている。(茂才はすなわち”秀才”の事で、光武帝劉秀の諱を避けたのである。)

 

続いて、

 

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

 

とあり、孫策は許都を襲撃し漢の皇帝を迎え入れようと画策し、ひそかに兵と諸将を配置していた、とある。

 

以下、許貢の食客による孫策暗殺の場面が記述されるのであるが、それについてはひとまず置く。

 

 

『魏志・武帝紀』には

 

八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。

 

と、袁紹との戦闘経緯が記述され、続いて

 

孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。

 

とある。

 

すなわち孫策は袁紹と曹操が対峙している状況に乗じ、許都を襲撃しようとしたが、出発前に刺客に暗殺された、というように書かれている。

 

『魏志・武帝紀』の記述が時系列を正しく反映していたとすれば、孫策は建安五年の八月以前に死去していることになる。

 

孫策がどこで死去したか?については、前述の周瑜の伝記に

 

將兵赴喪、遂留吳。

 

とあり、また呂範の伝記に

 

奔喪于吳。

 

とある。ほぼ呉で死去したと考えて良いだろう。

 

以上、ある程度はっきりしているのは、孫策は建安四年の12月に沙羨で黄祖の軍勢と戦い、建安五年の8月に呉で死去した、という事である。

 

沙羨の戦いの後の孫策の行動については、劉繇・太史慈の伝記にいくらかの手掛かりがある。

 

劉繇の伝記には

 

繇、尋病卒、時年四十二。

 

とあり、劉繇は四十二歳で病死した事がわかるが、没年についての情報はない。しかし劉繇の伝記には

 

後、策西、伐江夏、還過豫章、收載繇喪、善遇其家。

 

とあり、孫策が”伐江夏”(すなわち沙羨の戦い)の後に豫章を過ぎた時、劉繇の喪を”收載(聞き)”し、劉繇の家族を慰撫した旨が記載されている。

 

また孫賁の伝記には

 

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。軍旋、聞繇病死、過、定豫章。

 

劉勲との戦いから沙羨の戦いに従軍し、軍を撤収させた際に劉繇の病死を聞いた、とある。ゆえに劉繇の死は建安四年の12月ないし建安五年の1月と推測される。

「上賁、領太守」とあるのは、上奏して孫賁豫章

 

そして太史慈の伝記には、

 

後、劉繇亡於豫章、士衆萬餘人未有所附。策、命慈、往撫安焉。

 

劉繇の死後、帰属が定まらない豫章の”士衆”1万人余を慰撫し、孫家の味方につけるために、孫策はもともと劉繇の配下であった太史慈を豫章へ派遣するのである。その際に

 

左右皆曰「慈、必北去不還」策曰「子義、捨我、當復與誰?」餞送昌門

 

『演義』でも有名な場面であるが、左右の諸将はみな「太史慈は北に去って還ってこないでしょう。」と言うところ、孫策は「俺を捨ててどこへ行こうというのか?(きっと帰ってくる)」と言い、「餞送昌門」とある。

 

「昌門」というのは、「呉越春秋」に拠れば

 

 闔閭所建。闔閭欲西破楚,故又名 破楚門。

 

すなわち(戦国春秋時代の)呉王闔閭が建設した呉の都城の西の大門であり、闔閭はまた(西方の)楚を破らんと欲し”破楚門”とも呼ばれた、という門である。

 

つまり孫策は呉にあって、太史慈を豫章へ送り出しているのである。「餞送」とは酒宴をひらいて送る、という事である。むろん太史慈が豫章で将兵を集めるといっても単身で行かせたはずがなく、ある程度の軍勢を率いて出発させたのであろう。

 

以上から、”沙羨の戦い”からそう遠くない時期、諸将を豫章の平定に残したまま孫策は呉に帰還していた、という事がわかる。

 

また太史慈を派遣するにあたり、

 

把腕別曰「何時能還」答曰「不過六十日」果如期而反

 

孫策は太史慈の腕をとりながら「いつ帰ってこれるか?」と聞くと、太史慈は「六十日とかかりますまい」と答え、その約束に反しなかったという。

 

もっともこの時太史慈は豫章で帰参させた軍勢を率いて、一度は呉に帰還したとは限らない。豫章の情勢はそれほどまでに緊迫していたのである。なぜなら”沙羨の戦い”で大敗したはずの荊州軍は、早々に反撃に出ているからである。すなわち、

