方于魯と李維? 〜「方外史墓志銘」?

さて、方于魯の墓誌銘であるが、さほど長くはない文章なので3回くらいにわければ終われる気がしている。書き下し文と拙い訳だけでいいなら1回で十分だが、読んでくれている高校生にもわかるようにと思うと、どうしても解説が長くなってしまう。
中高生は夏季講習の真っ最中であろうが、まさか試験に方于魯の墓誌銘が出てくることはまずないと思うので、息抜きがてらに読んでいただければと思う。また小生いたって学識の浅い者であるから、誤解や誤訳も多々あるであろうこと、予め心していただければと思う次第。
墓誌銘を収録している「大泌山房集」には、墓誌銘の本文に前に、いきさつが簡単に述べられている。そこでは、李維?と方于魯が、汪道昆を交えて知り合ったことが述べられている。
ちなみに大泌山人こと李維?は字を本寧、京山(現湖北省京山県)の人である。嘉靖二十六年(1547)に生まれ、天啓六年(1626)に80歳の長寿で没している。隆慶2年(1568)に進士、翰林舘の庶吉士(進士に与える仮のポスト。)を経て編修となる。翰林舘時代は博覧強記を以て知られ、許国と併称され、当時「記録していないことがあれば、許老に聞け、出来ないことがあれば、小李に聞け」と言われたほどであったそうな。
官は礼部尚書にまでのぼっている。ことのほか文名が高く、即興で名文を書くことができたという。叙跋の依頼も多かったが「大泌山房集」百三十四巻、及び「史通評釈」の著録がある。この李維?は羅龍文の息子の羅王常が著した「秦漢印統」の序文を書いて、羅王常の素性を明かしているところでも紹介した。また潘方凱墨序に序文を寄せていることも述べた。他にも同時代のさまざまな著録に叙跋を寄せており、その交際の広さと文名の高さがうかがえる。当時の事情を知る上で欠くことのできない人物である。

歳乙巳冬,方建元以其「佳日楼集」属余邑洪明府寄余,俾為之叙。明府,建元里人也。会余起家領鄜延節,拮拠兵事。明年夏小休,叙成,以復明府及建元同姓中為河西小吏者致之。盖三年而建元卒。逾年,余始聞。又逾年,其子来乞志墓,則前所托寄皆已至,独建元報書浮沈耳。憶余客新安,汪伯玉先生與弟二仲極称建元也,携之過其館中論詩。詩大有致,而時建元墨名満天下,詩乃以墨掩。既與久游,至今垂三十年,而知其人以墨與詩掩也。

「歳は乙巳の冬、方建元は其の『佳日楼集』を余の邑の洪明府に属(しょく)して余に寄(よ)す、俾(なんじ)之の叙を為せと。明府は建元の里人(りじん)也(なり)。余は家を起こし鄜延(ふえん)の節を領するに会い、兵事に拮据(きっきょ)す。明(あく)る年の夏に小(しばし)休(やす)み、叙成(な)りて、以て明府に复(ふく)すに及び、建元の同姓にて河西の小吏を為すに中(あた)る者に之を致す。蓋(けだ)し三年にして建元卒(そつ)す。逾年(ゆねん)、余は始(はじ)めて聞く。又逾年、其(そ)の子来(き)たりて志墓を乞う、則(すな)わち前に托寄(たくき)する所、皆已(すで)に至り、独(ひと)り建元の報書(ほうしょ)の浮沈(ふちん)耳(の)み。
憶(おぼ)ゆる、余の新安に客となるを、汪伯玉先生と弟二仲は極めて建元を称するや、之を携(たずさ)え其の館中に詩を論じて過ごす。詩は大(おお)きに有致、而(しか)して時に建元の墨は名を天下に満(み)たす。詩すなわち墨を以て掩(おお)う。既(すで)に與(とも)に久しく游(あそ)び、今に至るに三十年に垂(なんなんと)す。而してその人を知るに墨と詩を以て掩(おお)わんや。」

「歳乙巳冬」はすなわち萬暦三十三年(1605)である。「佳日楼集」は方于魯(建元)の詩集。洪明府は未詳であるが、「明府」は太守、県令という意味であるから、彼は李維?の邑に赴任していた地方長官の洪某であったと思われる。彼が方于魯と同郷の歙県の人ということになる。
そこで「俾為之叙」とあるが「俾」は「尓(なんじ)」。ここでは方于魯が洪明府を通じて、「佳日楼集」に叙文を書いてくれと依頼してきたことになる。
しかし李維?のほうは「起家」すなわち家業に忙しく、また「領延節」とあるから、「延鎮(ふえんちん)」の節、つまりは節度使を拝領した折にあたってしまったということになろうか。
延鎮」は現在の陕西省に位置していたという。周知のように陕西省は長安を含む北方の地域である。そこの「節」ということは「節度使」すなわち地方長官に任じられていたということである。「節度使」はもともと唐代の辺境警備の軍職であったが、宋代以降はその意味が薄れ、州長官、地方長官といった意味合いに使われたようである。むろん、その地方でことが起これば兵力を掌握して事態に対処する責任があった。
そこで「兵事」に「拮据(きっきょ)」すなわち困窮していたというのは、軍務に煩わされていたということになる。北方異民族との戦いか、地方の反乱の鎮定にあたっていたのかもしれない。
墓誌銘が書かれたのは萬暦三十八年(1610)ごろと考えられるが、数年後の萬暦四十四年(1616)にはヌルハチが後金を建国し、明王朝との国境紛争が激化する。さらに40年後の1644年にはついに清軍が北京を占領し、明王朝は滅亡に向かうのである。萬暦年間の空前の繁栄を謳歌する陰で、北方では確実に緊張が高まっていた時期である。
また、士大夫達は日本人が「文官」という言葉からイメージするような、文事をもっぱらとする官僚ではなく、必要に応じて軍職も務めたのである。特に倭寇や北方異民族の侵入に悩まされ続けた明代にあって、地方官に任ぜられた士大夫達は、多かれ少なかれ軍事に関係しなければならならず、またそのための能力を磨くことも必要とされていた。
そして「明年夏小休」すなわち翌年の夏になって、少しゆとりができたので、叙文を完成し、直接依頼してきた洪明府に完成した旨を「復す」つまり返事をして伝える。また建元の同姓の者、つまり方某という河西で軽い官職にあった者にこれを届けさせた、ということになる。「同姓」というが、もちろん単なる同姓ではなく、方于魯と同姓同郷の縁者、ということになろう。
面白いのが、叙文を頼むなら、方于魯が直接頼めばいいものを、間に人がはいるところである。
少し話がそれるが「お使い」というのは、何かと余禄があるものである。血縁で固められた宗族社会というのは、それほど風通しのいいものではない。矛盾しているようであるが、どうも中国の古代社会(現代も?)というのは、血縁集団同士では非常に警戒心を持つ一方、交際も非常に好むものなのである。市中の酒家や妓楼が宴会で盛り上がっている一方、他家の敷居を跨ぐのは容易ではない。重要な文書をそれなりの筋の者に持たせて使いにやる、ということはその者に交際を広める機会を与えることになる。小者に持たせて走らせれば、相手の家ではその者に茶の一杯もだして小銭を握らせて終わりである。が、ある程度の身分の者を使いにやれば、先方でもそれなりの饗応をするものであるし、交遊も出来るということで、使いに出されるものも恩に着るということになる。
(話が戻すと)ところがその三年後、萬暦三十六年(1608)に方于魯はこの世を去る。そのことを李維?が知ったのは「逾年(ゆねん)」つまりその翌年、萬暦三十七年のことと書いている。さらにその翌年になってはじめて方于魯の子が訪ねてきて、「志墓を乞う」すなわち方于魯の墓誌銘を書いてくれと依頼してきたということになる。その子とは、方于魯の長子、嘉樹のことかもしれない。
そこでその子が言うには、以前に「托寄(たくき)」すなわち依頼していた文はすべて頂いていますが、「独建元報書浮沈耳」ただ方建元の「報書」の「浮沈」のみ、というのである。「独〜耳」は「ただ〜のみ」。
「報書」はここでは「墓誌」のこと。「浮沈(ふちん)」は浮き沈みであるが、つまりどのようでしょうか、というところ。婉曲に可否を問うているのである。
李維?は方于魯の「方氏墨譜」に叙跋や墨賛を多く寄せている。ここで言われている「佳日楼集」に限ったことではなく、墨賛の他にもさまざまな文書の依頼や、やり取りがあったと想像されるのである。そこで子が李維?に墓誌銘を依頼するに、故人との生前の付き合いを思い起こさせ、亡くなってしまった今となっては、ただあなたに(最後のお願いとして)墓誌銘を書いていただく他ありません、というところであろう。情理を尽くした依頼の言葉である。
そこで李維?は「憶余客新安」、私が新安、つまり徽州歙県に客(訪問した)となったときの記憶を辿ればと、つまり回想シーンに飛ぶのである。
そのとき汪伯玉先生と弟二仲は、方于魯を称賛し、連れてきて(汪伯玉の)館の中で詩文を語り明かした、ということになる。「汪伯玉」は言うまでもなく当時の文壇の領袖であった汪道昆(1525〜1593)で、「弟二仲」は汪道昆の二人の優れた弟、汪道貫と汪道会である。
明代末期の名将にして文壇の巨頭、汪道昆については長くなるので省くが、胡宗憲失脚後の倭寇との戦いに活躍し、また方于魯の最大の後援者でもあった。大著「大函集」がある。また汪道貫と汪道会もまたよく兄を助けて、武名文名ともに当時名高い人物であり、歙県には彼らの逸話が多く残されている。
そこで「詩大有致,而時建元墨名満天下」とあるが方于魯の詩は大いに「有致」、つまり独特な面白さがあり、またその墨の名声はすでに天下に満ちていた、といっている。また「詩乃以墨掩」ということであるが、墨の名声に隠れて、彼の詩文は「掩(おお)われて」いる、ということになる。
微妙な表現だが、李維?は方于魯の詩文の才能に一定の評価をしつつも、墨ほどには彼の詩作を評価していなかったともとれる。少なくとも、汪道昆兄弟ほどの熱烈な入れ込みようは感じられないのである。
そしてその後長い間交際し、かれこれ30年の月日が流れてしまった、というところである。方于魯が死去する30年前とすると、おおよそ萬暦初年の頃、方于魯が40歳前後、李維?は40歳手前、汪道昆は50歳代半ばである......そして今、汪道昆、方于魯はすでにこの世に無い。
ああ、あれから30年、あのころはみんな元気だったねえ、夜通し詩論を戦わせたねえ、楽しかったねえ、こうして建元の子が訪ねてきたからには、どれ、ひとつ筆を取ろうかのう、というところだろうか。
そして「而知其人以墨與詩掩也」すなわち方于魯の人物を知るには、その墨と詩を以て語らなくてはなるまいね、ということになる。

