郭嘉の予言 〜黄祖=黄承彦考12

前回は『呉志』における、孫策の死の場面の記述に関する矛盾点を考察した。

今回は『魏志』における孫策の死とその前後の出来事の記述内容について考えていきたい。


孫策の死の時期


まず『魏志・武帝期』には、


八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。


と、袁紹との官渡での対峙の進展の記述の後、


孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。


とある。その次に時期のわかる語としては


冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。


のように「冬十月」とある。武帝紀の記述が時系列に沿っていると仮定すれば、孫策は建安五年の八月〜十月に至る間に死去した、といえるだろう。また孫破虜傳と同様、武帝紀でも孫策はもっぱら許都襲撃を企てていた、と考えられている。


『魏志』の郭嘉の伝記にも、


孫策轉鬭千里、盡有江東。聞太祖與袁紹相持於官渡、將渡江北襲許。


江東を平定した孫策が、官渡の戦いの隙を突いて許都を攻撃しようとした事が書かれている。そして、


衆聞皆懼


「衆聞皆懼(衆は聞いて皆懼れた)」とある。衆は狭義には軍勢を指すが、広い意味では軍とその軍属を含む民衆、あるいは住民を指す。


孫破虜傳の孫策の伝記によれば、許都への進撃は秘匿されていた計画である。それを「衆聞」という事は、大衆に知れ渡ってしまった事を意味する。しかし同時にそれが風聞に過ぎなかった可能性も考えられるのである。”衆”はこの場合、許都の住民を指すのだろう。


この時期、袁紹は劉表に共闘を呼び掛けている。いわゆる「合従」の策として、孫策に対しても同様の働きかけをしていない道理はない。くわえて曹操の本拠地である許都に対し、孫策や劉表が曹操軍の留守を狙うという噂を流布するのも、牽制の為の常套手段である。

また孫策が任命した李術によって、揚州刺史の嚴象が討たれた事件の影響も考えられる。嚴象については、孔融の推薦文が残っている。非常な名士であり、それが李術に殺害されたという大事件は、すくなからぬ衝撃を曹操に与えたであろう。

さらに言えば、孫策に敗れ曹操へ帰順した劉勲の一党が、積極的に”孫策脅威論”を吹聴した、という事も考えられるであろう。


郭嘉の予言


このような状況に対し、郭嘉はこう述べる。


策新幷江東、所誅皆英豪雄傑。


すなわち孫策が江東を併合する過程で誅殺した者はみな英雄豪傑であるといい、(そういった者達の縁者には(仇討ちのために)死力を尽くす者も大勢いるであろうから)


若刺客伏起、一人之敵耳。


もし、刺客が待ち伏せをしていたら(軍勢を率いる孫策といえども)”一人之敵耳”つまりはひとりの標的にすぎないのであり、


以吾觀之、必死於匹夫之手。


ゆえに郭嘉が状況を推察するに、必ず”匹夫”の手にかかって死ぬであろう、と言っている。続いて、


策臨江未濟、果爲許貢客所殺。


孫策は長江を渡らぬうちに、果たして許貢の食客の手によって殺害された、とある。

つまりは郭嘉は孫策暗殺を予言し、的中させた、というのだ......


郭嘉の孫策暗殺については裴松之は注で「殺害される時期までは予測していない。」と、郭嘉の予言の欠点を指摘している。孫策による許都侵攻を恐れる曹操としては、袁紹を撃破する前に孫策が「匹夫」の手にかかって落命しなければ意味がない。


郭嘉は、曹操の脅威にならない早い時期に孫策は落命するだろう、という意味で述べたのだろうか。いささか出来すぎである。

仮に郭嘉が刺客を放った、という話であれば、これもひとつの策略として理解できなくもない。

しかし強力な銃火器や爆薬の無いこの時代である。軍勢を率いる立場にあり、かつ武勇に長けた要人の暗殺は成功が期し難い。呂布ですら、近侍しているからこそ丁原や董卓の暗殺が可能だったのである。身内と信じる位置にいるものが実行しなければ、返り討ちに遭う可能性の方が高い。


曹操は嚴象によって孫権を茂才に推挙させ、また孫家と互いに姻戚関係を結んでいる。一貫して懐柔策に出ているのであり、その一方で成功し難い暗殺を計画していたとは考えにくい。失敗すれば激怒した孫策に背後を討たれかねないからである。仮に懐柔策で油断させておいて、ひそかに刺客で命を狙う、というような計略を荀や郭嘉が進言し、曹操が採用しただろうか。


