黛玉はなぜ泣いてばかりいるのか?

紅楼夢のヒロイン、林黛玉はよく泣いている。なんで泣いてばかりいるのかという真の理由は、物語の核心部分なので書かないでおく。また本人も知らないのである。が、表向きは「身寄りがない」ということが、悲しみの引き金になっている事が多い。黛玉は親兄弟がなく、親類などの身内も一切持たない孤独な身の上なのである。
しかし、である。彼女は豪奢な邸宅の一室を与えられ、衣食住にはまったく不自由しない。聡明で忠実な腰元に仕えてもらい、上の者からは目をかけられ、同輩、とくに年長の宝釵からは大切にされ、主人公の宝玉からは一途に想われている。
しかも黛玉は若くして天才的な詩人であり、詩文以外の諸芸にも優れ、天性美貌にも恵まれているのであった。これで世を儚(はかな)んだら罰があたりそうなものだと、小生のような後世の凡俗は、当初はなかなか彼女の心情に共感出来なかったものである......

中国で知り合った朋友、しかも日本に行ったこともなければ、日本語も全くわからないネイティブ朋友からは、いろいろと面白いことがわかる。
ひとつは、親類に対する意識のあり方である。中国で知り合った若い朋友達は、もちろん多くが一人っ子である。しかし会話の中で「明日は妹と買い物に行く」とか「弟と旅行に行く」といった話が出てくるので、「あれ、兄弟いたっけ?」と聞くと「母の姉の息子」とか「父の弟の娘」のような返事。ようするに日本で言うところのイトコということになるのだが、会話上は「姉」や「弟」というように、普通に兄弟姉妹のように話をしているのであった。どうも、付き合い方も意識の上でも、限りなく日本的な意味での「兄弟」に近いように感じるのである。
これは、地方都市で朋友ができたときに知ったことであり、日本に留学していた経験のある朋友は、”イトコ”と説明するからわからない。あるいは、海外に在住しているので、それほど日常的に親戚付き合いが発生するわけではないためか、そもそも会話に出てこない。
中国でも、特に地方都市に住んでいる朋友というのは、親類の間の関係が深い。近所に親戚のほとんどが住んでいるからだ。これは日本でもいまだにそうなのかもしれない。なので「一人っ子政策」といっても、日本のように核家族化が進んだ社会で一人っ子が増えることと、また違った様相があるようである。

もうひとつ、「義兄弟」「義姉妹」というものである。中国で義兄弟といえば三国演義の「桃園の誓い」でいうところの義兄弟の契りから、その絆の強さはなんとなく理解できるところである。ただし、女性同士の間でも「義姉妹」の盟を結ぶという話がある。
たとえば「浮生六記」の主人公の妻、陳氏は若いころに刺繍を一緒に習っていた女性と「義姉妹」の約束を交わしている。後に家が窮迫し、自身も重い病気になったときに夫婦ともどもこの義理の姉の家に厄介になり、何か月も逗留して病を癒すのである。これはちょっと、なまなかな間柄の話ではない。陳氏の家は貧しいが教養はある、ごく普通の読書人の家である。こういった例というのは、ままあったのだろう。

日本に来ていたとある留学生は杭州市街の出身であったが、帰省する時にはいつもたくさんのお土産を買っていた。親へのお土産というが、ずいぶんと多いと思っていたら「これは義理のお母用」という。「結婚してたっけ?」と聞いたら、そうではなくて「母親の義姉妹」なのだという。これには少々驚いた。
話を聞くと、母親の義理の姉妹のことも「母」と呼び、元旦にはお年玉ももらえるそうである。その息子や娘達とは兄弟姉妹と呼び合うそうである。むろん、義理の母の父親のことも「父」とよぶそうな。義理の兄弟姉妹の間では、当然のことながら血縁関係はない。血縁姻戚関係があれば、当然に兄弟姉妹と呼び合うから、そのうえ「義兄弟姉妹」の契りを結ぶ必要がないということか。
義理の兄弟もあれば義理の姉妹もある。例としては多少少ないが義理の兄妹や義理の姉弟というパターンもあるそうな。なんだか訳がわからなくなりそうだ。
聞いた時は「この子はひょっとするとタダナラヌ社会の出身なのか?」と思ったが、別にその留学生は”江湖”などと言われる”特殊な社会”の出身ではなく、日本の漫画やアニメが好きな、いたって普通(?)の現代っ子なのであった。
また杭州には、立派な外国人用の墓地があり、非常に高価な物件なのであるが、現地の中国人にも分譲されはじめているそうな。その杭州っ子は「将来祖母にあそこのお墓を買ってあげるのが夢」という。
現代日本の大学生の中に、お金をたくさん稼いで祖父祖母に立派なお墓を建ててあげたい、と考えている若者はいるだろうか.........まあ、以上は小生の個人的体験なので、一般化出来るというほどのこともない。
が、現代の中国の人の家族や血縁への意識の高さや、人間関係のすべてを家族関係に置き換えて捉える傾向は、現代の日本人には見られない。これは日本と中国との、人間の関係性に対する意識の差異ではなかろうか。まあ日本でも年上の人を「お兄さん、お姉さん」と呼ぶことに、名残はみられるといえるかもしれないが。

徽州の宗族社会については何度か触れているが、現代の日本社会に生きる小生などとしては、この血縁や姻戚によって結びつけられた意識の強さというものを、よくよく知らなければならないと考えている。これをよくよく知らないと、古人の行動原理が根本的なところでわからないからである。いや、現代中国人の行動原理もよくわからないかもしれない.....
ということで、林黛玉の、身寄りがない心細さというのも、アイデンティティの危機に関わる大問題、ととらえてあげないといけないのかもしれない。自分が何者なのか、確信が持てない辛さというのは、黛玉のような聡明で感性豊かな少女にとっては、計り知れない辛さなのであろう。
あまりに当たり前のことは、わざわざ文章にかかれないものである。が、清朝初期に書かれたこの物語には、当時の人々が当然備えていた常識や観念が濃密に描かれているのである。
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