「秦漢印統」と羅小華の息子

呈坎鎮については、もう少し調べたいことがあるため、間があいてしまっている。呈坎の古石橋羅聘の家を出て、最後の見学場所に向かう途中、前方から牛を引く住人が現れた。牛や馬、驢馬などは、江南の農村ではいまでも貴重な労働力である。高速道路の建設現場で、建設資材を運搬する驢馬の一群に出会ったこともある。
この日は年の暮である。前から牛が来るところに出くわすのも、この”八卦村”の風水ゆえだろうか。呈坎の古石橋呈坎鎮をS字に貫く川である。この川によって、ちょうど集落が易学でいうところの「太一」のように分かたれていることも、呈坎が”八卦村”と言われる所以である。呈坎の古石橋川にかかる石橋は、元の時代に架けられたという。明代後期に生きた羅小華も、この橋を往来したに違いない。

羅王常(延年)が編纂した「秦漢印統」には当時著名な史学者であった、李維?の序文がある。
李維?は、日本ではピンと来ない人も多いかもしれないが、「明史・文苑伝」では、文徴明、唐黄、徐渭、董其昌、王世貞に並ぶほどの文学者である。
実はこの李維?、方于魯ともかなり親しい関係にあり、また程君房とも浅からぬ縁があったようである。方于魯の「墨譜」に李維?の序文や墨賛が多く見られる。またこの李維?は、程君房の墨苑にも序文を載せている。
基本的に方于魯と親しかったようであるが、程・方の確執の渦中にあっては、やや中立的な姿勢を示し、仲介するような言辞も見られる。さすがに歴史学者らしいバランス感覚というべきであろうか。この李維?が羅小華の息子とも親しかったとすると…..ある空想に耽りたくなるのだが、ここではまず話を羅王常に戻そう。

その李維?の「秦漢印統」の序文を拙訳すると…..
『羅延年の父である内史は、任侠かつ知謀にすぐれていた。胡宗憲の倭寇討伐を助けて功績があった。また広く古典を好み,制墨と“箋(紙)“を造ることにもっとも工(たく)みであった。今に伝わるその墨は一螺(一個)で万銭するものである。所蔵する古器は夥(おびただ)しい数に及んだが、法に触れ、その家は断絶してしまった。ただ、古印や旧章の類のみのこった。顧(従徳)氏の「印薮」が世に盛行であったが、(印譜を)購い求める者がますます増えたので,羅延年は友人の呉伯張とともにおよそ20年にわたって編纂校閲し,あと少しで出版というところで、惜しくも羅延年はなくなった。呉伯張はそれが失われることを望まず、あとを継いで出版した。名を曰く”秦漢印統“という』

この羅延年(王常)の父親である「内史」が、羅龍文こと羅小華である。羅小華が罰せられたことについては、原文では「内史」とのみ記して実名を挙げず、その事件も「既坐事受法」と、ややぼかされたように書かれている。当時の江南の知識人階級の間では、この文章を読めば、誰のことを言っているのかはすぐにわかったことだろう。

この時の事情は、潘之恒が著した「亘史鈔 外記」の游侠卷に見られる「羅龍文伝」にもやや詳しい記述がある。それによると、(拙訳で恐縮だが)
「厳氏が罰せられたとき、羅龍文は京に出頭せよと命じられ、厳世蕃と同じく西市で斬られた。その一族朋友は禍を被る事を恐れて、あえてその遺体を引き取るものがいなかった。海上(上海)の顧氏父子は、共に都に遊興に来ていたが、羅龍文との交際が厚かった。そこで、羅龍文の息子の某を匿い、自分の使用人の中に潜ませた。それは誰にも知られなかった。この子の某は、金を出して役人を買収し、父親の遺体を引き取って荒寺に安置した。顧氏は京を出て、棺桶も一緒に運び出した。子の某はその後『王常』と改名した。熱心に古典を学び、博雅絶倫であった。人は『王先生』と読んだが、その人の来歴については誰もしらなかった。海上に四十年住み、ようやく元の姓を上につけて名を羅王常、字を延年と名乗った。私は海上の陳大参宅を訪ねたとき、彼に会うことがあった。年はすでに七十歳であった……」
潘之恒は、歙県出身で、嘉靖年間中に中書舎人であった。潘之恒と羅王常とは友人関係にあったようである。事件の記述も、余人が知りえる内容ではなく、潘之恒が直接羅王常から聞いた話と考えられる。

「西市で斬られた」ということは、公衆の面前で斬られ、屍を市場で晒されたのである。惨刑と言っていい。顧氏とは、「印薮」および「集古印譜」などの編纂で、古印研究の先駆けとなった顧従徳である。羅小華が処刑されたとき、その息子を匿ったのである。義侠の行いであるが、羅小華とは相当に親しい関係にあったことがわかる。また改名前の羅王常(当時は南斗といった)、何とか父親の亡骸を引き取ることに成功している。そこに顧従徳の後援があったことは間違いない。そして共に棺を守って出京し、顧氏の郷里の海上(現上海近郊)へ向かったのであろう。
その後、名を“王常“(姓は王、名が常)字を”延年”と改名し、海上の顧従徳のもとで古印の研究を行ったようである。王常と名乗っていた頃は、太原(山西省)出身としていたことが、「集古印譜」の序文から分かっている。
そして後年、もとの姓の羅を王常の上につけ、”羅王常”、字(あざな)を”延年”としたのである。“延年“という字には、死すべきところを「生き延びた」という意味が込められているように思える。

羅小華の家を訪ねたら、妻妾の部屋が10もあったところを見ると、子供もそれに応じて多かったに違いない。呈坎の伝承では、羅龍文が罰せられたとき、一族は皆処刑の憂き目にあっている。羅王常はたまたま父親について北京にいたことで、かえって難を免れたことになる。「博雅絶倫」と評されているところをみると、羅家にとっては麒麟児だったようだ。羅龍文としても、都につれていって人士と交流させたかったのだろう。後継者とみなしていた息子であったとも考えられる。

「秦漢印統」はその成立を巡って諸説あり、中国の金石学の世界では、詳細な研究もなされている。おおむね顧従徳が編纂した「印数」や「顧氏集古印譜」などの印譜を元に、羅王常等がその内容を増補しながら完成したもののようである。
最近、安徽省合肥市の安徽省博物館に「羅氏古今印藪」(明羅龍文)という書籍があることを、現地の知人が教えてくれた。残念ながら一般に出版されている本ではないということで、まだ目にしていない。本物とすれば羅小華が遺した唯一の著作であり、その刊行は「秦漢印統」に先立つものであろう。古印の研究が、羅家にとって家学とでもいうべきものであったことをうかがわせる。羅王常が顧従徳とともに古印の研究を行ったのも道理であろうし、顧従徳と羅小華とは、古印の研究を通じて深い結びつきがあったと考えられるのである。

(つづく)
落款印01


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