四庫全書と墨

中国文学や中国哲学を専門にされている方には常識的なことであろうが、「四庫全書」を底本、つまり研究の基礎とする文献とするのは要注意である。
乾隆帝の大文化事業の遺産である四庫全書は、そもそも世上のあらゆる文献を蒐集整理する勢いで整理編纂された巨大な叢書である。が同時に、言論の統制を強める目的を背景にもっていた。よって、満州族による漢民族の統治に不都合な文献は禁書扱いにされて収録されなかったり、収録されても内容が改竄されたり削除されているものもあるからである。

墨に関する文献を漁っていると、「おや?」と思うことがある。以下は上海科技教育出版社が出版した「説墨」に収録されている、明代の麻三衡の著書「墨志」の一部である。
墨志より「九元三極」と読める。方于魯の最高傑作とされ、同じ名前で多くの墨匠が作った「九玄三極」であるが、「玄」が「元」と表記されているのである。ちなみに右側二行目に「重元」とあるが、これも本来は「重玄」とするべきところであろう。
何度か触れているが、「玄」は墨の別称である。「玄」は「くらい」という意味をもち、原義は黒にやや赤みを帯びた色を言う。また「玄之又玄,衆妙之門」(老子)とあるように、中国の老荘思想では繰り返し使われる文字である。これが墨の異称として古来より用いられ、とくに明代末期、易学や老荘思想と製墨が濃密に結びつくことにより、墨銘として「玄」が用いられた例を多く目にするのである。
墨志より上の写真の例でも「玄香太守」とするべきところが「元香太守」となっている。「玄香太守」が墨の美称であることは以前にも述べた。このテクスト中では、このように「玄」のことごとくが「元」に置き換えられてしまっている。
なぜ、このような表記になっているのだろうか?お気づきの方も多いと思われるが、「玄」が使われない、使えないのは康煕帝の諱(いみな)玄?(げんよう)の「玄」を憚(はばか)ったのである。ということは、おそらくはこの「説墨」に収録されている「墨志」も四庫全書に収録されていたテクストがもとになっているか、すくなくとも清朝の康煕帝以降の時代の版に拠るであろう。
よりにもよって「玄?」という諱のおかげで、以降、墨に「玄」を用いることができなくなったのである。よって清朝の墨銘に「玄」を用いた墨はほとんど見られないものである。
墨志より明代の墨に「玄」が用いられている墨は、数え上げればきりがないほどである。「玄元霊気」「玄象」「玄寶」「玄池竹」「玄海紫瀾」「山玄水蒼」「有商玄鳥」「玄鯨柱」...etc。ざっと程氏墨苑と方氏墨譜を眺めただけでもいくらでも出てくる。
康煕帝以降、墨に「玄」が使えなくなったことが、清朝の墨の意匠の面で重大な影響を及ぼしたのではないかと考えている。なにしろ「玄」というのは、「千字文」が「天地玄黄」と始まるように、「天」あるいは「天地」のように、いわば「世界」をあらわし、また思想的にも「玄奥」「玄妙」のように、根源的な存在、哲理を著わす文字だからである。
根本原理から演繹的に世界を説明してゆく易学の思想を、濃厚に反映した明代の墨の意匠は、その体系を根幹から封じられてしまうことになるのである。よって清朝の墨の意匠には、明代の墨ほどに思想の影響がみられないのではないかと考えている。
また、清朝初中期は非常に言論・思想の統制が厳しかった時代である。なんせ、北方の異民族である満州族が、はるかに優れた文化をもつ漢民族を支配するのである。漢民族の伝統的な意識の上からすれば「夷狄(いてき)」として蔑まれる存在である満州族にとって、この種の漢民族の優越感を助長するような思想の存在は、看過できるものではなかったのである。
むろん易学や老荘思想の諸説が、直接的に「華夷」(中華と夷狄:文明と野蛮)の区別を強調するような内容をはらんでいるとは限らない。しかしながら、言論の統制が厳しい時代、墨にもその思想を著わす字句や、それを具象化した図案を使用するのを控えるような風潮が生まれたのかもしれない。
清朝初期の墨は、明代の意匠を踏襲しつつも、皇室賛美の龍や瑞雲、吉祥図案が多い。また次第に「白岳図」や「黄山図」などの山水図墨、またあるいは注文主の名を刻む程度の墨が多くなってゆくのも、清朝における言論統制の厳しさからくる時代の空気を反映しているとも考えられるのである。

