雄村曹氏と山東曹氏

「竹山書院」の見学を終えて、書院のそばにそびえる巨大な牌坊「大中丞坊」を再び観に行く。
歙県雄村「大中丞坊」牌坊のある場所は、竹山書院を見学にくる人々のための駐車スペースになっている。とはいえ、実のところ雄村を見学に訪れる人は少ないようだ。徽州の古鎮史跡をすべて回ろうと思ったら、駆け足で観てもどれほどの日数を要するか検討がつかない。
この「大中丞坊」には、雄村曹氏のうち、進士及第(殿試合格者)ないし挙人(地方試験である郷試合格者で殿試の受験資格者。稀に推薦で資格を得、考廉という)となったものを列記し、顕彰している。この村の男子にうまれたならば、この牌坊に名を刻むことを夢見ない者とてなかっただろう。
歙県雄村「大中丞坊」雄村の曹氏は塩商で巨万の富を築き、竹山書院を建設するなど地域の文化教育に投資する。その動きと言うのは、曹文埴や曹振镛等を輩出する遥か以前、明代中期にさかのぼれそうである。
雄村に残る巨大な牌坊「大中丞」には、明代成化年間の進士及第者、曹觀(そうかん)の名が見える。以下、ずらりと進士及第者の名が列挙され、左側に挙人の名が列記されている。雄村ではこの地の学問的水準と教育レベルの高さを誇って、進士及第者を何人かまとめ、いくつかの呼称で呼び習わしている。
まず明代、雄村曹氏では“一門四進士,四世四経魁”というのがある。明代の科挙制度においては、四書五経が必須科目である。その五経において、それぞれ主席合格者が“経魁”とよばれる。曹氏の村のある家族から四世代にわたり、四人の進士及第者と経魁が出たという事である。
歙県雄村「大中丞坊」まず曹観(そうかん)が明の成化辛卯(七年:1472)に経魁となり、乙未年(十一年:1476)に進士。その子の曹禎(そうてい)は成化丙午年(二十二年:1487)に経魁、進士となる。さらに曹観の姪孫の曹深(そう・しん)が正徳丁卯年(二年:1507)経魁、戌辰年(三年:1503)に進士となる。また曹観の孫の曹楼(そう・ろう)は隆慶丁卯年(元年:1567)に経魁、辛未年(六年:1511)に進士となったという。
清代になると“同科五進士”というのがある。その五人とは乾隆庚辰年(二六年:1760)の曹文埴(そう・ぶんしょく)、曹孚(そう・ふ)、曹樹棻(そう・じゅふん)、曹採(そう・さい)、曹裕昌(そう・ゆうしょう)の五人が同科で進士に及第する。さほど大きくも無い雄村で、一度に五人の進士及第者が出たというのも
また“一朝三学政”というのもある。「学政」というのは、清朝における省の教育行政の長官である。すなわち乾隆年間,曹文埴は江西、浙江学政、曹城(そう・じょう)は山東学政、曹振镛(そう・しんよう)は江西学政である。
さらに“父子尚書”というのがあり、曹文埴が戸部尚書に登り、息子の曹振镛[镛:金+庸]が軍機大臣となったことである。
歙県雄村「大中丞坊」「竹山書院」は、清代に入ってから建設された私塾であるが、明の成化七年(1472)に曹観が進士に及第したということは、清朝にはいる以前からこの村では学問が盛んであったことが伺えるのである。
明代、清朝にかけて進士及第者の多くは圧倒的に江蘇省蘇州周辺地域と浙江省湖州周辺地域に集中しているのだが、これらの地域と徽州とでは人口の多さが違うことも考慮しなくてはならない。徽州は土地が耕作に適した土地が狭く、多くの人口を支えられる土地ではないのである。にも関わらず、儒教倫理の伝統から多子多産が奨励された。結果的に多くの男子は商人となって他郷に交易の旅に出るか、あるいは科挙に合格して宮廷ないし地方で官僚として身を立てなくてはならなかったのである。
徽州商人になるのは、多くは科挙受験に見切りをつけた者たちであり、挫折したとはいえ、水準以上の文学的素養を有していたと考えなくてはならない。“賈為厚利,儒為名商”(商売は厚い利益を出し、学問はすぐれた商人を生む)という徽州の精神がみられるのである。
