方于魯の生卒年 〜「方外史墓志銘」?

程大約と方建元の製墨および墨譜をめぐっての争いは、双方が競って出版した「程氏墨苑」と「方氏墨譜」の序跋からある程度の事情を伺うことができる。両墨譜の序跋の読解には、中田勇次郎氏の先駆的な仕事がある。すなわち「方氏墨譜」と「程氏墨苑の研究」である。これによって、程君房(ていくんぼう)や方于魯(ほううろ)の略歴や、当時の両者の確執のあらましを知ることが出来るのである。
程君房と方于魯の関係を考える上で、両者の年齢の差を知りたいと思った。よく知られている事実として、方于魯が窮迫した際に、程君房が援助したという話があり、そう考えるとなんとなく、程君房のほうが年長であるかのようである。(以下、明代の墨については、さすがに現物資料に乏しく、掲載できる図版もあまりないので、文字ばかりになるがご容赦願いたい。)

中田勇次郎氏の考証によると、程君房こと程大約は、嘉靖四十三年(1564)に北京の大学へ遊学した際に二十四歳であったことが記載された資料があり、逆算すれば嘉靖二十年(1541)頃の生まれということになる。また萬歴三十八年(1610)、七十歳のときに顧起元と朱之蕃が程君房に七十賀詩を贈っている。それ以降のことは不明で、正確な卒年は未詳ということになっている。
以上から、程君房についてはある程度の生卒年が把握できている。問題は方于魯で、こちらが従来はっきりしたことがわかっていなかった。中田勇次郎氏の考証でも、卒年は萬歴三十六年(1608)であるが年齢は未詳であるという。ということは生年がわからない。

ところが最近、この方于魯の墓誌銘があることがわかった。はからざりき、大泌山人こと李維?(りいてい)が、方于魯の墓誌を選していたのであった。当時の著名な文学者で、史学者であった李維?は、方于魯の墨に賛文を寄せたり、また「方氏墨譜」に序文を寄せている。この李維?の文集「大泌山房集」(四庫全書に収録されている)に「方外史墓志銘」が納められているのである。そこには方于魯の人生が要約されているのであるから、程君房に比べて謎であった彼の生涯について新たな知見を与えてくれるものである。その内容の詳細はさておき、そこには方于魯の生卒年がはっきりと記されている。
すなわち「建元名大滶,字于魯,后于魯墨入大内,因以字為名,更字建元。卒于萬歴戊申正月二十有二日,生嘉靖辛丑五月八日,春秋六十有八。」ということである。
先に卒年をしるし、あとに生年を記述しているが、誕生の日付までも刻銘に記されている。すなわち、嘉靖二十年(1541)年に生まれ、萬歴三十六年(1608)に、六十八歳で死去したということになる。卒年に関しては、中田勇次郎氏の考証が正しいようである。
ということは、程大約(君房)も方建元(于魯)も、その生年は同じ嘉靖二十年の同年生まれということになる。あるいは数え年で程大約が一年ほど前後しているかもしれないが、ほぼ同年齢ということは間違いないであろう。