「徽州刻書与蔵書」(広陵出版)の巻末の附録に「清代乾隆間徽州禁毀書考録」がある。つまり徽州出身の者が書いた著書で、乾隆年間に「禁書」扱いになった本のリストがある。これをみると、乾隆年間だけで、86種の書籍が「禁書」とされているのである。もちろん、「禁書」といっても「全毀書目」と「抽毀書目」の別があり、全面的に排除された書籍もあれば、一部を削除されたものもあるようだ。
たとえば、明代末期の愛国者で、満州族の侵攻に果敢に抵抗して戦死した人物の墓誌銘などを書いていれば、削除されるか禁書にされてしまうわけである。
このリストをざっとみると李流芳の名がある。そして程大約すなわち程君房の著作集「程幼博集」もリストに入っているのである。もっとも、「程幼博集」は「抽毀書目」のあつかいで、理由はその序文になにやら問題のある個所があったようである。「程幼博集」自体は、四庫全書に収録されており、現在読むことができる「程幼博集」はおそらくは四庫全書のもののみであったと記憶している。(明代のテクストはあるとすれば日本にあるかもしれないが)

ついでに言うと、四庫全書はすべて手書きで清書されている。十億字の文献を正副合わせて8部、すべて筆書したのに使われた墨は、いったいどのような墨であっただろうか。
乾隆六年(1741)乾隆帝が徽州の墨匠を招聘し、これに応じて汪近聖の次男の汪惟高と呉舜華が上京し、宮廷内で製墨を指導したといわれている。このときいわゆる乾隆御墨がつくられたとされている。
この「御製墨」の製造に当たっては、乾隆帝が昨今の墨は皆、古式に則っていないことを歎かれ云々....といわれているが、あるいはこの際に作られた墨や、この際に確立された製法によって以降に宮中で作られた墨の多くは、四庫全書の筆写に使われたのではないだろうか。
乾隆六年といえば、四庫全書に収録する書籍を集め始めた年でもある。四庫全書の完成には四十年の歳月が費やされているが、編纂作業にあたって大量の紙墨が必要になることは、当初から明らかであっただろう。
また四庫全書の浄書には、きわめて上質な大量の墨が必要で、しかも均質であることが求められたはずである。そのような墨は内府(宮廷内)で作った方が、都合がよかったのかもしれない。
四庫全書にも納められている、「内務府墨作則例」はこの宮廷内の製墨法を記録した文書であるといわれている。
「三希堂帖」の制作には程君房の墨を用いた、といわれているが、宮廷に収蔵されている明代のすくなからぬ佳墨は、良くも悪くも個性が強いはずで、はたして大量の文献の浄書に向いていたかどうか.....以上はあくまで推測である。

またこの「四庫全書」の編纂事業の中心的な人物の一人である紀暁嵐(きぎょうらん)は、清朝初期の著名な硯癖家のひとりであり、文房四寶をこよなく愛した人物であったということも付け加えておきたい。

ともかく「四庫全書」も功罪あって、文献をとりあえず探すには非常に便利でもある反面、そのテクストを全面的に信用できるか、となると慎重にならなければいけないところがある。ただ「四庫全書」がなければ、散逸して亡失してしまった書籍もあったに違いなく、そういう意味ではやはり貴重な事業であったといえる。
また、四庫全書の編纂にあたっては、紙や墨、筆、硯などの大きな需要が生み出されている。量だけではなく、質の面からもきわめて上質なものが求められたことが、当時の文房四寶産業に大きく貢献したとも考えられる。
しかしながら、その目的はあくまで言論統制、思想統制にあったのであり、清朝を通じてその効果はいかんなく発揮されたといっていいだろう。官制の文化事業というものの影響を、考えさせられる事例でもある。
落款印01


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