この雄村の学祖とも言うべき曹観が明の成化七年(1472)に進士となってから、乾隆四十五年(1781)に曹振镛が進士となるまで、実に300年近くの長い期間、この地の学芸が衰えなかったというのは驚異的なことである。
実際、王朝時代の中国において、名家はなかなか存続しないものである。優れた人物が辛酸の末に身を立てたとしても、その子弟達は驕慢となって奢侈に溺れ、その家門が三代保たれるというのは非常に稀なことである。「紅楼夢」は大富豪の名家が、何ゆえ急速に没落してゆくかを、余すところ無く描き出している。
竹山書院を創建した曹菫飴は、清朝初期の揚州で八指に入る大塩商であったが「財産を成すものは多いが、それを保てるものは少ない」と、常々に考えていたという。曹菫飴も、揚州であまたの富家の栄枯盛衰を目の当たりにしていたことだろう。築き上げた冨を「錦衣玉食(贅沢な衣装と食事)」に浪費することなく、教育や文化施設に投資し、かつその教育事業を継続させることで一族の繁栄をはかったのである。
雄村も中国にあっては都市ではなく、農村である。しかしながら、農村部においてもその文化レベルや教育水準は、必ずしも低いものではなかったということも、忘れてはならない。日本の江戸時代に各藩が学問を奨励した結果、優れた学者の多くが全国に遍在していたことと考え合わせれば、理解しやすいかもしれない。
歙県雄村「大中丞坊」じつはこの曹菫飴、康熙帝の第二回南巡に際して接駕に任じられているのである。接駕は文字通り、皇帝の駕籠に近侍する役職である。徽州の大塩商が清朝に接近していた様子が伺える。また、何度か触れている「紅楼夢」の作者、曹雪芹の祖父の曹寅(そう・いん)は、康熙帝の初回を除く四回の南巡に付き従っている。すなわち第二回の南巡では曹寅と曹菫飴が康熙帝に近侍していたことになる。おそらく、曹菫飴が接駕に任命された経緯には、曹寅の働きかけがあったのではないだろうか。曹寅は江南にあって、塩商を監督する役職にあった。曹寅と雄村の大塩商の曹菫飴の間で、交渉が無かったとは考えられないことである。
曹寅は少年時代の数年間を叔父の曹鼎望(そう・ていぼう)とともに徽州で過ごしていることはのべた。また曹寅の父親の曹璽(そう・じ:1620-1684)は、康煕二年に「江寧織造(こうねいしょくぞう)」に任命されている。「江寧」とは南京のことで、「江寧織造」とは、南京にあって表向きは絹織物の生産と流通を掌握し、税を徴収するする機関であったが、もうひとつ重大な役割があった。清朝に反感を覚える漢人勢力を監視し、同時に懐柔と融和も図る、清朝政府の国内諜報機関としての役割である。
南京に「江寧織造府」という行政府兼官邸が置かれ、担当官僚とその家族はここで起居していた。また徽州は「南直隷」として、南京の直轄地域であった。
曹璽の妻は孫氏といって、康熙帝の乳母であり宮廷で“一品夫人“の称号を与えられていた女性である。ちなみに曹璽の父親は曹振彦(そう・しんげん)といい、明代末期に清朝の軍と戦って破れ、捕虜になって投降した漢人武将である。曹振彦と曹鼎望は兄弟であり、曹鼎望が徽州府知として徽州へ赴任した数年間、曹寅も従兄弟達とともに徽州に滞在し、歙城内の紫陽書院で学んだと言う。
曹寅は母親が康煕帝の乳母を勤めていた関係もあって、若い頃から康熙帝の側に侍立し、康熙帝の信任が非常に厚かった。この曹寅が任命されたのが「江寧織造和兼任両淮巡塩監察御使」とあり、つまりは「江寧織造」と「両淮巡塩監察御使」を兼任していたのである。「江寧織造」は親子二代で任命されたことになる。康熙帝が江南へ南巡した際に度々行宮としたのがこの「江寧織造府」であり、政府の官邸ではあるが同時に曹寅の居館でもあり、その信頼の程がうかがえようというものである。
さらに曹寅が兼任している「両淮巡塩監察御使」であるが、「両淮(りょうわい)」というのは現在の「淮安(わいあん)、淮陰(わいいん)」を指し、現在の江蘇省淮安市淮陰区に名を残す地方である。その地方一体の塩の流通を監督する役目であり、非常な要職といってよい。また物産と流通に深くかかわるため、必然的に商人達と深く関係することになる。当時揚州を拠点に専売の塩商として莫大な富を築き上げていた徽州商人達とも、無論のこと無関係ではありえなかっただろう。