 

劉表從子磐、驍勇、數爲寇於艾西安諸縣。

 

劉表の甥で勇猛で知られた劉磐が、艾、西安の諸県(いずれも豫章郡)に侵入したため、

 

策於是、分海昬建昌左右六縣、以慈爲建昌都尉、治海昬。幷督諸將、拒磐。

 

とある。建昌は海昏に隣接する県であるが、孫策は太史慈を建昌都尉に任命している。そして海昏を含む周辺の諸県を統括させたうえで、諸将を監督させ、劉磐を防がせた、とある。「幷督諸將」とあるが、宜春の周泰、楽安の韓当はこのとき太史慈の指揮下で働いたのであろう。

 

劉表の従子、すなわち甥の劉磐は長沙の攸県に黄忠と共に赴任している。攸県は現在の株洲市轄県に位置するが、その東には前述の周泰の守る宜春がある。劉表は甥の劉磐を長沙の太守ではなく、当時としても大きな街ではなかったであろう、最前線の攸県に行かせている。副将格で付けられた黄忠とともに、よほどその驍勇を見込んだのであろう。

 

豫章は、北部で江夏に、南部で長沙に接している。南部は山がちな地域であり、大軍を移動し、長期間にわたって補給を続けるのは困難である。劉磐は少数部隊を率いてゲリラ戦を仕掛け、山間部の不服従宗族の反乱を使嗾したのであろう。しかし太史慈と配下の諸将は劉磐の侵入をよく防いだようで、

 

磐、絕迹、不復爲寇。

 

劉磐の侵攻は止んだ、とある。太史慈の伝記にはさらに、

 

孫權統事、以慈能制磐、遂委南方之事。

 

とある。ここで再び「孫權統事」とあり、孫権が家督を継いで後、太史慈の対劉磐の実績を鑑み、継続して南方(すなわち豫章郡南部地域)を任せた、とある。

 

以上でわかるのは、太史慈と劉磐との戦いは、沙羨の戦いから孫策の死までの間に起きた出来事である、という事である。すなわち建安五年の1月から8月までの間の出来事である。

 

以上をまとめると、沙羨の戦いの後、周瑜、孫賁、韓当、呂範、周泰はほぼ豫章郡(江西省)の各地で戦い、そこへ太史慈も派遣されることになる。程普は石城の鎮定に動いている。劉勲への遠征軍が分散して各地の平定にあたっており、個々の戦闘の規模は大きなものではないかもしれないが、孫策軍全体では大規模な軍事行動である。にもかかわらず、沙羨の戦いの後のかなり早い時点で孫策は(おそらく孫権とともに)呉に帰還しているのである。そして死去するまで、呉から動いた形跡はない。

 

孫策には許都侵攻の意図があったのか?

 

『魏志・武帝紀』や『呉志・孫破虜傳』にあるように、孫策に許都へ侵攻する意図があったとしても、いったい諸将のうちの誰を従軍させるつもりであったのだろうか?

 

北方へ侵攻するなら、孫堅とともに河北で戦った歴戦の将兵を連れてゆきたいであろう。ところがそのほとんどが豫章の平定に分散しており、最年長の程普は要衝の石城の掌握に努めている。また朱治は会稽方面の鎮定にあたっていたと考えられる。孫策はあるいは孫権と張昭だけを頼りに、許都ないし徐州へ侵攻するつもりであったのであろうか?北方、とくに徐州方面に通じていたであろう太史慈まで、豫章に投入してしまっているのである。

 

また許都へ侵攻する計画があったのだとすれば、孫策は致命的なミスを犯している。劉勲を計略で誘い出し、その留守を急襲して奪った皖城であるが、この地域をおさめる廬江太守に、李術という、信用ならない淮南の男を任命するのである。

その李術が、曹操が任命した揚州刺史の嚴象を殺害する。『魏志』の劉馥の伝に

 

後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象

 

とある。嚴象は曹操の命で孫権を”茂才”に推挙した人物である。これより以前に、孫権は朱治によって”孝廉”に挙げられている。孝廉も秀才も優秀な人材を意味する名誉称号であるが、孝廉は各郡に一名、郡太守によって推挙される。”茂才”すなわち秀才は各州に一人だけ孝廉の中から選ばれ、刺史によって推挙される。

