骸骨を乞う 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

すこし以前に、NHK特集の「中国共産党と文化大革命」のビデオを観せていただいた。(小生の家にテレビは無いので……)なかなか面白い内容だったが、特に興味を惹いたのが文革から改革開放経済へ移行する時期の、共産党内部における政治闘争の様子である。徹頭徹尾論戦が行われるのだが、共産党の機関紙に政治論文を発表しながら議論が戦わされるのである。
これを見ると、共産党が支配する現代中国も、あるいは王朝時代の士大夫達の宮廷における闘争と、たいして変わっていないのではないかと考えてしまう。政治・政策論争が常にイデオロギーに照らされて議論されるところも、古代王朝の宮廷における政策論争を彷彿とさせる。儒教や聖天子の事跡がマルクス主義にとって代わったようなものである、といったらさすがにいい過ぎだろうけれども。
中国は、秦の始皇帝が整備した巨大な官僚機構を、後の王朝が相続しながら統治してきた歴史がある。一党独裁の中国共産党も、王朝時代の中国で言えば全国に広がる“士大夫階級”の20世紀版、とでも言えるのかも知れない。文革で知識人階級や儒教は徹底的に弾圧されたが、10年やそこらの嵐が吹き荒れようとも、二千年以上にわたって培われてきた統治の論理と文化は容易に破壊できなかったのだろう。
中国の歴代王朝の士大夫達が、硯や文房四寶について語った詩文は非常に多い。もっとも身近な用具であり、“文”を以って闘争した彼らにとって、いわば武人における刀槍の如き存在が文房四寶であったといえようか。
宋代龍尾石宝珠硯「上曰、吾非不念尓。以尓年老,不能无少圓缺故也。左右聞之以為上意不悦。因不復顧省。文乞骸骨伏地。上詔使[馬付]馬都尉金日磾翼起之。日磾,裔人,初不知書。素悪文所為。因是擠之殿下顛僕而卒。上憫之。令宦者瘗於南山下。」