「両淮」で活動する塩商人達は、水運の要衝である揚州に邸宅を構え、活動することになる。揚州は東西に長江の水運と、江南と北京を結ぶ南北の運河が交錯しており、東西南北の物流の心臓部分である。
曹寅の曹一族は、山東省の豐潤県に原籍をもっている。しかし曹鼎望が徽州府知時代に、徽州の隣の江西武陽系の曹氏と家譜(家系図)を統合する作業を行っている。雄村曹氏が江西武陽曹氏とどう関係するかは、(資料未収で)いまのところ明らかになっていない。家譜の統合というのは、まま行われるものであるが、隣接する地域の間で互いに往来がある場合がほとんどである。北方の山東省の曹氏が、ことさら江南の曹氏との家譜と統合しよとした意味はどのようなものであっただろうか?結果、山東省の曹氏と江西省の曹氏がもとは同族ということを示す家譜が出来上がり、その関係で「紅楼夢」の作者、曹雪芹の原籍は江西武陽ということになっているそうだ。
この家譜の統合は、曹鼎望や曹璽といった、北方にあって早くから満州族に仕えていた漢人貴族達が、南方の漢人士族の懐柔と融和を行う過程で、どのようなプロセスを経たのか、それがひとつの答えになると考えている。

台北故宮博物院に残る松花江緑石硯は、康熙帝の乾隆帝の時代にかけて、皇帝の命によって満州族の発祥地を流れる松花江(しょうかこう)から採石された硯材を使い、制作されたものである。硯という、漢民族の士大夫にとってもっとも珍重される文物を、満州族に縁の深い地から取れた硯材で制作し、多く下賜したことの政治的な意味は深いものがある。
康熙帝の文化政策の面からこの松花江緑石が語られることは多いが、しかし果たして誰がそれを康熙帝に提案したのだろうか?康熙帝自らの発案であったかどうか.......そうであったとしても、少なくとも漢民族文化の真髄ともいうべき文房四寶の、その最も洗練された趣味に精通した人物なり、勢力なりのブレーンの存在が皆無であったとは考えられないのである。
時代が下って乾隆時代に進士となった、雄村の曹文埴は乾隆帝が制作を命じた「欽定西清硯譜」の編纂メンバーの一人である。雄村曹氏の文化教養レベルの高さともいえるが、墨、硯、筆、紙と、文房四寶のすべてを生産し、宋代以降つねに最高水準を保ち続けた徽州の人士であればこそ、ともいえるだろう。
どうも康熙帝の(漢人勢力との融和と懐柔のための)文化政策には、曹寅や曹璽、曹鼎望といった山東曹氏を通じて、徽州雄村曹氏をはじめとする徽州の人士を中心とした勢力の影響があったと考えられるのである。そこに、曹素功の「紫玉光」が現れるのではないか?というのが、現在のところの仮説である。
徽州人士は、異民族王朝に帰服し、その政策を支持する見返りに、塩の専売という巨大な権益を得たのではないだろうか。朱子学の聖地である徽州の士族達が、清朝の文化政策を支えるという意味は、思想統制という難題を抱える王朝にとって、計り知れない意味があったと考えられるのである。
「紅楼夢」を著した曹雪芹の出身一族である北方の曹氏と、徽州雄村曹氏という、一見無関係な二つの曹氏が、徽州の繁栄を支える塩の専売を通じて結びつく。そこにもうひとつ、曹素功が入り込むとき、康熙帝がその墨を称えたといわれる「紫玉光」伝説の謎が解けるのではないだろうか。同時に、清朝初期から流行した「黄山図」や「白岳図」などの墨の意匠の意味も、そこから説明することが可能になると考えている。
曹素功の墨がすばらしかったから皇帝が褒めたのだ....たしかに当時の曹素功の墨はすばらしかったに違いない。しかし最高権力者の公式の発言というのは、常に政治的な意味をもつものである。
また墨や硯というのは、その価値を知るか否かが、政治的な意味を持つほどに重要な文物であったということも、そこから理解されるのではないだろうか。
落款印01


calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM