古代の墨の産地 〜徐文長の「応制咏墨詞」を読む?

徐渭の「応制咏墨詞」今回は第3句目。(まったく進んでいないのであるが)
(参照)全文第一句第二句

絳入品秩多般。
絳(こう)、品秩(ひんちつ)に入り、多般(たはん)。

この「絳」は「赤い」と同意義である。「品秩」(ひんちつ)はここでは官位によって定められた宮廷内での官服の色のことであると考えられる。
南北朝の陸修静(406〜477)の「陸先生道門科略」に“道家法服,犹世朝服,公侯士庶,各有品秩,五等之制,以別貴賎”とある。すなわち道教の法服や朝廷の官服、あるいは貴族と庶民では服に「品秩」があり、色によって貴賎を分けたということである。たとえば「絳巾」は紅色の頭巾のことで、宮中の侍衛をさす。また「絳」にはもう一つ意味がある。
唐朝の韓愈(かんゆ)に「毛穎(もうえい)伝」という文章があるが、この文も文房四寶を擬人化したものである。
「穎與絳人陳玄、弘農陶泓及会稽褚先生友善,相推致,其出処必偕。」
これは「(中山人の)毛穎と絳州人の陳玄、弘農(こうのう)陶泓(とうこう)、及び会稽(かいけい)の褚(ちょ)先生は善き友であり、ともに推薦しあい、往く所は一緒であった」とでも読めようか。
まず「毛穎伝」(長いので全文引用しない)の「毛穎」とは筆のことである。「毛穎伝」の冒頭はじめに、「毛穎者,中山人也。」とある。中山は現在の安徽省宣城市、ケイ県付近である。ここは「宣筆」で知られる、古代からの筆の産地である。また筆に使われる「毛」の先端の透明部分を「穎」という。
「絳人陳玄」の「絳」は昔の絳州、現在の山西省新絳県を指す。絳州は古代の易州に近い地域であり、易州と同じく墨の産地としてその名を知られ、朝廷へ献上品を納めていた。「陳」は「古い」の意味。「玄」は「墨」のことであるから、「陳玄」で「古墨」ということになる。意味は「絳州の古い墨」ということになろうか。
「弘農の陶泓」であるが、隋唐の時代は陶器製の硯、すなわち「陶硯」の使用が盛んであった。現在の河南省霊宝は、唐代は弘家郡とよばれ、陶硯の産地として知られていた。「泓(おう)」は「深い」という意味で、墨液を溜めることの出来る深い(墨池を持った)陶硯の意味であろう。
「会稽褚先生」は、会稽(現在の紹興)の褚先生の意。これは前句の「守楮郡」の解説を参照していただければと思う。
これら四者が「行く処は必ず一緒」というのは、文房四寶の関係を考えればすぐに理解できることであろう。もちろん、「必偕」の「偕」は「楷書」の「楷」にかけている。唐代に精緻を極めた楷書体の発展を思わせる。
やや逸れたが、「絳」一字で「墨」をあらわしていると解釈してよいだろう。
戻って「絳入品秩多般。」の「多般」は多種多様。ここではさまざまな役職を指すか。よって「絳、品秩に入り、多般」は「官職は宮廷内侍になり、さまざまな職務を経験した。」というほどの理解で問題なかろうか。
前二句と併せて、「松滋国を(荘園として)拝領し、褚郡の太守を兼任する。そして宮廷に召致され、さまざまな宮廷内の役職をつとめる。」というくらいの意訳でよろしいだろうか。(超訳ということで....)
領地を拝領するのであるから、官吏登用試験を通過した官僚のキャリアというよりも、皇族・貴族階級の履歴を表現しているようでもある。

このように、古代の文房四寶の生産地は、各時代の文学者がつくる詩文の中で繰り返し歌われている。そして時代が変わってその地で生産されなくなったあとも、後代の詩人や文学者によって引用、踏襲されることにより、文房四寶の美称別称として生き続けることになるのである。文房四寶に限らず、中国のある時代の詩文を理解するためには、それより前の時代の歴史や文章を知っている必要がある。
明の嘉靖年間に羅小華の墨が名を馳せて後、万暦年間にはいよいよ程君房と方于魯が製墨の歴史に現れる。「方氏墨譜」と「程氏墨苑」に載せられている序文や墨賛には、当時の著名な文学者がこぞって名を連ねている。彼らの文の中にも、墨の歴史に関わる記述や、過去の文献を踏まえた表現が多く使われている。
古典を踏まえた文章を書くのは、王朝時代の文学者にとっては当たり前のことであった。しかし逆に言えば、墨や文房四寶の歴史背景に関わる知識が、当時の知識人の一般的な教養の範囲内であったということもいえるだろう。
現在のように、「書」と「文」が乖離してしまった時代と異なり、文章を書くという行為と、文房四寶の使用は不可分の関係にあったのである。そして文明の担い手という意識を、明確に持っていた当時の知識人達にとって、何より重要であったのは文章を作ることであった。これは多少強調しておく必要がある。
現代では、博物館や美術品市場における扱われ方を見る限り、東洋美術、特に中国美術においては、絵画と陶磁器がその二大分野になっているようだ。
しかし王朝時代の文化の担い手であった知識人達が、何より重んじたのは優れた文章を作る能力であった。文章でも、論説、散文が上で、詩文は下である。次いで評価されたのが優れた筆跡であった。絵画は書よりも下位である。まして自分で作るものでもなく、食器や日用の雑器に過ぎない陶磁器は、その意識のはるか下方の存在であった。この構造を、そのまま「美術品」という現代的なカテゴリーへ移行すると、「文」は範囲外になるので、「書」が最高位ということになるはずであるが。
物理的に実在する「モノ」よりも、より「ココロ」に近い対象に重きを置くというのは、古今東西の文明文化に共通した、ある意味普遍的な価値観であるともいえるだろう。その「ココロ」の現われこそが、「文」にほかならないのである。
「モノ」よりも「ココロ」に重きを置く文化の中で、「モノ」としての文房具は、数ある「モノ」の中でも別格の扱いを受けているのは、何より「ココロ」としての「文」に近い存在であったからに他ならないのではないだろうか。

また歴代の著名な製墨家の多くが、同時に文学者でもあったという事実は、「墨を造る」という行為の意義を改めて考えさせられる。

(つづく)
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