(浅解)
「上曰、吾非不念尓。以尓年老,不能无少圓缺故也。」『上曰く、吾れは尓(なんじ)を念ぜざるあらず。尓の年老を以って、圓缺(えんけつ)の少なきあたわず故なり。』
武帝は言うに、私はそなたのことを忘れてしまったわけではない。そなたが年老いて、圓缺(えんけつ)も少なくないのではないか?ということを思っているのである。
武帝は巡幸から帰還して、羅文のすっかり生彩を失った様子を見て、やや弁解がましく言うのである。「そなたも年だ。」と。「圓缺」は、「圓(まるい)」ものが「缺(か)け」ていることを言う。つまりは年老いてその能力が衰えてきているのではないか、ということを言われているのである。ただし「不能无少(すくなくなきあたわず)」として、さすがに婉曲な言い方をしてはいる。
硯石ということで考えれば、長年の使用で傷や摩滅を負い、その性能が衰えているということを言っているのだろう。しかしながら、米芾が指摘するように、良い硯石というものは、長く使用していても鋒鋩が衰えないものである。武帝は、単に新しく見た目も艶やかな端溪に心が移ってしまったに過ぎない。
「左右聞之以為上意不悦。因不復顧省。」『左右之を聞き、以って上の意は喜ばずと為す。因(よ)りて顧省(こせい)は復さず。』
左右は武帝のこの言葉を聞き、武帝はすでに羅文への寵愛の気持ちは無くなった、と思ったのである。武帝からの信任を失ったことにより、同僚たちも羅文を「顧省」(こせい)、すなわち省(かえり)みることはなくなった、ということである。
「文乞骸骨伏地。」『文骸骨を乞い、地に伏す。』
文はそこでとうとう「骸骨を乞う」のである。「骸骨を乞う」というのは、一身を君主に捧げて仕えましたが、いま私の骸(むくろ)を引き取らせていただき、故郷に骨を埋めさせてください、という意味である。
日本で広く知られているのは、史記の項羽本紀に観られる范増が項羽の下を辞去する際の言葉だろう。漢の陳平の離間の計略にかかった項羽は、唯一の謀臣であった范増を猜疑し、ついにはその職権をすべて剥奪してしまう。項羽に失望し、激怒した范増が項羽のもとを去るとき「天下事大定矣君王自為之願賜骸骨帰卒伍」(天下の事は大きに定まれり。君王自ら之を為せ。願わくば骸骨を賜わり卒伍に帰せんと)という“棄てゼリフ”を残す。この場合の「卒伍」は兵士、小部隊という意味でも用いられるが、ここでは庶民、平民という意味である。この例だけ読むと「骸骨を乞う」は、激烈な皮肉を込めた言辞と取られかねないが、「骸骨を乞う」あるいは「骸(むくろ)を乞う」というのは老臣や政府高官が辞去するときの常套句である。
すなわち<漢紀.哀帝紀下>には「大司空彭宣見莽専権,乞骸」(大司空の彭宣(ほうせん)は莽(もう:王莽)の専権を見、骸(むくろ)を乞う)とある。また<漢書.楚元王伝>には「是時名儒光禄大夫龚歆(きょういん)移書上疏深自罪責,願乞骸骨罷」(この時、名儒の儒光禄大夫龚歆は、書を移し上疏し、深く自らの罪を責め、骸骨を乞い罷る)とある。
“故郷に骨を埋める“ということは、古代の中国人にとって非常に重要なことである。蘇軾の父親は遠く都の開封で亡くなるが、蘇軾と弟の蘇轍は父親の棺を守ってはるか故郷の眉山まで帰郷し、喪に服すのである。無論荼毘にふして遺骨を運ぶのではない。現在の河南省から四川省まで、棺を運んでの旅の困難さ、必要になる費用も並大抵ではなかっただろう。
故郷には同族の宗廟があり、宗主によって代々祖先が祀(まつ)られているのである。異郷で死去した者の亡骸は、霊柩に納めて長い旅をすることも珍しくなかった。日中戦争前に中国に頻繁に渡航していた後藤朝太郎の話では、川岸には渡し舟を待つ棺がいくつも置かれ、雨曝しになっていたそうである。
また、一昔前に流行った「キョンシー」を題材にした映画では、寺廟に安置された棺がやたらと出てくるが、あれらの多くも旅の途上の棺達である。
「上詔使[馬付]馬都尉金日翼起之。」『上、[馬付]馬都尉(ふばとい)金日磾(きんじつてい)を詔し、之を翼起せしむる。』
地に伏せって顔も上げられない羅文を、武帝は武官の「金日磾(きんじつてい)」に命じて、「翼起」(よくき)すなわち左右の腕をとって立たせるのである。背後に回り、両の腕を取って引き起こす格好になる。この金日磾は武帝時代の人で、投降した匈奴の休屠王の太子である。侍中[馬付]馬都尉、光禄大夫にのぼり、武帝の信任厚く「金」の姓を賜っている。宋代龍尾石宝珠硯この「翼起」であるが、宋代の硯は側面を持ちやすいようにすぼんだ格好で傾斜している。あるいはこの写真のように持ち上げた、というところをイメージしたのかもしれない。(まあ、いつの時代の硯もこうやってもつかもしれないが)宋代龍尾石宝珠硯「日磾,裔人,初不知書。素悪文所為。」『日磾、裔人、初め書を知らず。素より文の為す所を悪(にく)む。』
ところがこの「日磾」であるが、「裔人」すなわち異民族の匈奴であり、初めは文字や文書というものを知らなかったのである。そして「文の為す所を悪(にく)む」のであるから、宮廷において羅文が文才に優れて武帝に重く用いられていたことを、あるいは嫉視していたのかもしれない。
「因是擠之殿下顛僕而卒。」『是に拠りて之を擠(お)し、殿下に顛(お)して顛僕(てんぼく)し卒(そつ)す。』
このときの描写であるが、羅文の面は涙に濡れ意気消沈し、また宮廷を去ることへの感慨から全身から力がぬけていたのかもしれない。金日磾は羅文を支えて武帝の面前より退出するわけであるが、殿上から下る長い陛(きざはし:階段)のところで、誰にもわからぬように羅文の背を押したのだろう。老齢で、しかも憔悴していた羅文は、すっかり意表をつかれて足元を狂わせ、「殿下」に「顛僕(てんぼく)」すなわち陛を転げ落ち、頭を強く撃って死んだといことになろうか。金日磾によって事故を装って殺されたのである。そのとき金日磾は「羅文殿、大丈夫ですか!」と、さも驚いたように駆け寄ったかもしれない。
そもそも武帝の寵愛を失って宮廷から去る者へ、羅文から特に危害を与えられた恨みがあるわけでないのに、金日磾のこの仕打ちは酷いことである。
そもそも硯というものは、文書を書かない者にはまったく無用のものである。その価値がわからない者は野蛮人であり、あたら良い硯をなげうってしまうものだと言っているのである。
「上憫之。令宦者瘗於南山下。」『上、之を憫(あわ)れむ。宦者に令し南山の下(もと)に瘗(ほうむ)る。』
武帝は不慮の死を遂げた羅文を憐れんで、宦官に命じて南山の麓に葬ったのである。ここでいう南山は、長安郊外の終南山のことと考えられる。この終南山の向かいに武帝の墓、茂陵がある。帰郷して故郷に骨を埋めることを望んだ羅文であったが、武帝は羅文を(生前から建設中の)自らの陵墓近くに埋葬することで、死後も宮廷に使える高官として扱ったことになる。
中国の伝統的な死生観では、死後も現世と同じような世界が存在するということになっている。生前官僚であったものは、死後は生前の功績に応じて死後の世界の官僚組織に使えるのである。死後も宮仕え……と考えると、あるいはげんなりした気分になってしまう方もおられるかもしれない。が、王朝時代の士大夫達にとっては、官僚生活というのは死後の世界でもそのあるべき生活と考えていたフシが見受けられるのである。
故郷に葬られないというのは大変なことであるが、武帝によって死後の世界での高いステータスも保障されたということになる。
硯ということで考えれば、硯は士大夫階級の家の男子が埋葬されるときに、必ず副葬品として納められたものである。もちろん同時に墨や紙、筆なども納めたと考えられるが、長い年月のなかで天然石の硯のみが残り、出土硯として目にする事ができるのである。
皇帝の陵墓に葬られるということは、同時に官製の硯を意味し、硯としては最高位の品ということになるであろう。このことを以って、羅文の栄辱にみちた生涯への慰謝となるであろうか。

