古城の名門校 〜安徽省歙県「古紫陽書院」跡

雄村では竹山書院を観た後、新安江を挟んで対岸の尼僧院などの見学もあったのだが、それらの紹介は後回しにして、まずは西溪南へ向かうこととする。もう正午を回っていたので、雄村で食事をしてから.....と思ったが、竹山書院近くの飯店は、予約をしないと駄目ということである。しかも村中どこにも食事が出来るところはなかった。やはり、外から人があまり来ないところなのだろう。仕方が無いので、歙県まで戻って昼食ということにする。
歙県はかつての徽州の中心地だけあって、現在でも地方都市なりの賑わいを見せている。市街の規模は屯溪よりも大きいかもしれないが、国際的な観光都市である黄山市の中心である屯溪ほどには、垢抜けした感じがしない。まあ、近代的な建物を観に来たわけではないので、それでいいのだが。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡安徽省歙県「古紫陽書院」跡
歙県も本気になって探索すると、とても観きれないほどの史跡があるのだが、製墨関係で明らかに残っている史跡の情報が得られていない。後藤朝太郎翁の著録によれば、清朝末期の歙県には胡開文系の墨店が軒を連ねていただけで、汪近聖や曹素功の姿は無かったという話である。
ただ折角歙県近くまで来たので、市内の中学校の側に残っている「紫陽書院」の跡を訪ねることにした。「紫陽」は朱子学の始祖、朱熹の別号である。(アジサイ、の意味として使われるのは日本だけだそうだ)
歙県の適当なお店で昼食をすませ、旧城内へ入る。歙県も一応の観光スポットとして開発されており、本来は入場料を支払って入ることになる。何度か訪問したことがあるが、ガイドが案内してくれて、一通りの案内が終わるとあとは自由に観て良いということだった。今回は紫陽書院だけに用があるので、タクシーで旧県城内へ直接乗り入れる。歙県は旧城内と、その周辺に発達した新市街とに分かれている。「城」といってももちろん日本の城とは違い城塞都市であるから、城壁の中に旧市街地が存在しているのである。
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城壁は小高い丘を取り巻くように築かれていたそうだが、中国の多くの都市でそうであるように、近代化の妨げとなるということで取り除かれた。それを近年、観光用に一部再建しているという。
城壁の内縁を沿うように、ぐるりと巡らされた道路に車を走らせる。建物の間隔、間口が狭いのは城塞都市に特徴的な町並みである。丁度、お昼時を終わるころで、学校へ向かう子供たちの姿が見える。昼食は家に帰って済ませるから、朝昼二回の登校時間があるというわけだ。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡中学校前に、巨大な牌坊が聳(そび)え立っている。この牌坊は「三元坊」(1468創建)と言い、校舎向かって正面には「状元、会元、解元」とある。故に「三元坊」というわけだ。またその背面には「榜眼(ぼうがん)、探花(たんか)、伝臚(でんろ)」とある。
これらは科挙制度における成績優秀者の称号であるが、時代によって科挙制度は変化している。一応、「三元坊」が建てられた明代の制度に準じて説明すると、まず科挙の最終試験「殿試」では合格者を成績優秀者から順に「一甲、二甲、三甲」の三つに分類する。一甲は3名で、「進士及第」の学位を授与される。
「状元」は「一甲」の首席合格者、「榜眼」とは同じく次席の合格者、探花は第三位である。「伝臚」は二甲「進士出身」と三甲「同進士出身」という学位を受けた者たちの中で、それぞれの首席合格者である。
なので厳密に「進士及第」というと、「一甲」の者達のたった3名を指すのだが、通例では二甲、三甲あわせて「進士」あるいは「進士及第」とよぶ慣わしがある。無論、三甲といえど、容易なことではない。
また会元は(殿試の予備試験の)会試の首席合格者、解元は地方試験である郷試の首席合格者である。
現代中国の中学生達も毎日毎日、科挙試験で目指すべき目標が書かれた牌坊の下をくぐって通っていると言うわけである。ちなみにこの中学校は「歙県中学校」といい、地元でも名門校なのだそうだ。気のせいか、行き交う中学生達も利発そうにみえる。
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牌坊をくぐると小さな濠があり、石橋が渡されている。この石橋自体は古いものなのだろうか、小さな石鼓がその両脇を守っている(写真右)。雄村の竹山書院ほど厳重にではないが、大事な子供たちが通うところ、やはり魔を払う仕掛けがなされている。
これをわたると学校の敷地内にはいることになる。校門をくぐると言うより、気軽に公園に入ってゆくような感覚である。
日本の小中学校も、最近は物騒な事件が増えたため、校内への出入りはかなり厳重に制限されている。それに比べると、歙県の中学校は実に開放的だ。正確な統計は知らないのだが、徽州はとにかく犯罪発生率が低いそうだ。それは明かりの少ない夜間でも、無防備に若い女性が歩いているところからも伺えるのだが、この中学校にも物々しい雰囲気がない。
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「公告」の掲示板に、ポスターがあると思ってみたら「孟子」様なのであった。あの「文革」は何だったのだろう?何処へいってしまったのだろう?と考えてしまうほどに、現代中国の教育現場では孔孟の権威が復活している。張芸謀の「我的父母(邦題:初恋の来た道)」でも、主人公の教師が教える学校で、論語の朗読のシーンがあった。国策映画でも許可されているのだからもはや公認、いや推奨されているのだろう。
孔子や孟子の思想というのは、時代によってさまざまに解釈されるのだが、首尾一貫しているのが「学問に励め」ということである。「仁」や「礼」がどうのというよりも、「学問」が孔子の教えの無条件の絶対善なのである。いつの時代も、学校にとっては都合が良い教えであろう。
このポスターには「父母、老人、目上の人を敬いましょう。朋友と仲良くしましょう。年下の人を大事にしましょう。」という程度のことが書かれていただけであるが、「昔の偉い人が言いました」というのは、「学校の先生」の権威が失墜した現代(中国ではそれほど地位は低下していないそうだが)子供心には有効かもしれない。

