費在山「不律雑和」 〜李鼎和精選「雙料冩巻」(双料写巻)

先日渡航した際に、以前から探していた故費在山氏の「筆縁墨趣」(百花文芸出版社)を、上海の朋友が見つけ出してくれていた。
費在山氏は1933年上海生まれ。(家譜)名は樹基,字は遠志,号して崇堂,また別署に秋隣がある。原籍は浙江省湖州市である。1962年には湖州王一品斎筆庄に入り、勤務するかたわら、沈尹黙の指導により書法に勤しむ。文房四寶の研究家、また書法家として活躍する一方、エッセイも手がけ、”書法十講””行書管窺””不律雑話”また”沈尹黙学書年表”竹渓沈尹黙世系表”などの書稿がある。日本の書家との交流も深かった。2003年7月に病のため死去。享年70歳。

「不律雑話」の「不律」とは筆のことであり、毛筆に係るエッセイ集である。1999年に出版された「筆縁墨趣」にはこの「不律雑話」が収められており、前々から読んでみたいと思っていた。長年王一品に務め、筆工や多くの書画家と交流のあった費在山氏は、当時の製筆業の事情に精通していたはずである。
ほんの10年ほど前に天津で出版された本にも係らず、天津や上海の大型書店では見つけることが出来なかった。朋友がインターネットを駆使して捜索してくれた結果、蘇州の本屋に1冊だけ残っており、取り寄せてくれたのだ。
中国全土でも、ほんの数冊しか書店には残っていなかったという。中国ではごく最近の本でも、あっというまに入手困難になる場合が多い。単価の安い本はとくにそうである。
この「不律雑話」のなかに「虞永和、厳慶和、李鼎和」という文章があり、李鼎和の歴史を簡単に紹介している。この一文の抄訳を試み、有名なわりに来歴が知られていない李鼎和に関する、理解の一助としたい。原文は平易な現代中国語なので、掲載は省略する。

「虞永和、厳慶和、李鼎和」(抄訳)
“虞永和”は天津にあり、“厳慶和”は杭州にあり、そして“李鼎和”は上海にあった。この三家の毛筆庄の店の名前にはいずれも“和”の一文字があるが、これはおそらく“和気生財”(和気から財が生まれる)の意味であろう。
この“三和”の中で、最も有名なのが李鼎和である。李鼎和は、清朝の咸豊元年(1851)には、上海南市新聖街に店舗を構えていた。抗日戦争後は河南路105号、周虎臣の向かいに店を移転した。創業者の李樹徳から子の怀仁、怀義が世襲で家業を相伝し、同業者の間でも非常に声望が高かった。私の同僚の筆工の追憶では、李鼎和は“価正貨真”(価格は適正、商品は本物)という言葉を、その経営理念としていたそうだ。また李鼎和が仕入れていた兼毫筆の半成品には“三不要”があったという。すなわち毛が白くなければ要らない(毛不白不要)、筆鋒の肩胛が浅ければ要らない(肩胛浅不要)、頂が整っていなければ要らない(頂不斉不要)。である。材料の選別は非常に厳格であったのである。
李鼎和は一貫して製品の品質管理につとめ、その名声は日増しに高まり、多くの褒賞をうけ、また内外の書法家に愛用された。新中国成立後、李鼎和と楊振華筆庄が合併し、楊振華筆店の中で、「鼎」の商牌(ブランド)で筆を作りつづけた。「蘭蕊羊毫」や“福、禄、寿、喜、慶”などの對筆、そのほか伝統の名筆をつくり、その技術は衰えることをしらなかった。現在、楊振華筆店内にある李鼎和の看板は、趙朴初(1907-2000:社会活動家:書法家)の揮毫による。』
李鼎和精選「雙料冩巻」李鼎和精選「雙料冩巻」(双料写巻)である。
李鼎和が仕入れていたという、兼毫筆の半成品というのは、筆鋒部分だけのことをいうのであろう。羊毫筆で名高い李鼎和であるが、比較的単価の安い兼毫の実用筆は、下請けの筆工から、筆鋒を仕入れていたようだ。しかしながら、名牌の名にふさわしく、その品質管理が厳格であった様子が伺える。
「肩胛浅不要」の、「肩胛(肩甲)」はすなわち筆の肩ということである。これが浅いというのは、「三紫七羊」筆のように、硬毫を芯にして軟毫で周囲を覆った巻心の場合に、その異なった毛の分かれ目が連続的ではなく、露骨になっている状態を指すと思われる。
李鼎和精選「雙料写巻」写巻筆は、中心に硬毫の紫毫、すなわち兎の毛で芯を作り、周囲を軟毫の羊毫で巻いている。羊毫は純白で、筆鋒は整って鋭く、紫毫と羊毫の境界が滑らかに連続している。昨今のこの手の筆は、白い羊毫部分がふっくりとして、芯の紫毫部分が突出しているものが多い。そういう筆は李鼎和では「不要」ということである。
費在山氏が文中で述べている李鼎和の品質管理基準、「毛不白不要」「肩甲浅不要」「頂不斉不要」の三原則が守られている様子が伺えるのである。また、この三つの観点を知っておくと、良い筆を選ぶときにも目安になると思われる。李鼎和精選「雙料写巻」新中国成立後は楊振華に事実上接収され、その店内でおなじみの赤い“鼎”ラベルの筆を作り続けていたようだ。1960年前後、日本に相次いで入荷され好評を博していた李鼎和は、楊振華の中で作られた筆であるといえる。
狼毫筆では周虎臣、羊毫筆では李鼎和が、民国時代の上海製筆市場の二大勢力であった。そこに狼毫筆の画筆でもって名声を確立した後発の楊振華が、最後は李鼎和を併合するに至った経緯が伺われる。当初、羊毫筆に弱かった楊振華としても、羊毫に無類の精良さを誇る李鼎和との協業は、利益が大きかったに違いない。
李鼎和精選「雙料写巻」李鼎和精選「雙料写巻」
この筆には、赤い「鼎」のラベルが見られない。「双料」が旧字体の「雙料」に、また「冩巻」の「写」も「冩」という旧字体が使われているところを見ると、簡体字が普及する1950年以前の製作とも考えられる。
しかし筆の名称は「冩巻」である。この「冩巻」であるが、木村陽山氏の著書「筆」によると、初めは「冩奏」という名称であったのが、文革前後に「冩巻」に変わったという。「奏」の一字が「奏上」を意味し、封建的文化の名残であるというのがその理由とされている。
文革前に作られたと考えられるこの筆が、何ゆえ「冩巻」なのか。この「雙料冩巻」は、すくなくとも文革前、遡れば新中国成立以前にも「冩巻」筆が存在していた可能性を物語っている。
「不律雑和」の別の箇所では、「七紫三羊」筆の別称を「冩巻」と言ったとある。字義通り「冩経巻」に使われる筆で、伝統的な名称だという。あるいは「冩巻」「冩奏」という、ほぼ同じ筆に二通りの名称があったことも考えられる。革命中国の影響で、「冩奏」の名称は使われなくなったのかもしれない。
同じ構造の筆でありながら、別の名称がつけられている筆は、「蟹爪」と「紅豆」などの例もある。南方の「蟹爪」は、北方では使われている兎毫が紅く染められ「紅豆」あるいは「紅毛」という名称になっている。

この「雙料冩巻」は実用の兼毫筆であるから、費在山氏の記述によれば、李鼎和筆庄の完全自家製ではないことになる。しかしながら当時の平均的な職人のレヴェルの高さと、李鼎和の厳しい品質管理によって、名牌(ブランド)の名に恥じない精良なつくりをしている。
費在山は、湖州の出身者として、湖筆の歴史について多くの手がかりを残してくれている。今まで謎が多かった李鼎和について、多少なりとも明らかにになったのはありがたいことである。費在山の「不律雑和」には、他にも筆にまつわる興味深いエッセイを読むことが出来る。別の機会に順次、ご紹介できればと思う。
落款印01


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