刺客は実在したか 〜黄祖=黄承彦考11

前回見てきたように、『呉志』の記述を追う限り、客観的な状況としては、孫家の軍勢は新たな支配地域の掌握と荊州軍への防備に注力しており、北上する余力がなかったことが見えてくる。

また裴松之が注に引く『呉録』に拠れば、江夏を守る黄祖との”沙羨の戦い”の戦勝報告の上奏文において、孫策は諸将を荊州南部各郡の太守に任命している。すなわち周瑜は江夏太守に、呂範は桂陽太守に、程普は零陵太守に任命されている。
『呉録』を鵜呑みにするにはいささか問題があるが、『三国志正史・呉志』の周瑜の伝記には皖城の劉勲を攻撃するより以前に

頃之、(孫)策欲取荊州、以(周)瑜爲中護軍、領江夏太守

とあり、孫策は周瑜を江夏太守に任じていたことがわかる。それは「(孫)策欲取荊州(孫策、荊州を取らんと欲し)」すなわち孫策の荊州を手に入れようという意思の表明に他ならない、と書かれている。
また程普の伝記にもやはり皖城攻撃前に「領零陵太守」とあり、同じ時期に零陵太守に任ぜられた事が書かれている。呂範の伝記には桂陽太守に任ぜられた記載は無い。しかし分身ともいうべき周瑜と、孫策軍最年長の宿将である程普をいずれも荊州の太守に任じた意味は軽いものではないだろう。この時点で江夏はもちろん、荊州南部の零陵も劉表の支配下なのである。にも拘わらず、腹心の将を荊州各郡の太守に名目上とはいえ”任命”したのは、孫策ならびに孫家の軍勢の、荊州侵攻への強い意思の表れ以外の何物でもない。

さらには、孫策は後に(帝位についた)孫権によって「長沙恒王」と諡(おくりな)されている。これも孫策の目標は一貫して荊州であったことを示唆している。それは袁術の麾下にあって劉表を攻め、戦死した父孫堅の遺志を継ぐものであったのではないか?という事も考えられる。孫堅もまた、かつて自身が義勇軍を興した荊州長沙郡を目指して南下を図った、とみられるからである。

『呉志』における孫策の死

豫章郡は江夏を攻撃する足掛かりとして重要であり、事実孫策軍は”沙羨の戦い”の後、軍勢の多くを豫章郡の平定に投入しているのである。しかし、『魏志』の武帝紀の記載を見る限り、建安五年の遅くとも八月には孫策は死ぬ。

その最後については『呉志』にまず

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

とある。すなわち曹操と袁紹が官渡で対峙しているスキをついて許都を襲い、献帝を迎えようと孫策は画策し、隠密裏に諸将を配置していた。

未發、會爲故吳郡太守許貢客、所殺。

ところが軍を進める前に、すでに故人となった元呉郡太守、許貢の(食)客によって殺害された、とある。続いて、

先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。

とあり、先に孫策は(時期は未詳であるが)許貢を殺害し、許貢の食客と子供はともに江辺(長江沿岸のどこか)に逃れ隠れた、という。そして、

策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策

孫策は単騎で外出したさい、”卒”すなわち唐突にその食客に遭遇し、食客は孫策を撃って傷を負わせた、という。

一読して、曹操が恐れたほどの孫策の最後にしては、時期も場所も定かではない、随分と疎漏な記述であることが感ぜられるのである。また内容そのものにも不自然な点が多々ある。この場面については、孫盛、裴松之が議論しているが、それは後述する。先に孫策が殺害したという、許貢について考えてみたい。

許貢の事跡

呉郡太守許貢なる人物が、いつどこで孫策に殺害されたか『三国志正史』の本伝では明らかではない。許貢については、『呉志』の朱治の伝記に

治、從錢唐、欲進到吳。吳郡太守許貢、拒之於由拳。治、與戰大破之。貢、南就山賊嚴白虎。

とある。呉郡は現蘇州一帯であるが、許貢はそこの太守であったという。朱治は銭塘、つまりは現在の杭州付近から呉郡(現蘇州付近)に進撃するが、許貢は由拳(現嘉興)に拠ってこれを阻止しようとする。しかし朱治は許貢を攻め、大いにこれを破る。許貢は南に逃れ、山賊の嚴(白)虎に就いた、とある。