 

ところが、あろうことか李術は孫権を茂才に推挙してくれた嚴象を攻めて殺害してしまうのである。

形式の上であっても孫権すなわち孫家は嚴象に恩義があり、それを孫家の武将が攻撃するというのは、当時の義理の感覚から言っても容認されることではない。これは李術の独断専行の気配がある。当然、この行動は曹操を刺激し、孫家との間に摩擦を生じる結果を生んだであろう。

 

劉馥の伝記には続いて

 

廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江淮間、郡縣殘破。

 

とある。

 

すなわち廬江郡は梅乾や雷緒、陳蘭といった独立勢力が数万の衆を率いて攻伐を繰り返し、郡や縣は荒廃した、とある。

 

おそらく孫策が廬江太守に任じた李術は孫家古参の武将ではなく、袁術の死後、廬江郡に割拠する軍閥の有力者だったのではないだろうか。あるいは孫策と同じくかつて袁術の支配下にあり、孫策と旧知の間柄であったのかもしれない。

 

李術は孫策の死後、孫権に対して反乱を起こし、結果敗亡している。このように信用ならない男を廬江郡の太守に残しながら、古参の武将率いるほぼ全軍を劉勲の討伐と江夏の戦いに投入したのである。

 

皖城は現在の安徽省潜山市に位置し、後に孫軍と曹軍が死闘を繰り広げる合肥の南方の要衝である。孫策軍がこの時点で合肥を掌握していないのであれば、許都を目指す第一の策源地として皖城は非常に重要である。皖城を足掛かりに廬江郡を掌握していなければ、許都への進撃は困難である。

 

もし孫策が北方へ勢力を伸ばす意思を持っていたのであれば、戦略上重要な皖城すなわち廬江郡には信頼のおける武将を太守に置いたはずであるが、それをしていない。

 

ひとつには有力な武将と軍団を皖城へ置くことで、曹操を刺激したくなかった事が理由に考えられる。

いまひとつの理由は、皖城の守備に削くだけの兵力の余裕がなかった事が考えられる。”沙羨の戦い”の後早々に太史慈を豫章へ送り、劉繇の残党の掌握に努めているのもそのためかも知れない。

 

『呉志』徐盛の伝記を見ると、

 

孫權統事、以爲別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黃祖。

 

とある。「孫權統事」の語が見えるが、孫策の死後、孫権が軍を統率して間もないころであろう。徐盛にわずか五百の兵で柴桑を守らせるのである。

そもそも徐盛は諸葛氏などと同じ琅琊の出身で、戦乱を避けて江東へ移住してきた人物である。その武勇を見込んで兵を預けたというが、柴桑は当時は対江夏の最前線である。後の赤壁の戦い前夜、孔明は柴桑で孫権と会談するが、鄂城を攻略するまで呉軍の重要な前線基地であった。

 

建安五年当時、まだそれほど大きな規模の拠点ではなかったにせよ、それまで実績のない徐盛に五百の兵で守備させているのである。皖城を李術に委ねた事と併せて、当時の呉軍には人材も兵員も払底しつつあったことがうかがえる。そこへ、黄祖は黄射率いる数千の兵で襲撃させるのである。

 

(黄)祖子(黄)射、嘗率數千人、下攻盛。盛、時吏士不滿二百、與相拒擊、傷射吏士千餘人。已乃、開門出戰、大破之。

 

とある。「嘗率數千人」の「嘗」は”かつて”ではなく、”こころみに”と読む。すなわち黄射はためしに数千人の兵で徐盛の守る柴桑に”ひとあて”、いわば威力偵察を試みたのである。ところが五百の兵を与えられているはずの徐盛の手元には、この時「時吏士不滿二百」と、二百人足らずの兵しかいない。しかし少数ながらも精鋭であったのだろう。徐盛は撃退に成功する。

 

そして、

 

射、遂絕迹、不復爲寇。

 

後ふたたび黄射は来寇しなくなった、という。

 

この徐盛の伝記の「拒黃祖〜射、遂絕迹、不復爲寇。」は。前述の太史慈の「拒磐。磐、絕迹、不復爲寇。」とは修辞が酷似している点は注意を要する。太史慈による劉磐の撃退からそれほど遠くない時期に、徐盛は黄祖から派遣された黄射の軍勢と交戦していることが察せられる。すなわち建安五年の冬ないし建安六年の早い時期に黄射は来寇したのであろう。

