羅聘「蘭画冊」 〜蘇州博物館

今回は蘇州でもあまり時間が無かったので、トイレに寄るついでにほんの少しだけ蘇州博物館に入ったのである。もちろんざっと書と画の展示室だけ観て回った。文字通り駆け足で見た書画の中では、羅聘「蘭画冊」が印象に残っている。前にも述べたが、中国の公営博物館の入館料は無料なのである(例外があるかどうかはわからないが)。入館料を払って観ているならもう少しゆっくりみたいところだ。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」どこの博物館でも、作品保護のために照明を落とし、センサーで人が前に立ったときに軽いスポットを当てるようになっている。蘇州博物館はスポットの照明の光も落とし気味であり、感度をあげてとっても小生のカメラではこれが限界であった。ISO800で撮ったので画面が粗い。撮影は自由だが、撮影のために展示しているのではないから、文句は言えないところだが。
羅聘は花鳥、人物、山水などすべての画題を能くしたがというが、蘭画についてもその作風には幅がある。羅聘は「白昼見鬼」と自ら言い、「鬼趣図」によって独特な画境を開いている。「鬼」は日本のいわゆる”オニ”とはイメージが異なり、霊魂、幽鬼、幽霊というほどの意味になる。心霊現象が見える、と言い切って描くあたりがまさに”怪”である。
しかしこの墨蘭はケレン味の無い端整な筆致で描かれており、淡墨の透明感をふんだんに駆使しながら、墨一色で変化する光線を見事に表現している。蘭石には文徴明の蘭画を思わせる清澄な空気が漂っており、”揚州八怪”の”怪”たる所以は観られない。
もちろん、使用している紙は滲みひとつない精錬された熟紙であり、おそらくは表面を滑らかに加工しているだろう。この紙が墨色の艶と透明感を引き出し、また運筆をいささかも滞らせること無く、蘭葉の瑞々しい生彩と明るさを生み出しているのである。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」やや青に傾斜した墨色が、艶やかな漆黒から限りなく透明に変化してゆく効果は、精良な油烟墨の使用によるものであると考えられる。日本では青味はもっぱら松烟で出ると考えられているようだが、良質な油烟墨でも紙を得れば青味に傾いた発色を呈する墨がある。
もっとも、微細な鉱物顔料をわずかに墨に混ぜ、青い色調を出していることも古画では皆無ではない。水墨画は墨一色と考えられがちであるが、八大山人徐渭などの作例には、墨とごく微量の色顔料を用いて効果を出している例が多く見られる。この羅聘の例は、コントラストの関係で青く見えるが、実物を見た印象では、墨のみの色に思えた。
”水墨画”といえば墨しか用いてはならないという、暗黙のルールでもあるかのような話も聞く。現代では「青墨」といって墨に青い顔料を混ぜ込んだ墨も数多く流通しているが、”ルール”を守るためにあらかじめ墨に色味を添加するというのでは、いささか本末転倒のようにも思える。(とはいえ、古来から墨に顔料の添加が無かったわけではないが)
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘(らへい:1732-1799)は揚州八怪の殿軍(しんがり)とみなされる名手である。呈坎鎮には羅聘の家が残っているが、これは羅聘の祖父・父親の世代の家である。羅聘が生まれ育ったのは揚州であり、揚州には彼の家が観光スポットとして残っている。
羅聘は、落魄した徽州士大夫の家庭に生まれている。貧しい家庭であっても子弟の教育に力をいれる徽州の伝統が、その才能を育んだと言っても良いだろう。
羅聘の父親である羅愚溪は、康煕五十年の郷試(科挙の地方予備試験)で挙人となり、小さな役職についていたようだ。ちなみに羅聘の叔父は羅任は烏程県の県令になっているから、官吏を目指す士大夫階級に属する家庭に生まれたことになる。
揚州で売画生活を送っていた金農に羅聘が弟子入りしたいきさつは、有名なエピソードとして残っているが、これは多分に伝説的な話のようだ。
そもそも父親の羅愚溪は鄭板橋(1693-1765)と交遊があり、揚州博物館には羅愚溪の画に鄭板橋が題した画が残っているという。(この画が真作であれば)あるいは金農との結びつきも、鄭板橋と羅愚溪との交遊を契機にしたものであったかもしれない。徽州出身の多くの男子と同じく、羅愚溪も官吏を目指したものの、羅聘を含めて五人の子供を抱える家庭を養いきれず、揚州で売画の生活を送っていたのかもしれない。
ただし羅愚溪は羅聘が満一歳を迎える頃にはこの世を去っている。その後の羅家と鄭板橋との関係は未詳である。金農とはほぼ同世代で親しい友人であった鄭板橋は、当時すでに高名な詩人であった。
また羅聘は金農に「詩弟子」すなわち詩文を学ぶ弟子として入門しており、画を学ぶために入門したのではない。羅聘は金農の独特な画風を吸収し、金農の代作を多くつとめたと言われているが、士大夫にとっての中心的課題は詩文であり、画はあくまで余技である。
ちなみに”揚州八怪”というが、揚州で生まれ育ったのは羅聘と高翔(本籍は江蘇甘泉)だけであり、他は皆他郷の出身者である。羅聘の師の金農(1687-1763)も杭州の人であり、揚州には仮寓していたに過ぎない。羅聘が入門したのは乾隆二十二年(1757)、金農71歳のときだが、この際も金農が揚州西方寺に寓居していたときであった。その六年後の乾隆二十八年(1763)に金農は揚州で死去するが、身寄りのなかった金農の葬儀は有志が出資して費用を賄い、羅聘がこれを主催した。また金農の棺を守って、故郷の杭州臨平黄鶴山に葬っている。