周知のように、方于魯ははじめ程君房の下で製墨を学び、のちに独立したとされている。方于魯が「方氏墨譜」を著したとき、程君房は自分が考案した墨図(墨型の図柄)を盗んだと激怒し、また対抗意識をむき出しにして「程氏墨苑」の大著を著わすのである。
さらに、方于魯が程君房の愛妾を横恋慕し、結婚してしまうという事件が起きるのである。
程君房の主観からすれば、窮迫したところを助けてやり、また秘伝の製墨法を教えてやったにもかかわらず、さっさと独立するや図案を剽窃して墨譜を出版し、さらにあろうことか妾まで奪うという、言語道断な男、ということになろうか。
程大約の号である「君房」は「房」すなわち「方」が「戸(家)」の中にあり、「君房」、すなわち主人の家の中に方于魯を置く、という意味であるという。また、「中山飢狼伝」という絵物語を作って墨譜に加え、これは暗に方于魯の忘恩を詰(なじ)っている内容になっている。現代的な感覚からすれば、いささか異常に執拗に過ぎるようにも思われる......が、生涯をかけた仕事の名声と、また愛する女性を奪われるという、まあ現代でも男にとっては(おそらく)一番辛いところをやってのけられたのだから、無理からぬことと言えるかもしれない。まして程君房も方于魯も儒教道徳に支配される、士大夫階級の出身なのである。
いままでは方于魯が程君房よりもだいぶ若いということを、勝手にイメージして考えていたが、ほとんど同い年であるとなると方于魯にも有り余るほどの存念があったであろう。
既に詩人として名声があった方于魯であるが、一時窮迫して程君房の世話になったとはいえ、あくまで友人関係であって、主従のような上下関係をそこに認めていなかったのではあるまいか。同じような年齢であればなおさらであろう。いや、程君房のやや抑圧的な性格に、かえって反発を覚えなかったとも言い切れないのである。
若い頃から墨の研究を行っていた程君房に比べて、方于魯は後から製墨の世界に入ったと考えられていた。がほぼ同じ時期に製墨に携わったとすれば、それから数年後のともに三八歳前後の時に、方于魯が程君房の愛妾に恋慕する事件が起きているとある。さすがに両者はこのとき決別したであろう。
また方于魯が北京で病を得て徽州に帰郷するのは三十歳の頃とされている。ということは、三十代初めの頃から三十八歳までの数年間、方于魯は程君房と仕事をした可能性があることになる。一方で、程君房も三十一歳までは北京で書生として日を送っていたというから、少なくとも本格的に墨を作り始めたのは帰郷後の三十代初めからであろう。
どうもこうなると両者は時期を同じくして製墨の世界に入ったようであり、あるいは程君房が出資して作った墨工房に、方于魯が入ったのではないかと考えられるのである。もっというと、北京に遊学していた頃に知り合い、時期を同じくして帰郷し、ともに製墨を手掛けたのではないだろうか。
つまり製墨に関しては、共同研究したようなフシさえ感じられるのである。程君房も「程大約集」を残すほどの文筆家であり、また方于魯も当時詩文を以て名高かった人物である。当初は意気投合し、互いに製墨法や墨の意匠について、意見を交わしていたのではないだろうか......それがあるいは、愛妾をめぐる感情のもつれから破たんしたのかもしれない。
とすれば、方于魯にしてみれば、程君房の製墨法も墨のデザインも、自らのアイデアが多く採用されているのであり、それを独立後に自分のものとしたところで、なんら盗用だ剽窃だと、言われる筋合いではないと考えていたかもしれない。
もちろん程君房にしてみれば、100%自分が出資した会社の一社員の方于魯に、会社の資産であるデザインや製法を、好き勝手に使われては敵わないと考えるのも道理であろう。現代の知的所有権の考えからいっても、程君房の主張ももっともである......。
また、方于魯が程君房の愛妾を奪うという出来事も、ほぼ同年の男二人の間で起きた事件となると、俄然様相が変わってくるものである。ここも従来は、初老の程君房が持った若い妾が、青年詩人の方于魯と駆け落ちしたのならさもありなんと勝手に考えていたところである。

程君房と方于魯の確執は、明代末期の文苑の巨人たちをも巻き込んで争われた、中国文芸史上の一大事件であった。当事者の心労はいかばかりやと思うが、現代の小生からみると、かかわった人々の豪華絢爛な顔ぶれに大きな興味をそそられるものである。またこの事件のあらましを解明してゆくことで、製墨というものが、明代の文化史の中に確かな位置を持つことを示すことができると考えている。とはいえ、その全容をつかむのは容易ではないのであるが。
次回は「方外史墓志銘」を解釈し、方于魯の生涯に対する理解の一助としたい。

(つづく)
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