(拙訳)
武帝は言った「朕はそなたを忘れてしまったわけではないのだ。ただそのほうもそろそろ年であろう。仕事も以前のようにはゆくまいよ。」左右の家臣はこの武帝の言葉を聞き、羅文への寵愛が去ったと思ったのである。そしてふたたび、宮廷で羅文が省みられることはなかった。文は「骸骨を賜りたい」と地に伏して辞職を願い出るのである。武帝は[馬付]馬都尉の金日磾に命じて羅文を助け起こさせた。しかしこの日磾はもともと未開の野蛮人の出自であり、初めは文字をしらなかった。もとより宮廷での羅文の文才を妬み嫉んでいたのである。それで羅文をわからぬように殿上から突き出して転ばせた。羅文は転倒して頭を強く撃って亡くなった。武帝は羅文の不慮の死を深く憐れみ、宦官に命じて南山の自らの陵墓の向かいに葬ったのである。
宋代龍尾石宝珠硯ここで、蘇軾は「金日磾」を文字を知らない異民族として蔑むような扱いをしている。金日磾は政治上は大きな功績はないが、忠節を以って知られており、別段に悪い人物としては史書に書かれていない。この金日磾をあえて悪者とし、羅文を葬らせたのは何故であろうか?
ここはやはり、蘇軾が生きた北宋という時代を考える必要があるだろう。
中国の歴代王朝の中でも、文芸や美術の最盛期とも評される北宋時代であるが、対外的には非常な緊張を強いられた王朝でもあった。すなわち北方に起こった契丹人の国である遼との間に「澶淵(センエン)の盟」を結び、北宋を兄、遼を弟としながら、「歳幣」として毎年莫大な銀と絹を遼に送ることで、かろうじて平和と安定が享受できていた時期なのである。「金で買った平和」といえなくも無い。ただし、この時期には江南の開発が本格化し、その生産量が飛躍的に増加し、遼への歳幣を賄ってあまりあるものであったという。漢民族側の意識からすれば屈辱的な、だが現実的な妥協である対外政策が奏功し、100年の平和を得たことにより北宋文化が栄えたともいえる。
宋代に入って、江南の地である蘇州や杭州が大いに栄える。中国の文化と産業が、その重心の長江以南への遷移が決定的ともなったのがこの時代である。宋代龍尾石宝珠硯長江の険をたのむ南の地域にとっては、北方の緊張も他人事であったかもしれない。しかしながら、政治の中枢にある士大夫達にとっては、最大の外交問題がこの遼との関係だったのである。蘇軾の弟の蘇轍(子由)は、元佑四年(1089)に遼の国王の誕生祝賀の国使として赴いているが、そのときに蘇軾は弟へ贈った詩「送子由使契丹」(子由契丹に使いするを送る)を詠んでいる。また、「次韵子由使契丹至涿州見寄四首」(子由の契丹に使いし涿州に至り寄せる四首に次韵(じいん)す)という詩の中には、「遼の人士は三蘇(蘇洵、蘇軾、蘇轍)の文章を、まるで鸚鵡が口真似をするように囀(さえず)っている」というように、やや侮蔑的な表現で遼にまで自分たちの文章が知れ渡っていることを詠っている。また実は蘇軾はその昔、遼への使者へ立てられそうになったが、なんとか断ったことを述べている。蘇軾にとっても遼は無関心な対象ではないのである。
こういうと、あたかも蘇軾が偏狭な民族主義者のように思われそうだが、“武“によってたつ野蛮な軍事国家に対して、”文”によってたつ文明国を支える士大夫の自意識あらわれ、とみるべきだろう。
この「羅文傳」では、蘇軾は漢の武帝の時代を舞台に選んでいる。武帝は言うまでもなく、数次にわたる大規模な外征を成功させ、北方の異民族である匈奴の勢力を弱め、漢の最盛期を築いたとされる皇帝である。蘇軾は必ずしも史実に忠実とはいえない架空の評伝を書くにおいて、武帝の時代を選んだのも、蘇軾が生きた北宋時代の状況と照らし合わせて考える必要があるだろう。
第三回目で述べた下りの『四方遠裔、達せざらぬ無し』というところにも、北方の異民族への対策を強く意識していることがうかがえる。
また、宋代の硯は実用に基づいた簡潔な厳しさと、雄渾な造形をもって特徴としているが、絶えず北方の脅威に晒され続けた時代の緊張感、あるいは質実剛健な精神の表れも、そこに感じとることができるのである。

さて、羅文の死によってこの「羅文傳」も終わりかというと、その子孫の代にも記述が及んでいるのである。この点も、史書における列伝、あるいは世家の体裁をとっている。
次回は羅文の息子、その名も「堅」が登場するというところで。

(つづく)
落款印01


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