右の写真の、学校の壁に金文字で埋め込まれているスローガンは「愛国旗、唱国歌、話普通語」の三語である。「愛国旗、唱国歌」は日本の教育現場でも議論があるが、浸透していれば標語にする必要もないわけで、そう考えると中国でもさほど徹底されてないのだろう。
「話普通語(普通語を話しましょう)」というのはどうだろう。学校の授業は普通語(共通語、いわゆる北京語)なので、よほど年配の人でない限り普通語を話せない人はあまりいない。学校だけではなく日常でも「普通語」で話しましょう、ということなのだろうが、方言を無くす方向の教育政策なのだろうか。事実、歙県と績溪県、屯溪では互いの方言は全く通じない。
その昔も、科挙を目指す士大夫の子弟は、北京官語で論語などを朗読暗誦したため、都へ行っても共通語で話すことが出来た。逆に地方へ赴任した際も、地元の士大夫階級の者達とは北京官語で交流できたのである。同時に行政実務においては、現地語をしゃべることができる地元の下僚の存在は欠かせなかったということになる。
なにはともあれスローガンというのは、施行する側の問題意識が浮き彫りになるものだ。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡安徽省歙県「古紫陽書院」跡
校内に入っていっても、中学生達にジロジロと見られるということもなく、不審や警戒の表情もない(気のせいか)。牌坊の脇に守衛室があったが、カメラを出して三元坊の写真を撮っていても、とがめられるでもなかった(ただし、常にそうなのかどうかは知らない)。
一応、守衛さんに「紫陽書院の跡は何処ですか?見学したいのですが。」と聞く。あっさり許可してくれ、場所は正面向かって校舎の右脇道をあがったところにあるということだ。ともかく向かうことにする。
歙県旧市街にあっては、ぬきんでて近代的な建物である中学校は、日本の学校と大差ないような鉄筋コンクリートの校舎である。
校舎と周辺の民家との境界がゆるやかである。アパートのような集合住宅が校舎のすぐ側に建てられていたが、教職員の宿舎だそうである。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡校舎と教職員寮の間を通る坂道を登ってゆくと、竹の茂みが盛り上がったところに亭(あずまや)が建てられている。その土坡の裏側に「古紫陽書院」の跡がある。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡「古紫陽書院」の跡である。紫陽書院は、城内と城外の二箇所にあり、城内の方をとくに「古紫陽書院」という。
朱子学の学祖、朱熹の外祖父と母親は歙県の人である。朱熹(しゅき)は幼いとき、歙県城の南の紫陽山にある孔子祠で読書を学んだという。伝説では、血を吐くほどに読書に励んだと言われている。(当時の読書は常に音読するので、血も吐きかねないだろう)。
これにちなみ、「紫陽書院」が南宋の淳祐六年(1246)に歙県府城の南門外に創建された。これには南宋の理宋皇帝御筆の扁額がかかげられていたという。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡安徽省歙県「古紫陽書院」跡
この小さな牌坊にある「古紫陽書院」五文字は、雄村出身で乾隆時代の戸部尚書、曹文埴の揮毫によるといわれる。後に破損と再建を繰り返し、明の正徳十四年、郡守の張芹が紫陽山の麓に再建する。さらに、歙県城内にも紫陽書院がつくられた。城内と城外の、二つの書院があったということになるが、城内の方を「古紫陽書院」と呼ぶようになったのである。また、歙県以外の休寧婺(ブ)源にも、ある時代には同名の学校が存在したという。(中国全土でも、”紫陽書院”という名称の学校が何箇所かあったようである。朱熹の影響の強さを思わせる)
徽州の古書院は明代に勃興した「郷紳(きょうしん)」とよばれる、土着の財力を持った知識人階級によって運営されていた。ゆえに主立つ後援者の家の没落によって盛衰を繰り返す、という事情もあった。
