汪近聖の生卒年

今度は汪近聖の生卒年?と言われそうだが.......

以前、績渓県に行った際に、“安徽省績渓県名人档案館”を訪れた。“档案”というのは、いわばプロフィールである。あいにくその日は時間がなく、館内のスタッフとの挨拶程度で終わってしまったのだが、そこで「名人故里績渓」という本を見せられたのでざっと閲覧し、汪近聖の項をさがしてみたのである。
そのときのメモに、汪近聖の生卒年が記されていたのを思い出した。この本に記載されていた生卒年は、何に基づいているのか明らかではなかったが、ともかく汪近聖の生卒年について、小生も初めて得た情報であった。
それによると、「汪近聖(1692-1761)」とだけあり、すなわち康熙三十一年(1692)に生まれ、乾隆二十六年(1761)に卒す、ということがわかる。
おそらくは、汪近聖を含む「汪氏家譜」から転載したのだろうが、「家譜」であれば生卒年月日まで記載されているはずだが、残念ながらまだ原典に当たることはできていない。汪氏家譜といっても、それぞれの系統に分かれていて、汪近聖がどの汪氏に入るのかが依然として明確になっていないのである。
そこのスタッフに聞いても、編纂者が誰かわからないので確認できないという。
ともかく、この生卒年を信じるとすると、意外なことがわかる。言うまでもなく、汪近聖は当初、曹素功藝粟齊の下で墨工として働いていたのである。
初代曹素功(聖臣)の生卒年はわかっている。
民国に編纂された「曹氏家譜」によれば、「生萬歴四十三年乙卯正月十五日,卒康熙二十八年己巳二月初五日,寿七十五歳」とある。すなわち、1615年から1689年にかけて存命したということになる。ということは、汪近聖は初代曹素功の没後3年目に生まれているということになる。
ちなみに曹素功の長男で芸粟斎を継いだ曹永錫(孝光)は「生于崇正(禎)五年壬申年十二月初九日中時,歿于康熙三十四乙亥年九月十二日亥時」すなわち1632年から1695年の間に生きた人である。
曹永錫の没時に汪近聖はまだ3歳であるから、汪近聖が曹素功藝粟斎に入ったのは、2代目の頃でもない。藝粟齊はこの2代目の永錫の代に大いに規模と質を拡大したといわれ、曹永錫の製墨の技量は父親の曹素功を凌ぐといわれている。というよりは、曹素功は墨を愛好し、蒐集し研究していたが、墨廠を開いたのは40代も半ばであった。8斤(4kg)を超す鉄塊を墨餅に打ち下ろす、といった重労働が必要な製墨の実務は、この永錫が事実上は行っていたと考えられる。曹永錫は酒豪であり、酔うと「三万杵」の技法を滔滔と語ったという人物である。
永錫には三人の息子がいたが、長子の定遠は「生于顺治己亥年九月甘二日丑时,殁于乾隆己未年五月十六日未时」すなわち、1659年から1739年にかけて存命していることになる。また次男は名を霖遠、字雨侯といい、「生于康熙六年丁未(1667),卒于康熙六十一年壬寅(1722)」である。兄弟二人で康熙二十六年(1687)に北京へ試験を受けに行き、国子監へ就学している。しかしその後は思うように官途に就くことが出来ず、帰郷して藝粟齊を継いだということである。
汪近聖が一体何歳の時に藝粟齊にはいったかは不明であるが、当時のことと考えれば、二十歳頃はすでに職についていたはずであるから、1710年前後には藝粟齊で墨工として働いていたことであろう。汪近聖が働いていた時は、壮年の曹定遠が曹素功を継承していた時期であっただろう。
汪近聖が鑑古齊を歙県城内に開設したのは、康煕六十年(1721)ないし、雍正初年(1722)と言われている。つまり29歳か30歳ころであったと考えられる。まさに「三十にして立つ」である。
乾隆六年(1741)、汪近聖の次子、汪惟高が応召して紫禁城へ向かったときは汪近聖は49歳である。汪近聖は高齢のため、次子が応じた、とあるが49歳という年齢は当時としても旅が出来ない歳ではない。たまたま病気であった可能性もあるが、その後20年も存命しているのであるから、かならずしもそうとも言えない。今となっては謎であるが、考えられるのは宮廷に召された以上、失敗すれば命が無いということを慮った、ということである。長男の汪璽臧ではなく、“次男”の汪惟高をやったのも、長子相続の前提からと考えられるのである。
現代的な価値観からすれば危険なところに息子をやる、というのは親としてどうかというところであるが、儒教の倫理観からすれば、親の為に死ぬのが子の“孝“なのである。
先立つ雍正年間というのは、士大夫や知識人にとって厳しい時代であった。雍正帝は言論弾圧を強め、筆禍によって多くの士大夫が刑を蒙っている。なんとなく、その雰囲気の余韻が残っていたかもしれない。汪家の家族会議で「俺が行くよ!」と、殊勝にも汪惟高は言ったかもしれない。名誉なことでもあるが、下手をすれば族滅ということもありえた時代である。喜びよりも怖れの方が、あるいは大きかったかもしれない。
汪惟高を見送る壮年の汪近聖の胸中にも、不安が大きく占めていたのかもしれない。であればこそ、3年の後に汪惟高が郷里に無事に帰還したときの、喜びもまた大きかったであろう。

良く言われるのが、汪近聖が抜けてから曹素功は力を落とした、ということである。康煕年間の献上墨をほぼ独占した観のある曹素功藝粟齊であるが、鑑古齊創建の雍正年間以降、次第に差をあけられたのだろう。鑑古齊が創立20年を迎えたとき、北京に応召されたのは”曹素功”ではなく”汪近聖”ということになる。
このあたりの経緯、事情は謎が多いが、たしかに康煕年間の藝粟齊の墨は、乾隆時代の曹素功製品と比べると、別格の力があることが知られている。その力というのが、そのまま汪近聖に継承されているように、思えるところがある。このあたりの事情は、墨の品質を上げる上でなんらかの手がかりになると思い、是非とも知りたいと考えているが、いまもって深い謎である。

ともかく、ここでは汪近聖の生卒年を示し、汪近聖と曹素功の関係を簡単に整理しなおすにとどめておく。
落款印01


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