豊干社と方于魯

汪道昆が帰郷後に作った詩社である「豊干社」について、もう少し補足をしておこうと思う。
「豊干」とは、徽州の西渓南の古称である。西渓南は古くは豊渓、豊南とよぼれ、現在では歙県西渓南鎮という行政区になっている。「豊干社」はこれにちなんだものであろう。
西渓南は古来から富商が多く、特に塩商で巨富を得たものが多かった。汪道昆も祖父と父親が塩商であり、裕福な家庭であった。またこの地の富商は、書画の収蔵に特に熱心であったことは述べた。
汪道昆は歙県出身と述べたが、さらに細かく言えば歙県西渓南、松明山の人、ということになる。松明山村または単に松明山は、現在では西渓南鎮東紅行政村に属している。人口は300名を少し超える程度の小さな村である。もとは非常に栄えたが、太平天国の戦乱で荒廃し、かつ伝染病が流行し、衰微したという。
松明山の背後には、黄山の第一峰、紫霞峯がそびえている。そもそも松明山というのは、呈坎近郊の龍山より連なる山域にあり、松が生い茂っていた。松の老樹からは松脂が流れおち、”松明(たいまつ)”を容易に得られた。故にこの名がついたという。
この豊干社は、「方氏墨譜」の成立にあたって、重要な役割を果たしている。方氏墨譜に寄せられている多くの墨賛や叙文、跋文はこの豊干社に連なる人々の手によるものである。
設立当時の盟友を”七君子”と言ったが、その中に方用彬(字は元素:1542—1608)という徽州商人がいた。彼と汪道昆は姻戚を通じて非常に親密な関係にあり、その妻も、その子の妻も汪姓である。
どうもこの方用彬から汪道昆へ、墨が供給されていたようであり、その墨の製造を方于魯が行っていたようなのである。とすれば方于魯は、この方用彬と同族関係にあったとみていいだろう。(これはいずれ方氏の家譜で確認しなければならないが。)
詩社の構成人員は、最盛期には百名を超えていたようである。その間で盛んに詩文のやり取りや、答礼が行われているから、佳墨、良紙の需要は絶えなかっただろう。ちなみに方于魯は、詩箋を造ることにも長けていた。
また書画の謝礼として佳墨を贈る、ということも度々あったようで、それが方于魯の墨の流通や、多くの墨賛の存在に関係しているとみられるものである。
八大山人の祖父の朱多炡(1541-?)も萬歴十二年(1584)に黄山を訪れた際、この豊干社に入社している。朱多炡は李維?と非常に親しかったようで、方氏墨譜に寄せられている李維?の叙文は、朱多炡が代筆している。また朱多炡の墓誌銘を選したのも李維?であった。
明の皇室つらなる朱多炡を詩社に迎えるのは、汪道昆としても大きな意味があったはずである。朱多炡は多芸多才な人であったといわれているが、書と篆刻でつとに有名であった。
汪道昆の「太函集」には「招李太史、朱少仙入社」という詩があり(むろん李太史は李維?、朱少仙は朱多炡)また「端午陪朱少仙、李太史集王将軍園」、あるいは「暑日餞李太史、来少仙,喜李孝廉季宣至」という詩文が見られることから、朱多炡と李維?はいつも行動を共にする親密な間柄であるということがうかがえるのである。
またその関係で方于魯も朱多炡や李維?と親しく交際したと想像できる。方于魯の墓誌銘の叙文に「憶余客新安」と李維?が記しているのは、おそらくはこの朱多炡とともに西渓南を訪れたときのことであろう。(方于魯がなくなる30年ほど前ということは、萬暦十年前後ということになる。)

そういえば、今年の春に中国絵画としては史上最高値で落札されたのが八大山人の描いた「倣倪雲林山水図」であった。弘仁(漸江)も西渓南の富商のもとで倪雲林の臨摸に励んでいるが、八大山人の祖父が西渓南に遊んだことから、なんとなくその関連をうかがわせるものがある。

地縁、血縁、それに詩文の結社などの交友関係をたどることで、方于魯の製墨がどのようなものであったか、おぼろげながら見え始めてきた。それは明代末期の徽州文壇の活動の中で、製墨がどのような位置づけにあったかを明らかにするものである。しいては詩文、書画の文化における墨匠の役割の重要性を、改めて確認することが出来るだろう。
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