乾隆期には城内の古紫陽書院は経費不足により、また城外の書院は破損よって運営が困難になった。ここでも徽州出身で、揚州で塩業を営む鮑志道が働きかけ、両淮地方の塩政(塩業当局)の同意のもと、毎年淮南地方の会計から3720両を古紫陽書院の運営に資金援助させ、又自ら3000両を拠出して書院の房舎を修復した。城内の古紫陽書院の修復には、雄村出身の曹文埴も出資している。鮑志道はまた8000両の銀を両淮官庫から貸し出すことにし、その利息によって城外の紫陽書院の運営を援助したという。
両淮の公費が使われるのは、その租税の大半が徽州の塩商人がもたらしたからか。それにしても、相当な額の運営資金を要したものだ。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡安徽省歙県「古紫陽書院」跡
門の両脇には、やはり「石鼓」が置かれて正門を守っている。胴が短い太鼓であるが、こういう形状のものもあったのだろう。龍頭なのか、神獣が大口を開けて石鼓をくわえこんでいることがわかる。
この石鼓の制作年代はわからないが、綺麗に苔蒸しており、明代の書院の創建時からあったような雰囲気である。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡門をくぐって見上げると石段が続いているが、登りきったところで壁でさえぎられており、扉が見えるが向こう側は外界である。つまり、「紫陽書院」の遺構は小さな校門跡だけ、ということになる。少し残念な気もするが、雄村と違い徽州の中心であった歙県では、近代的な学校を建てられる時期も早かったのかもしれない。過疎化して新たな学校を建設する資力が無かった地域ほど、古い建物が利用されて残っていたというのは皮肉な話でもある。
この地で教育・学問が盛んであった様を今に伝える貴重な遺跡であるから、大事に残しておいて欲しいものである。
安徽省歙県「古紫陽書院」跡紫陽書院は、徽州にあっても名門校であり、周辺の村落の多くの子弟が、この学校で学ぶために歙県に集まってきていた。また、徽州に赴任する官僚の子弟も、父親の赴任中はこの紫陽書院で学んだこともあったという。今風に言えば転校生だが、うまく馴染めただろうか。
清朝初期、徽州に赴任した曹鼎望(1618-1693)は、紫陽書院の修復と運営に力を尽くした。曹鼎望の次男の曹鈖(そう・ふん)や、甥の曹寅(1658-1712)も一緒に紫陽書院に通ったという。曹鼎望が徽州へ赴任したのは康熙六年(1667)であるから、曹寅は10歳になるかならないかの頃である。曹寅と曹鈖は従兄弟同士だが、兄弟同然の付き合いをしたという。
康煕七年(1668)に26歳の石濤は初めて歙県を訪れ、こで曹鼎望や曹鈖等と親しく交際した。一緒に黄山へ遊んだり、曹鼎望のために「黄山図」の連作を描くなどしている。その後も度々歙県を訪れた石濤は、しばらく紫陽書院に滞在していたこともあったという。当時の学校である「書院」が、単なる受験生のための学校だけではなく、士大夫同士の交際の場としても機能していたことが伺える。
また徽州での石濤と曹一族との交際の深さは、清朝初期の「黄山図」などの墨の意匠の流行に対して、何事かを示唆しているようでもある。

「紫陽書院学書墨」を入手して以来、一度は眼にしたいと考えていた「紫陽書院」であった。清朝に「紫陽書院」が隆盛を誇ったのは、康煕年間に曹鼎望が修建してしばらくの間であり、また乾隆年間に鮑志道が経営にテコ入れした時期である。
康熙帝と乾隆帝は前後して「学達性天」と親筆の扁額を送っているから、普通に考えれば「紫陽書院学書墨」の造られた時期も、康煕か乾隆時代である可能性が高いだろう。あるいは製墨に親しんだ曹鼎望が紫陽書院を後援した康煕年間というのが有力とも思われるが、これは贔屓目が過ぎるであろうか。

ともかく歙県古城の「紫陽書院」を後にし、次は西溪南へ向かうことにする。
落款印01


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