構想の瓦解 〜胡宗憲の失脚と死

写真は黄山市郊外、休寧県万安鎮に残る徽州の豪商朱家一族の邸宅である。小高い丘の上に、塔を中心として一族の邸宅が集落を成している。この邸宅の軒の連なりに、この地方特有の宗族による結びつきの濃厚さが感じられる。
朱家遺構明代から清朝にかけての徽州派建築の姿を良くとどめている。同時に、徽州商人の経済力の大きさが伺えるのである。朱家遺構厳嵩の息子厳世蕃の乱脈な生活ぶりは、のちに書かれた「金瓶梅」の主人公、西門慶のモデルとして、その物語の中に反映されていると言われる。この厳世蕃に羅龍文は大いに接近していたのであるが、羅龍文なりの商略があった一方、富家出身であった羅龍文と厳世蕃の奢侈好みと侠気とが、妙に一致してしまったのかもしれない。
朱家遺構金瓶梅の舞台は山東省と、物語の冒頭で断られている。が、西門慶のモデルは徽州商人の呉天行であり、会話の中に徽州方言も散見されることから、本当の背景は徽州の商家であるという(強引な)説もある。(その説に基づき、黄山市には「金瓶梅」のテーマパークが建設されている。が、金瓶梅のテーマパークは山東省にもあり、論議を呼んでいる。)朱家遺構またちなみに「金瓶梅」の作者、”蘭陵笑笑生”は今もって謎の人物であるが、早くからそれは徐文長であるという説がある。(また後述の汪道昆の作という説もある)
羅龍文こと羅小華の墨は、後に神宗が酷愛し、為に明代における羅小華の墨の評価が決定付けられた。この神宗が愛した羅小華の墨は、あるいは罰せられて没収された、厳嵩・厳世蕃の私財の中に含まれていた物かもしれない。

胡宗憲の指揮下には、戚家軍を率いた戚継光や、杭州出身の兪大猷といった歴戦の名将を擁しており、武力面では相当に充実していた。また後に、歙県出身の汪道昆も福建から救援に駆けつける。彼もまた、後世名将の評価が高い人物である。それまで浙江よりも南の福建を中心に、対倭寇戦で活躍していた。尚、彼等は武将といっても武辺一辺倒ではなく、それぞれが詩人、文学者としても名を残しているのである。(後に汪道昆は、明代墨匠の双璧、方于魯や程君房と深いかかわりを持つことになる。)
武術と軍略に長けた徐文長といい、当時の士大夫達は、単に「文人」「武人」という言葉では括ることが出来ない能力と性格を有していたことを、忘れてはならないだろう。

嘉靖三十七年、胡宗憲が舟山群島で捕えられた白鹿を皇帝に献上した際に、徐文長は「白鹿を献じる表」を作り、これが嘉靖帝の賞賛を得、徐文長の文名は大いに高まった。また胡宗憲の戦勝報告は、徐文長の入幕後、すべて彼の手によって書かれたという。その戦功と名文とが相まってか、胡宗憲にたいする嘉靖帝の信任は、以後非常に厚いものとなっていった。また王直による、他の倭寇頭目への懐柔や誘降も奏功しつつあった。
厳嵩、厳世蕃親子が朝廷にあって政治工作を行い、胡宗憲が現地を統括し、王直、徐海等海商たちが交易の実務を担当すれば、徽州を索源として、壮大な物流と交易のネットワークが形成されたことであろう。
しかし、海外交易と商業主義の伸張に危機感を覚える官僚一派によって、その構想は掣肘を余儀なくされる。権勢を振るった厳嵩も、この頃すでに八十歳の高齢に達し、老齢から政治的な判断力は衰えていたといわれる。加えて息子の厳世蕃の奢侈を極めた生活ぶりも、世人の怨嗟の種になっていた。
胡宗憲への投降後、明朝側にたって対倭寇戦に協力していた王直が、結局は倭寇頭目としての罪を問われることになる。嘉靖三十八年、王直は杭州で斬刑に処される。胡宗憲はその処刑の場に立ち会ったというが、胸中どのような思いであっただろうか。
また同じく一旦は降伏した徐海も、これがために疑心暗鬼に陥り、再び独立を画策する。やむなく胡宗憲は討伐に乗り出し、徐海は攻められて敗死する。海上交易における重要な足がかりを失った胡宗憲であるが、嘉靖三十九年に世宗から対倭寇戦の功績を評価され、太子太保(皇太子の教育係)に任ぜられる。
しかし嘉靖四十一年、度重なる弾劾を受けた厳嵩の失脚によって、胡宗憲の構想は完全に頓挫する。収賄その他の十余の罪状を鳴らされた厳嵩は戸籍を抹消され、私財は没収される。その息子厳世蕃は特に皇帝の怒りを買い、逮捕され市場で処刑される。このとき厳世蕃に接近していた羅龍文も連座して斬刑に処された。
一説には羅龍文はこのとき逃亡し、以後行方不明になったという話もある。が、羅龍文の息子の羅王常が改姓して郷里を逃れたこと、また羅龍文の郷里、歙県の「羅姓」の家々は為に震撼したという記録が残っていることから、刑に服したというのが本当のところであろう。
羅龍文の家から胡宗憲の私信が見つかったことから、胡宗憲も収賄への関与を疑われ逮捕される。が、この時は皇帝世宗が「宗憲は厳党に有らず」と胡宗憲を庇って一旦は釈放される。
そして嘉靖四十三年、任を解かれて郷里に帰るも、翌年には倭寇との癒着を指弾され、再び投獄される。そして遂に獄中で自殺(食を断った。病死・他殺の説もあり)してしまう。時に胡宗憲は五十四歳。

徐文長は一貫して厳嵩や厳世蕃親子に対しては距離を置いた姿勢をとっており、そのことが彼を一連の粛清から救ったともいえる。しかし、徐文長自身は、個人的には胡宗憲に私淑すること篤かったようである。自らが強烈に自負する才能が、胡宗憲の企図した壮大な構想の中で生かされることを、あるいは望んでいたのではないだろうか。
胡宗憲が京師の獄中で自殺したとき、徐文長が受けた衝撃の深さは計り知れない。軍略、策略のような、極めて危険な能力は、それを十二分に発揮できる環境になければ開花することはないのである。徐文長にとって胡宗憲はそのような環境を与えてくれる、最高の理解者であったに違いない。それが全て失われたことは、あたかも歌い手が声を奪われるに等しい、それは喪失感ではなかっただろうか?
後年、徐文長は徽州を訪れ、胡宗憲の墓を弔っている。

(つづく)
落款印01


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