この文では初めに、李維?と方建元の人を介したやり取りを述べているが、それも洪某や方某などと、互いにあまり親しくはない者達が間に入っているのである。述べても述べなくてもいいような者たちを間に中継していることを、ここでわざわざ記述しているのは、徽州と陝西では遠く離れていることと併せて、すっかり疎遠になってしまったことを表していると読める。
しかも李維?の方が忙しさにかまけているうちに、方建元は亡くなり、それを知ったのもだいぶ日が経ってからのことなのである。しかしそれからしばらくしてその方于魯の子が訪ねてきて、墓誌銘を乞うところで、その昔に同じ館で語り合った頃を思い出すのである。昔日の近く親しく交際した日々と、遠く離れてしまった今日とを、他ならない方于魯の遺児が結び付ける。今昔と遠近と親疎の違いを際立たせたところで、感慨深く大泌山人は筆をとり、以下墓誌銘の本文となる.....のだが、長くなったのでひとまずここまでとしたい。

(拙訳)
乙巳の年の冬、方建元はその「佳日楼集」を、私の邑の洪明府に属(しょく)して私に送って寄こした。之に序文を書いてほしいということである。明府は方建元と同郷のものであった。私は家業にかまけ、また延鎮の節度使に任じられ、軍務に困窮していたときである。(当時は忙しかったのであるが)明くる年の夏に少し休みができたので、叙文が完成し、その旨を明府に返事をして、建元と同姓の者で河西で小吏をしていたものにこれを届けさせた。そうして三年の後、建元は亡くなったのである。(なくなった)明くる年に私は始めてこのことを聞いた。またそのあくる年、その子が訪れて墓誌銘を乞い、「生前に依頼していた文書はすべて頂いておりますが、(ただ最後のお願いとして)建元の報書(墓誌銘)を書いてはいただけないでしょうか」と述べたのである。
私がかつて新安(徽州)を訪れたときのことが思い起こされる。汪伯玉先生とその弟の汪二仲氏の両名は口を極めて建元を称賛しており、そして彼をつれてきてその(汪道昆の)館の中で大いに詩を論じたのである。彼の詩は非常に独特な面白さがあった。しかしその当時は建元の造る墨の名声は天下に満ちており、彼の詩文の才能は墨の陰に隠れていた。今に至ってかれこれ三十年になろうとしているが、建元の人為(ひととなり)を知るには、その墨と詩をもって語らねばならないであろう。

(つづく)
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