「水を得た魚」製筆天下三分乃計 〜楊振華「山水筆」

楊振華の「山水筆」である。特に狼毫の画筆を得意とした楊振華の、その名の通り山水画用の筆である。近現代の中国製筆業界を考える上で、欠くことのできない楊振華であるが、文革前の製品となると、なかなか手にする事が出来ない筆匠でもある。楊振華山水筆楊振華(1906-1979)、原籍地は浙江省湖州市善?鎮である。その曽祖父は、蘇州の著名な筆廠“楊二令堂”の創設者であった。彼は14歳の時に蘇州から上海にゆき、商務印書館の製筆工場で勤務する。四年後故郷へ帰り、当時著名な筆店である「沈慶元作坊」で二年間修行する。
30歳になって、製筆における大切な工程である“水盆”の名手であった厳再林女史と結婚する。何度か触れているが、“水盆”は水中で毛を選別する作業である。もっとも手間がかかり、また筆の品質を決定する極めて重要な工程であるとされる。
厳再林が“水盆”をおこない、楊振華がその後の工程“拓筆”で筆に仕立て上げた。優れたパートナーを得て自信をつけた楊振華は、1935年に上海に店を構え、独自のブランドで筆を作ることを決意する。
当時上海は、周虎臣の“虎牌”と、李鼎和の“鼎牌”が製筆業における双璧を為しており、新参の筆匠が入り込むのは非常に困難であると考えられた。が、そこは“天下三分の計”である。楊振華は当時の製筆市場で、周虎臣と李鼎和が、あまり力を入れていない分野に目をつけた。当時周虎臣は、“五虎将”と呼称して精良を誇った家伝の兼毫筆と、書家が用いる中鋒の狼毫筆に強く、李鼎和は羊毫筆で他の追随を許さなかった。そこで楊振華は、狼毫の画筆に目をつける。そして画家が多く集まる、上海成都路の“上海画苑展覧会場”近くに店舗を構えたのである。
楊振華は、注文された筆が出来上がると、書画家の元へ直接届けに行った。また彼等に新作の筆を贈り、試用してもらいながら意見を集め、製品に独自の改良を重ねた。さらに書画家が使用している筆の筆鋒を修理するなどしながら、彼らとの関係を深めていったのである。
なかでも張大千、呉湖帆、謝稚柳など、いわゆる“伝統派”の画家達とともに筆の研究を重ね、張大千に“大千筆”、呉湖帆には“梅景書屋画筆”という作画専用筆を作っている。特に呉湖帆は書にも画にも羊毫筆を忌避したから、楊振華の作る狼毫の画筆は大いに支持されたであろう。
こうして上海に出店して10年ほどで、老舗の周虎臣、李鼎和と並んで“鼎立”と称されるほどに発展したのである。
楊振華は後に成都路から移転し、福州路に“楊振華筆庄”を開設するが、例によって1956年の“公私合営”により、周虎臣、李鼎和などの八店舗の筆店と合併した。この”公私合営”に先立ち李鼎和は楊振華と合併しているが、以降は李鼎和は楊振華の店内で作られていたとことから、事実上は楊振華が李鼎和を併合した格好がうかがえる。その後1978年に、文革の影響を脱して旧に復する。
最近まで、福州路近くの通りで“楊振華”の名で店があったように記憶している。小生も何度か訪れて筆を購った。それが近年、福州路の“上海周虎臣筆墨店”と合併したそうである。
楊振華山水筆筆管を糸で巻き、漆で固めている。これは使用しているうちに水分があがって、筆の付け根が膨張し、筆管が割れてくるのを防ぐための工夫であると思われる。どうもこの工夫は、楊振華が初めに行ったのではないか?と考えている。小生が所有する、あるいは過眼した他の楊振華の筆の多くにもこの構造が見られる。特徴的な構造であると言える。最近は、楊振華以外の筆、とくに和筆にもこのような糸で巻いた作りをした筆があるが、起源は楊振華の画筆における改良に求められると考えている。
書写や工筆画とことなり、民国から盛んになった大写意などの”破筆溌墨”を発展させた絵画技法は、とかく筆を酷使するものである。筆鋒に根元迄たっぷりと墨液や水を含ませるので、どうしても筆の根元が割れやすくなってくるのである。
とくに李鼎和は、この筆鋒の付け根の筆管が薄く、割れやすい。根元まで下ろさなくても、毛細管現象で水分は根元に上がってゆくので、膨張と破裂は使用頻度や天候によって、避けられないものである。割れたときは自分で糸で巻き、漆などの樹脂で固定して修理するものだ。が、その美観は若干劣ってしまう。
しかし楊振華は、書画家の実用本位に過酷な使用にも耐えうるように、あらかじめ筆管を補強したのではないだろうか。
楊振華山水筆楊振華山水筆
筆管の頭に、筆架にかけやすいように紐輪をつけている。今日では極普通に見られるこの構造も、民国あたりの中国の筆には見られないものである。
また、この筆の筆管には、刻字されず赤い顔料で「山水筆 楊振華」とだけプリントされている。この「山水筆」は、一見すると最近の筆のように見える。正直時代は良くわからないのだが、繁体字で筆銘がはいり、筆銘がプリントされた筆のスタイルは、80年代以降の旧に復した楊振華製品には見られないものである。
相当数の筆が作られたはずの楊振華の旧製品であるが、同時代のほかの筆匠に比べて思いの外、目にする機会は少ない。画筆だけに、使用条件が過酷であり、その多くは消耗してしまったと考えられる。
あくまで書画家の実用に、外観や装飾性を廃したその製品は、省みられることも少なかったのかもしれない。

中国の著名な筆匠の中で、個人名をブランド・ネームに冠した筆店としては、おそらくもっとも後発の楊振華である。製筆業の激戦地であった上海で、わずか10年ほどで見事に老舗と肩を並べる勢力に成長している。後発メーカーとしてニッチ市場に入り込み、CRMを徹底して独自の地歩を築き上げるその戦略は、マーケティングのお手本を見るかのようである。
”天下三分”を成し遂げたその偉業の陰には、”水盆”の名手である妻の厳氏の功労が大きかったに違いない。楊振華が上海で独立するのは、30歳で当時としてはやや遅い結婚をした翌年である。
楊氏が厳氏を得たのは、まさに魚が”水”を得たようなものであったであろう。
落款印01


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