蜀書の許靖の伝記に拠れば、許貢はさらに孫策に追われた王朗とともに許靖を頼るが、なおも追撃されて皆で交州(現広東省南部)まで逃げた、とある。以降、本伝では許貢の消息は不明である。許貢を孫策が殺害した、という事実は本伝からは見つからないのである。

ただ裴松之が注に引く『江表傳』には、呉郡太守の許貢が孫策を項籍のような野心家であるとたとえ、彼を警戒するよう漢帝に上奏しようとした、とある。ところがその文が孫策の手に渡り、孫策は許貢に出頭を命じたという。孫策は許貢を問責したが、許貢が何も弁明できなかったので、武士に命じて許貢を絞殺させた、という。ゆえに孫策は許貢の子(や食客)の仇となった、というわけである。

しかし呉郡太守としての許貢は朱治に敗れ、遠く交州まで逃れていると『蜀志』の許靖の伝記に記されている。許靖は後に交阯(ベトナム北部)にまで逃れた後に劉璋に仕え、さらに劉備入蜀後にも重んじられたほどの人物である。許貢はひとり許靖と別れ、自分を追いやった孫策のいる江南へと戻ったという事は考えにくい。許靖の伝記が真とすれば、やはり『江表傳』における許貢の最後は虚構であろう。

もとより歴史小説のような『江表傳』であるが、許貢の最後から、孫策が許貢の食客に討たれる場面の下りは実に歯切れが悪い。呉郡太守の許貢が、自身が項羽のように危険視している孫策に、呼ばれたからといってのこのこと面前に出頭すること自体、非常に不自然なのである。

孫盛と裴松之の評

『江表傳』には許貢の死に続いて、孫策が刺客に襲撃される場面が描かれているが、以下に大意を示せば、

貢奴客潛民間、欲爲貢報讐。獵日、卒有三人卽貢客也。策問「爾等何人?」答云「是韓當兵、在此射鹿耳。」策曰「當兵吾皆識之、未嘗見汝等。」因射一人、應弦而倒。餘二人怖急、便舉弓射策、中頰。後騎尋至、皆刺殺之。

許貢の使用人と食客は民間に潜伏し、許貢の復仇の機会をうかがっていた。猟の日に、(孫策は)三人の兵卒(を認めたが、彼らこそが)が許貢の食客であった。孫策は「なんじらは何者か?」と問うたところ「韓当様の兵で、ここで鹿を射ていただけです。」という。孫策が言うには「韓当の兵なら俺は皆知っている。お前らをみたことはない。」といい、そのうちの一人を射たが、(孫策の)弦(の音に)応じてその男は倒れた。あとの二人は急に怖気づき、弓をとって孫策を射たところ、(孫策の)頬に当たった。すぐに(随伴の)騎兵が追い付き、(残りの二人を)刺殺した、とある。

また裴松之は『九州春秋』という書を注に引いている。すなわち

策聞曹公北征柳城、悉起江南之衆、自號大司馬、將北襲許、恃其勇、行不設備、故及於難。

孫策は曹操が北に柳城へ遠征したと聞き、江南の軍勢を総動員し、自ら大司馬と号し、北に許都を襲撃しようとしたが、その武勇を過信して防備が行き届かなかったため、(刺客に襲われる)難にあったのだ。

とある。

裴松之はさらに『孫盛異同記』における孫盛の評を引用している。

(孫盛と裴松之の評を詳述していると長いので大略のみを記すが)その中で孫盛は「黄祖が長江の上流に陣取り、陳登が徐州を固め、また支配下の諸郡の険阻な地域にも、帰服しない宗賊が多い状況で、孫策が許都を襲い、献帝を迎える意図があったとは考えにくい」と述べている。さらに『江表傳』にあるように、孫策が韓当軍の兵卒のことごとくを知っていることなどありえない(むろん、そうであろう)と、孫策襲撃の場面に疑問を投げかけている。また柳城の戦役は建安十二年であるから『九州春秋』の説はまったくの誤りだ、と述べている。

裴松之は以上を踏まえながら、さらに批判を加えているのだが、まず孫盛と同じく『九州春秋』の錯誤は甚だしい、としている。
しかし孫策の北征については否定していない。すなわち黄祖の軍勢は”沙羨の戦い”で壊滅的打撃を受けているし、またそもそも劉表とその配下には”兼幷の志”、つまりは領土拡大の野心などない(ので心配には及ばない)と。また嚴虎や祖郎などの賊も覆滅し、山賊風情はどうでもいいのであるから、北方へ遠征するにあたって懸念には及ばないと。そして

策之此舉、理應先圖陳登、但舉兵所在、不止登而已

孫策は直接許都を急襲するのではなく、まず徐州の陳登を攻撃するが、その矛先は(陳)登に留まらないだろう(許都へ進撃するだろう)という。裴松之はさらに、

許貢客。無聞之小人、而能感識恩遇、臨義忘生、卒然奮發、有係杜矣。詩云「君子有徽猷、小人與屬。」貢客其有焉。

すなわち、許貢の食客は小人などではなく、許貢に受けた恩義を忘れず、義の前に自分の生を忘れ、発奮して孫策を撃った事、古代の烈士に等しい行いであり、云々、と称賛の言葉を並べている.......しかし見てきたように、朱治に攻められて後の許貢の消息は定かではなく、ましてその食客がどのような人物であったかも、確かめようがない。まして『江表傳』に現れる三人の兵卒はあたかも雑兵のようで、孫策を討つほどの豪傑には程遠い。

孫盛の『江表傳』と『九州春秋』をめぐる評と、それらをひとくくりにして裴松之が述べている議論は、直接的には孫策に許都侵攻の意図があったのかどうか?それが可能であったのかどうか?という事である。しかしその主眼は『江表傳』や「九州春秋』の史料としての信頼性への批判である。孫盛は孫策襲撃の場面にも疑問を投げかけているのであるから、より端的に言えば孫策の死の原因へ疑義を呈しているのである。

「当時の孫策軍に北方侵攻は情勢的に不可能である。だから許都を襲わんとする孫策が、許貢の刺客に襲われた傷が元で死んだ、という史料は信じがたい」と主張する孫盛に対し、裴松之は「黄祖も劉表も、江東の情勢も懸念には及ばないのであるから、孫策は北方への遠征は可能である」という。ただし先に徐州を攻め(徐州を足掛かりに)許都なりへと侵攻する計画であったのだろうと述べている。だから(孫破虜傳の伝記は江表傳が述べるような)孫策が刺客に襲われて死亡したという記載は間違っていない、という。その考えに基づき、名も残らぬ刺客の行為を称賛すらしているのである。

前回見てきたように、”沙羨の戦い”の後の孫策軍の配置と行動を見る限り、北方侵攻を不可とする、孫盛の情勢判断の方が理に適っているように見える。裴松之は江東の情勢、とくに劉繇の死後に孫家の支配が及び始めたばかりの豫章の情勢と、大敗したはずの荊州軍の反撃を『呉志』から読み取っていないのである。

裴松之は孫策の死の原因について、信憑性に乏しい『江表傳』や『九州春秋』、さらに『孫盛異同記』まで引いたうえで自説を述べている。この裏を返せば、孫策ほどの勇将が無名の刺客の手にかかって落命することに、裴松之自身も疑念を払拭しきるだけの根拠を本伝の中に見出せなかった、という事がうかがえる。

以上を整理すれば、

1.建安五年の情勢を見るに、孫策軍は江東の平定に注力する必要があり、北上する余力はない。

2.江夏太守に周瑜、零陵太守に程普を任じ、後に長沙恒王と諡されたように、孫策には荊州併呑の強い意思があったとみられる。

3.許貢が孫策に殺害されたとする経緯を『三国志正史』本伝中の、許貢に関わる事跡から追えない。

4.裴松之が注に引く『江表傳』も『九州春秋』も史料としては信憑性に乏しい。


という事が言えるだろう。許貢が孫策に殺害されていなければ、許貢の食客による孫策への暗殺実行も起こりえない。また許都襲撃を主張する史料自体、当時の孫策周辺の事情に通じていた人物の手に拠る記録とは考えられない。

しかし以上は全て「孫策は刺客によって斃れた。」という命題を否定するための、およそ必要条件に過ぎない、という事は注意を要する。

以下、孫策時代から赤壁の戦い前夜までの期間の、孫権に関する呉側の史料の空白の存在と、魏側の孫策の死に関する記述の信憑性、また暗殺成功の可能性の低さなどについて述べたいが、長くなったのでまた次回にしたい。

江夏太守として生涯を終えた黄祖であるが、荊州主観の史料はほとんど残っていない。敵側の史料にしか事跡が記されていないため、その人物像は相当に偏向している、と考えられる。加えてこの時期の呉側の史料自体がどういうわけか非常に少ないのである。孫策の死の真相について考えてゆく過程で、その事情がより明らかになってゆくであろう。

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