実は今回、霊山村を再訪したかったのは、羅聘の扁額が残されているということを聞いたからである。あるいは父親を亡くしてしばらくの間、羅聘は呈坎鎮の親戚の下へ身を寄せていた時期があったのかもしれない。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘の妻の方婉儀(1732-1779)の祖籍は方于魯と同じ、西溪南近くの聯墅村である。同じ歙県ということで、羅聘と原籍が同じということになるのである。
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方于魯の出身地でもある「聯墅」あるいは「聯墅村」の位置が謎なのであるが、岩寺鎮に近接し「臨河」を挟んで「臨河村」の対岸にあるというから、おそらくこのアタリ(上地図中央部分)ではないかという見当がついている。(汪節庵の出身地である信行村のほぼ隣である)
方婉儀の祖父の方願瑛は、広東布政使および朝廷の監察御使の高位に上った官僚であり(ということは当然進士出身以上であろうが)、また「人譜類記」という著書を残している。
父親の方宝倹は国子学生にとどまったが、徽州士大夫の家庭の常として、娘の教育にも熱心であったようだ。方婉儀も、単に羅聘の妻としてではなく、自身も詩書画、とくに梅画の名手として名を残している。
羅聘と同じ徽州の士大夫の家庭の出身だが、格から言えば朝廷の高官を祖父に持つ方婉儀の方がかなり上である。にもかかわらず方婉儀が羅聘に嫁いだのは、非常な秀才であった羅聘の将来性……もちろん詩人や画人としてではなく官吏としてだが……に方婉儀の家族が期待したのではないだろうか。
ただし羅聘はその師金農に倣ったのか、ただの一度も試験を受けず布衣(無位無官)のままであった。羅聘の画名が徐々に上がるのは、金農の死後のことであるから、そのころまでの羅聘の生活は、方婉儀の実家の支援があったとも考えられる。
羅聘夫妻が生きた当時の揚州は、塩商で栄える徽州商人が、その最盛期から下り坂にさしかかった時代であった.....羅聘は方婉儀の勧めで画を揚州では売らず、もっぱら他郷にでかけて売画を行い、人士と交際したという。

徽州の女性は「10年連れ添っても一緒にいたのは1年だけ」といわれるほど、夫が官僚として中央や地方に赴任したり、あるいは交易の旅で家を空けることが多く、その留守を守るのが主婦の務めであった。
羅聘と方婉儀の25年の夫婦生活も、その大半は羅聘が京師や山西地方へでかけて留守であり、その間の家政の一切は方婉儀に任されていたのである。羅聘は後年、詩文と画においては朝鮮にまで達するほどの非常な名声を博するが、彼女の支援なくしては為しえなかったことであろう。
羅聘の子の允紹、允纉、また娘の芳淑に至るまで書画を能くし、特に母親譲りの梅画に優れていたことから「羅家梅派」と呼ばれたほどである。家庭内での方婉儀の子供への教育が、どのようなものであったかが伺える。
乾隆四十四年(1779)方婉儀は肺病を患うが、その年の五月には病床に伏せる妻を置いて羅聘は京師(北京)へ旅立った。方婉儀はその13日後に息を引き取る。旅先でそれを知った羅聘は、翌年まで帰郷することがかなわなかったという。
不思議なのは羅聘はこの際、友人であった大塩商の汪雪礓と江春(鶴亭)に、自分が帰郷するまで遺児の面倒を見て欲しい、他に頼る者とてないからと依頼している。妻の実家ないし、自分の親類縁者ではなく、友人に依頼するところが不自然なのである。
憶測に過ぎないが、一向にうだつのあがらない娘婿と、諌めるどころか一緒になって芸事にいそしむ娘には、方婉儀の実家も愛想が尽きていたのかもしれない。
余命幾許も無い病身の妻を置いて上京したことと、妻の訃報を聞いてすぐに帰郷しなかったことは、当時の倫理観としても大いに非難されるべきところなのである。あるいは「心を鬼に」しなければならない、のっぴきならない事情があったのかもしれない......大方は経済問題であろう。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘と同時代、蘇州の貧しい読書人家庭の生活を記した「浮生六記」でも、病身の妻を残して遠方へ借財を申し込みに行く主人公の姿が描かれている。生活費はもとより、借金の返済や利払いを求められているケースも考えられるのである。
徽州は土地が狭く、この地に生れ落ちた人々の多くは、官界や商業などを通じて他郷に生計を求めることを余儀なくされるのである。しかし清朝も中期を越えると既に官吏の道はあまりにも狭く、明代末期からの江南経済の膨張も、乾隆年間には飽和状態に達していた......揚州を舞台に富強を誇った徽州の塩商も、乾隆年間後期からその繁栄にかげりが見え始めるのである。揚州八怪の最後の一人の羅聘は、揚州を舞台に活躍した金農や鄭板橋、汪士慎等の先輩とは異なり、揚州の外に活路を求めなければならなかったのかもしれない。
揚州に進出した徽州商人の繁栄の上に興った“揚州八怪“とよばれる画人達であるが、その活動の幕引きもやはり徽州に縁の深い羅聘によって行われている。これも明代中期から清朝にかけての、徽州文化の江南への影響の終焉を、象徴する出来事であると言えるのかもしれない。
落款印01


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