もちろん中世のイタリアのように、後漢末当時も暗殺計画は多く立案されたのかもしれないが、結果的に敵対勢力から放たれた刺客によって殺害された群雄はいないのである。


孫破虜傳には、孫策がひそかに兵を部署した、とある。『呉志』の記述を追う限り、宿将の程普を始め、周瑜以下、ほとんどの武将と軍団は豫章を中心とする江東の平定に動いている。この時代に限らないが、あらかじめ相当な準備をしなければ大軍の遠征など出来るものではない。豫章の平定が単なる陽動であり、油断させておいて許都を奇襲できるような距離ではないのである。


結論的に言えば、『魏志・武帝紀』に記述される孫策の許都襲撃は、袁紹の情報工作に刺激された曹操側の憶測が”史実化”した、という可能性が考えられる。『呉志・孫破虜傳』における孫策の死の経緯も、『魏志』の記述と矛盾しない。これは孫策の死に関する”ソース”が、ほぼ同一のものしかなかった結果ではないだろうか。


『呉書』の空白


事実、孫破虜傳における孫策の伝記部分に関しては、裴松之の注に引用される文献に、呉の史官が編纂した『呉書』からの引用がない。


『呉志』を撰するにあたって陳壽がもっとも参考にしたのが『呉書』と言われる。孫破虜傳の孫堅の伝記部分の注釈には『呉書』からの引用がみられるが、孫策の伝記部分は『江表傳』や『呉録』『呉歴』等、『呉書』以外の文献の引用しか見られない。

付け加えれば『呉主傳』においても、建安四年から赤壁の戦いの前年の建安十二年までの期間、叙述内容が非常に少ないのである。


未完に終わったという『呉書』であるが、孫策の時代と孫権時代の最初の数年間についてはほとんど空白だったのではないだろうか。ゆえに陳壽は、孫策については魏側に残った記録や伝聞をもとに、その死の場面を構成したのではないか?という疑惑が残るのである。


さらに踏み込んでいえば、郭嘉が孫策の死を予言した言葉については、少なくとも『以吾觀之、必死於匹夫之手。』の部分などは、陳壽の創作ではないだろうか。

郭嘉の言葉としては”孫策は急速に江東を平定する過程で地域の有力者の反感を買っており、そうすぐに許都に攻め上ることは出来ないでしょう”というくらいの事は言ったのかもしれない。そうであれば『呉志』の将軍たちの行動から推測される状況と矛盾しない。しかし刺客、それも”匹夫”の手にかかるというのは言い過ぎで、陳壽をして”語るに落ちた”感すらある。

要は”匹夫”に殺される孫策もまた”匹夫”である、という事を言いたいのであるが、現実に孫策を恐れる曹操が過大評価に過ぎるとしても、孫策を”匹夫”というのは、これも過小評価に過ぎるのである。

このように、好悪の感情で状況を観る者は、参謀実務にはまったく不向きである。果たして荀や郭嘉がそのような人物であろうか?


全体、陳壽の呉、特に孫策に対する筆致は冷淡なものがある。それは黄巾賊や董卓の討伐に参戦し、国家に功績のあった孫堅との扱い方の違いにも表れている。

孫堅の死後、後に帝号を僭称する袁術の”走狗”となって転戦した事が、孫策のキャリアを暗くしているのは事実である。袁術から自立した後も、江東の平定は己の所領の拡大に努めていただけで、これといって漢室の為に働いた形跡はない。ゆえに陳壽としては、孫策に対して好意的である理由が無いのであろう。

加えて、許都を襲って献帝を迎える計画を立てていたという、孫策の死によって確かめようがなくなる”秘密の計画”の存在を記述している。これも孫策が権力の為に漢帝を利用する、あの董卓と変わらない野心家である、という事の表現に他ならない。


優れた文章家が必ずしも優れた実務家であるとは限らない。陳壽は史書の記述に優れた才能を持っていたとしても、人物の批評についていえば、いささか浅薄の感が免れないところがある。

『三国志正史』は魏に仕えた蜀の旧臣による著作である。当然、魏ないし蜀の史料や伝聞の収集には有利な立場にあるが、呉のそれにたいしてはいささか不利である。また滅んだ蜀に対する心情と、魏に仕える身としての陳壽の立場が、記述の軽重に影響しなかった、という事は無いであろう。

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