”一枝一金” 〜徐葆三”宿純羊毫二聯筆”

中国の骨董屋というのは、とかく文房具を置いている店というものはすくない。陶磁器を扱う店、書画を扱う店はいくらでもあるが、文房四寶を専門に扱っている古玩店など、滅多にあるものではない。「文房四寶」を看板にしていても、必ずしも筆や紙を扱っているとはかぎらない。多くは、ろくでもない倣古硯と倣古墨だけである。古びた筆筒があって、現代の筆でも飾り程度に立ててあったらまだ気の利いているほうである。
ここに掲載した筆もその昔、あまり文房四寶には縁のなさそうな店の筆筒に、真っ黒に煤けた状態で立てかけられていたものである。そういうところにある筆の多くは、近年のお土産筆が古びたもので、筆として使えないようなものが多い。が、筆管に”徐葆三”の三文字を観た時は、思わず息を呑み、目を疑い、しばし我を忘れたものである。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」近代における伝統派書画家の巨匠、謝稚柳はかつてこう語っていたという。
「解放前、上海の書画界は人士の交流がさかんであった。また、人通りの多い場所に小売店舗を構え、店の奥に工房を持った筆店を持つことが出来ない多くの筆匠達は、“走筆包”をした。すなわち店舗を持たず、ただ工房のみをもち、出来た筆を包んで売り歩いたのである。彼らは青い布の包みを手挟み、包みの中には色々な種類、規格の筆のサンプルをいれていた。書画界の著名な作家の元へ出入りしては、自らの製品を薦めて売りあるいたのである。現物をその場で買うこともままあったが、大半は予約注文であった。たとえばあの楊振華も、店を開く前にこうやって筆を売っていた時期があった。しかし徐葆三だけは、もっぱらこの“走筆包”のみに専念していて、李瑞清や曽農髯、張大千、呉湖帆といった名流のもとへ出入りしていたものだ。製品が非常に優良だったため、価格もとても高かった。当時も“一枝一金”(一枝二枝は筆の数え方)と賞賛され、「布衣寒士」(無官・地位の低い者)ではとても手が出せなかったものだ(非布衣寒士可得)。当時の書画家にとって、“徐筆”を使うことが出来るということは、すなわち(書画壇における)自らの地位が低からぬことを人に示すことでもあったのだ。」
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」徐葆三「宿純羊毫二聯筆」
“走筆包”とは、筆匠が製した筆を持って行商することである。ある程度の繁華な商業街に店舗を構えることが出来るようになるまで、筆造りのみできるだけの部屋を借り、そこで造った筆を売り歩いたのであろう。
楊振華のところでも述べたが、書画家を直接訪問し、どのような筆が必要か尋ねてあるくのである。また以前販売した筆の評価を聞き、さらに筆の修繕なども行ったのであろう。古い時代の、書画家と筆匠のよき関係を物語る昔話である。
“走筆包”(ゾウ・ビー・パオ)をしていた筆匠にしても、顧客がついて、資金もたまったところで良い場所に店を構えたのであろう。楊振華も当初は商業区ではなく、書画家があつまる書画の展示会場の近くに店を構えたと言われている。あるいはこの店というのも、小売店舗というよりは工房を中心にした作業場だったのではないだろうか。

しかしこの徐葆三だけは、とうとう店舗を持たず、“走筆包“を専らにして終わったという。たしかに、1960年代の公私合営の流れの中にも、徐葆三の名は見られない。有名なわりに徐葆三の製品を目にする事が稀なのも、店舗経営をしなかったことと関係しているのかもしれない。
晩年の呉昌碩はとりわけ徐葆三の筆を「剛柔兼備」として愛し、また徐葆三を親しく「葆三仁兄」と呼び、題跋にも徐葆三の筆を使った旨をつづった作品が見られるのである。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」徐葆三「宿純羊毫二聯筆」
この筆の筆管には「壬牛春日」とあるから、おそらく1942年の春の製作であろう。「二聯筆」とあるが、「二聯」すなわち「対聯」用の筆ということであろう。この種の聯筆に特徴的な構造をしている。
筆銘には「安呉法」とあるが、「安呉」とは包安呉、すなわち包世臣(1775-1855)のことを指すのだろうか。書をされる方は良くご存知かと思われるが、包世臣は清代の著名な書法理論家で、後世の中国書法界に大きな影響を与えている。「安呉法」というと、包世臣の書法理論や彼が体系化した執筆法をさす。
しかしそもそも「安呉」というのは、現在の安徽省泾県の古称である。また現在も泾県に「安呉」と呼ばれる一地域がある。包世臣はこの泾県の出身で特に「安呉」に家里が接していたことから、「安呉先生」と呼ばれたそうである。
安徽省泾県といえば、何度か紹介しているように宣紙の産地である。宣紙の「宣」は「宣州」すなわち現在の安徽省宣城市をさすが、実際に紙を生産しているのは古来から現在に至るまで、宣城市から車で1時間ほど離れた泾県のほうである。
また宣州は、製紙業と並んで古くから製筆業でも著名な地域であり、宋代には名工諸葛高を輩出している。この”諸葛筆”は欧陽修や黄庭堅、蘇軾などの宋代の士大夫に高く評価された。この宣州の筆は、「湖筆」や「蜀筆」と並び、「宣筆」と呼ばれている。
浙江省湖州市を中心とする「湖筆」も、もとは「宣筆」からの流れである。この宣筆も、実際に作られているのは泾県であり、とくに「安呉」が宣筆発祥の地とされる。今でも宣筆にみられる「安呉遺訓」「安呉遺法」という筆の名に、その名残がうかがえる。しかし宣筆は湖筆と比較すると、近年は質の良い筆をみない。多くは北京、天津の文房具店に出荷され、上海や日本にはあまり入ってこないのが宣筆である。しかし湖州の職人氏の話によると、最近は湖筆と銘打っていても、安徽省や江西省で安価に作らせているものがあるという。
費在山の「不律雑和」によれば、徐葆三は湖州の出身である。また筆は隷書や篆書の対聯に向いた種類の筆である。この筆の名に「安呉法」と名づけているのは、やはり隷篆に長けた包世臣を意識したのであろうが、あるいは筆の産地としての「安呉」の意味もかけているのかもしれない。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」毛筆を蒐集・研究しているものにとって、李鼎和と戴月軒はなんとか入手できても、徐葆三と賀蓮青だけは、運に頼らなくてはお目にかかることも出来ない。お目にかかれても、とても手が出せないような値段がついているものである。なるほど謝稚柳先生がおっしゃるように「非布衣寒士可得」と、指をくわえて見送るしかなかったものである。
骨董屋で掘り出し物、というのは言うほど機会があるものではない。やはりしかるべきものは、しかるべき筋から現れるものである。が、中国の朋友がいつもいうのは、あまり縁がなさそうな店でも意外なものが見つかることもあるし、そういう店で見つかったときは、値段も高いことは言われないと。
果たしてこの徐葆三も、ほどほどの値段で買うことが出来たわけである。
といっても真っ黒に固まっていた筆鋒を、その後何ヶ月かかけてここまで洗浄・再生し、使えるようにしなければならなかったのであるが。使ってみると、やはりその材料と製法の精良さは隠れもないものである。
この一枝をもって徐葆三の製筆を語りつくせるものではもちろんないが、生涯小売店舗を持たず、一流の書画家と直接交渉を持ちながら筆を作り続けた”伝説の名筆匠”の技量の一端を、今に伝える一品であるとはいえるだろう。
落款印01


calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM