羅小華逃亡説 〜?之誠「骨董瑣記」より

清朝末期の歴史学者、?之誠(1887-1860)が編した「骨董瑣記」という本がある。?之誠は祖籍は江蘇省南京の人で、字は文如、明齋あるいは五石齋と号した。光緒十三年に生まれ、私塾には入って学び、読書を非常に好んだそうである。官僚であった父親の任地に従い、雲南、四川を転居してあるく。雲南両級師範学堂、成都外国語専門学校法文科を卒業。1910年には昆明第一中学に歴史教員として赴任するが、武昌蜂起後は革命運動の宣伝に努めた。1917年に北京大学に招聘され、以後は北京の北平師範大学、燕京大学等と兼任で教鞭を執り、また中国史の研究を行っている。1941年に太平洋戦争が勃発すると、燕京大学が日本軍に占領、閉鎖され、?之誠は逮捕投獄されたが翌年釈放される。戦中は日本軍への協力を拒んで、売字売文で糊口をしのいだと言う。戦後は再び北京で教鞭を執り、かつ著述を行った。1960年の1月に73歳で北京で死去。
骨董瑣記「骨董瑣記」は金石、書画、陶磁器、彫漆などの骨董文物についての断簡集であるが、文房四寶に関する記述も多く見られる。またこの本には清朝末期の蔵墨家として著名な、袁励準(1876-1935)や葉恭綽(1881-1968)が序文を寄せている。

この「骨董瑣記」には以下のような羅龍文の小傳がのっている。

「羅龍文,字小華、徽州人。羅小華負侠名,能入水中竟日夜。家素封,善鑑古。从胡宗憲征倭,招徠汪、徐諸酋,叙功為制敕房中書。入厳幕,與世蕃同死西市。或曰,先遁去,死者族子,非竜文也。子六,一改名王延年,游呉越間,鬻骨董自給。頗能詩。
《野獲編》云“小華墨価逾拱璧,以馬蹄一斤易墨一肉,亦未必得真者。」

「羅龍文、名は小華、徽州人なり。羅小華は侠名を負う。能く水中に入り日夜に竟(わた)る。家は素封、善く古(ふる)きを鑑(み)る。胡宗憲に従い倭を征(せい)し、汪、徐の諸酋(しょしゅう)を招徠(しょうらい)し、功を叙(じょ)し制(せい)を為して敕房(そうぼう)中書。厳幕に入り、世蕃とともに同(おなじ)く西市に死す。或(あ)る曰(いわ)く、先(さき)んじて遁去(とんきょ)し、死者は族子、龍文に非ず也。子は六、一(ひと)り名を改め王延年、呉越の間に游(あそ)び、骨董を鬻(しゅく)し自給す。頗(すこ)ぶる詩を能くする。
『野獲編』に云(い)う:“小華の墨は価(あたい)拱璧を逾(こ)ゆる、馬蹄一斤を以って墨一肉に易(かえ)る、亦(ま)た未(いま)だ必(かなら)ず真者を得ず。」

(拙訳)
「羅小華は任侠の名を負っていた。水の中に入ること(泳ぐこと)が出来、昼間と夜とを問わなかった。家は素封家で、骨董書画の鑑定に明るかった。胡宗憲にしたがって倭寇を征伐し、汪(直)や、徐(海)などの首領を引き寄せて捕らえた。その功績により、敕房の中書舎人となった。厳嵩の幕僚となり、(そのため厳嵩が失脚すると息子の)厳世蕃とともに、西市で斬罪に処されたのである。或るものが言うには、先に遁走して逃げ去り、死んだのは一族の別人であり、龍文ではないのだ、と。子は六人あり、うち一人は王延年と改名し、呉越の間を遊歴し、骨董を商って生活した。非常に詩文の才能があった。
また野獲編を読むに、羅小華の墨の値は王侯の玉壁を越えるもので、馬蹄銀1斤でようやく一塊の墨を買うことが出来た。とはいえ、必ずしも本物を得られるとは限らなかった、ということである。」

信憑性の程はおくとして、一応この記載内容について考えてみたい。

羅小華が、徽州歙県の呈坎鎮の富豪の子弟であったことはよく知られている。また「任侠」的な性格の持ち主であったということだが、これは羅龍文に限らず、当時の知識人階級の男子によく見られる気質であり、方于魯や徐文長、汪道昆兄弟の行状からも多分にこれを感じることが出来るのである。
“任侠“というのは、一言で言えば利他主義の徹底といえるかもしれない。”侠気”を重んじる伝統は、春秋戦国時代に既に認めることが出来、司馬遷の史記には「游侠列伝」としてまとめられている。また「墨侠」と呼ばれるように、「博愛交利」を説いた墨家集団の活動にもその端的な例が見られるものである。
明代に「水滸伝」や「三国志」が成立し、当時の知識人の間で広く読まれたことからも、「義気」や「侠気」を重んじる風潮を見て取ることが出来るものである。徽州は古来出版の盛んな地域であったが、明代の萬暦年間に徽州で出版された「忠義水滸伝」には、「天都外臣」という号で汪道昆が序文を書いており、徽州の士大夫の間でも読まれていたことが伺えるのである。

面白いのが羅小華が「泳ぎが出来た」ということである。「水中に入る」であるから、あるいは潜水のようなことを意味しているのかもしれない。呈坎の市中には縦横に川が流れ、また沼にも接している。泳ごうと思えば泳げそうなところである。
話がそれるが、小中学校で水泳が必修の日本と違い、中国ではそもそもプール設備がある学校が少ないため、泳げない人というのが大半である。これが南の広東、福建の方だと泳げる人が少し多いかもしれない。
毛沢東が水泳好きで、盧山の別荘地や中南海の特設プールで毎日泳いでいた話は有名であるが、中国にもプールがたくさんあるかというとそうでもない。いや、かなり増えてきてはいるが、日本ほど数が多くないという意味である。特に水資源が少ない北方ではプールが少なく、よほど好きな人で無い限りあまり泳げないのが普通である。
古代中国、江南ではどうであっただろうか。古代の画像石には、船団同士の戦いにおいて、水中に潜って船底に穴をあけ、敵船を沈める役割を負った兵士の姿が描かれていることが知られている。三国志の呉の将兵の中には、泳げるものが多くいたことだろう。ただし河川や沼沢の多い江南と、水源に乏しい華北では事情が異なっていたはずである。荘子が「真人は水に入っても溺れず、火に入っても焼かれない」と言っているが、やはり泳げるというのはやや特異な技能であったのだろう。
仮にこの記事が事実として、羅小華が泳ぎが出来たというのであれば、夏の暑い盛りに川べりで水浴びをする延長というようなものではなかっただろう。昼夜にわたって水中に居られた、というのはまるで忍者の修行のようで、やはり何らかの武術のひとつとして習得していたのかもしれない。徐渭が若い頃に剣術に熱中していたことや方于魯が馬術や狩に長じていたように、スポーツ(特に格闘技)で体を鍛えていた、というのはこの頃の士大夫には珍しくなかったのだろう。あるいはこの泳ぎに達者ということが、後に胡宗憲に従って倭寇と海上で戦うときに、威力を発揮したのかもしれない。
「招徠汪、徐諸酋,叙功為制敕房中書」とあるが、その胡宗憲に従っての倭寇征伐に功績をあげ、「敕房(そうぼう)」の「中書」に任じられたということであるが、この「敕房」というのは明代中期から内閣府の下に置かれた機関である。誥敕房、制敕房というのがあり、それぞれ中書舎人がおかれている。誥敕房は清朝でも継続されたが、主に皇帝の詔令を起草ないし浄書する役割を負っている機関である。
「中書舎人」という官職は時代によって宮廷制度における位置が変化してゆくが、漢代以降、王朝時代を通じて「中書舎人」といえば“文吏の極官”であり、文才に秀でた官僚の代名詞とも呼べる官職なのである。詩文書画を能くしたという羅小華であるが、その実力が宮廷で詔勅の起草を行うに充分であると認められたのだろうか。あるいは権臣のひきたてにより、好みの官職が得られたとも考えられるが、進士を経ずして軍事的成功によってこの地位を得たというのは、やはり異例のことである。
「入厳幕,與世蕃同死西市。」厳嵩の幕僚となり、厳世蕃に連座して西市で斬られた、ということになる。ちなみに“西市”とは明清時代の北京では処刑場がおかれた場所である。このあたりは、羅龍文に関する他の資料とほぼ一致した内容になっている。

ところがここに、謎のような一文がある。「先遁去,死者族子,非竜文也」とあり、すなわち死んだのは羅龍文ではなく、その“族子”なのだと。羅龍文は先に逃亡したのだ、と言っているのである。
“族子”ということは、羅氏一族の何者か、ということになるのだろう。呈坎羅氏にとって、羅小華は22代目の宗主であり、ただの羅氏ではないのである。宗家とは、宗族全体にとっては宗廟の祭祀に責任を持つ一族であり、いわば呈坎羅氏にとっては皇族に等しい一家である。ほかならぬ宗主の羅龍文が、都で処刑されるというのは大きな衝撃であっただろう。あるいは年恰好の似た人物が身代わりに立つ、ということも、ありえないような話ではないかもしれない。
呈坎の容安館の伝承が確かならば、羅龍文は厳嵩父子を数年間にわたってかくまったことになる。このことは、「明史・厳嵩傳」にも同様な記述があることから、そういうことがあったのだろう。逆に考えれば、羅小華単身で逃げようと思えば機会はいくらでもあったと考えられる。ただ任侠の徒としては、義兄弟を見捨てての逃亡はありえなかったのかもしれない。
ともかく羅龍文が本当に逃亡したかどうか、今となっては不明である。一応、潘之恒の「亘史外記・羅龍文傳」に、処刑された亡骸を息子が密かに運んだ、という記述がある。その具体性から考えて、出所が怪しい羅小華逃亡説よりは、信じてよいのではないかと思われるのだが、今となっては確かめる術も無い。
ただ、素性確かではない伝承にしても、何ゆえ羅龍文は逃げ延びたことにしなければならなかったかのだろうか。逃げ延びて、何をしたのか?ということには何も触れられていないのである。これはやはり、宗家というものの存在の重さが理由になるのかもしれない。社稷(しゃしょく)が絶えるというのは、血の尊崇によって結びついた社会にとっては、その存在の正統性を喪失するに等しいことであっただろう。
呈坎鎮を訪れた際、今に残る羅龍文の旧邸には厨房が10部屋もあった。つまり普通に考えると、多いときで10人の夫人を抱えていた、ということになる。その子が六人いても不思議は無いだろう。
「子六,一改名王延年」というのは、そのうちの一人が逃げ延びて王延年と改名したということになる。この話も、羅龍文が京師で処刑されたときに同行していた羅南斗が、密かに逃げ延び、王姓に改名して隠れ住んだ話と符合する。
羅南斗こと羅王常(延年)は、篆刻を能くし、古印研究における源流を為した一人である。その子孫も、篆刻に名があったことが知られている。羅王常が古印や金石、あるいは書画骨董の鑑定に明るいのも、また詩文に優れているのも、羅家の家学、あるいは羅龍文譲りの技能であったとすれば不思議なことではない。
また最後に『野獲編』の記述も付記されている。『野獲編』は明代末期の沈徳符(1578-1642)が書いた、伝承や巷間における異聞記である。書名は「野之所獲(野の獲る所)」からきている。萬暦三十四年ないし三十五年にかけて三十巻が成立し、また四十七年ごろに“続編“十二巻が書かれた。
この「野獲編」からの引用は、その「新安製墨」の項の内容である。そこには宋の徽宗皇帝が製したといわれる蘇合油の墨を、金の章宋がこれを求めたところ黄金1斤でようやく1両を得たに過ぎなかった、という話で始まり、次に羅小華の墨について述べている。
「拱璧」とは、原義は古代で祭祀に用いられた大型の玉璧であり、天子が天を祭る際の祭器とされたものである。ここには多少の誇張があるが、玉璧にたとえられ、馬蹄銀一斤(500g程度)と墨一個が等価であったというから大変高価な墨ということになる。また必ずしも本物が得られるとは限らなかった、というのはその倣製品も萬暦年間から随分とあったことが伺えるのである。また「野獲編」には羅小華に続けて方于魯と程君房の確執に触れており、明代後期の製墨業のあらましを概観した文になっている。

実はこの「骨董瑣記」の記事は、民国時代に出版された「歙事閑譚」に引用記述されていたものを読んでいた。そこで出典の「骨董瑣記」を探していたのだが、昨年この「骨董瑣記」が再版されたのを幸いに、入手したのである。
残念ながら、「骨董瑣記」の方にも、この小傳の出所について情報は無かったものである。あるいは、当時の北平(北京)にあつまっていた、清朝の翰林館出身の古老、たとえば袁励準などから聞いた昔語りなのかもしれない。
ともかく「骨董瑣記」は民国時代の著作であり、またその信憑性の程は確かではないが、これも羅龍文こと羅小華の消息を伝える資料のひとつとして紹介した次第である。
落款印01


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