 

注目すべきは、”沙羨の戦い”から1年足らずの間に、数千の兵を前線の敵拠点に送って試しに戦わせ、実勢をはかる軍事行動をとる余力が黄祖側にはあった、という事実である。この点からも”沙羨の戦い”が孫策軍の大勝に終わった、という主張には疑問符が付く。

 

”沙羨の戦い”の後に孫策は劉繇の病死を知り、この機に豫章郡の完全支配を目指したのであろう。ゆえに諸将のほとんどはこの方面に投入されるのである。豫章郡を掌握するという事は、西の江夏郡を攻める際の足がかりを得ることになる。そこに注力しているという事は、孫策の意思はあくまで”西”にあって”北”にはなかった、という事が考えられる。さらに建安五年当時の孫策の戦力事情を考えると、曹操が恐れたように、許都へ向かって進撃するだけの別動隊を編成出来たとは考えにくい。

 

孫策の死の真相は?

 

それにしても”山越”、つまりは山間の小部族の討伐にも陣頭に立つほどの孫策の姿が豫章の戦線には無い。”沙羨の戦い”の後に早々に呉に帰還し、死去するまで呉から動かなかった、と考えられる。孫家の諸軍が一方面を任せられるほど熟練された、という事もいえるのだが、まだ二十代半ばの極めて”好戦的”な孫策がその戦場に出なかったのはなぜだろう?

 

ここでひとつの仮説が考えられる。孫策は呉から動かなかったのではなく、動けなかった、のではないか?端的に言えば”沙羨の戦い”で孫策はすでに負傷し(弩の矢の可能性が高い)......おそらくはその負傷が元で死去した、という事である。

 

たしかに劉繇の伝記では孫策は”沙羨の戦い”の後、豫章を過ぎる際に劉繇の病死を聞き、その遺族を手厚く見舞った、とある。しかしこれは孫策自身が行わなくとも、しかるべき人物に名代(たとえば孫賁)をたてれば充分である。(事実、なぜか孫賁の伝記にだけ”聞繇病死”の語がみえる)

また呉都の昌門で太史慈を見送ったのも建安五年の早い時期であれば、それほど傷の状態が悪化していなかったとすれば可能である。

 

孫策は呉で曹操との外交、そのほかの内政面に忙殺されていた、という事は考えにくい。呉には張昭がおり、また当時は何より軍事が最優先である。曹操とて、官渡で袁紹と対峙しながら孫家との婚姻以外にも、膨大な外交諸事を処理しているのである。孫策が呉に長期間滞在しなければ政務が滞る、といった体制ではなかったであろう。

ゆえに孫家の最高の戦術家である孫策が、孫権のみを伴って呉に居続けたのは不自然なのである。(手に入れた大喬とつかの間の休暇を楽しむためであった、というのは周瑜の手前、無いであろう。)

 

実のところ、建安五年から赤壁の戦いの前年まで、呉側の方には信用にたるだけの記録に乏しいものがある。『三国志正史』の見方の全般に言えることであるが、裴松之が引用した『江表傳』や『呉録』あるいは『献帝春秋』といった架空戦記や歴史小説の類を、足りない時系列を埋めるのに使用するとわけがわからなくなる。

『呉志』の伝記、裴松之の引用では呉の史官が編纂したという『呉書』あたりにひとまず信を置きつつ、『魏志』や『蜀志』と比較しながら、現実的に考える必要があるだろう。

 

周知のとおり、『呉志』の孫策の伝記では、許都を襲撃する計画を準備中だった孫策は、許貢の刺客に襲撃されて重傷を負い、死去した事になっている。『呉志』でも『魏志・武帝紀』でも、建安五年の孫策には許都を襲う計画があった、と記述されているが、今回見てきたように孫家の軍勢の実情はそれと程遠い。

結論的に言えばこの”許都襲撃〜刺客暗殺説”は、おそらくは憶測混じりの伝聞が当時の魏側に伝わって出来た、かなりいいかげんな記録内容を陳壽が採用したものであり、真相は呉の政権によって秘匿されていた(ないし早期に記録が亡失した)と考えられるのである。

 

次回はその点について考えてみたい。

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