曹寅「棟亭集」

ようやく、曹寅(そういん)の詩文集「棟亭集(とうていしゅう)」が入手できた。上海在住の朋友がインターネットを通じて捜索してくれたのだが、中国広しと言えども、欲しい本が簡単に見つかるかというと、必ずしもそうではないのが辛いところである。
人口が日本の10倍を軽く超える中国なのだから、本の発行部数も軒並み日本の10倍、というわけにはゆかない。「毛沢東語録」などという、例外中の例外は別として、10万部を超えればベストセラーの部類であるというから、日本と大差はないということになる。
曹寅「棟亭集」出版不況と言われつつも、いかに日本が本の出版が好きかということになろうか(読書が好きかどうかは別として)。くわえて中国では本は貸し借りで読む習慣が定着しており、さらに海賊版がすぐに出たりといった事情があり、出版された冊数以上に読者は多いと言われている。
ともあれ、人口に比して本の絶対数が少ない中国で、特に古書籍を入手するというのは言うほど容易ではない。この曹寅の「棟亭集」も、上海古籍書店から1978年に出版されたということになっているが、読みたいと思って探してもなかなか見つからなかったのである。
1978年といえば文化大革命終焉の前夜であるが、装丁は綺麗な線装本に仕立て上げられている。中国の出版界にあっては過酷な時代に、凝ったことをするものだなあ、と感心してしまう。
>棟亭集曹寅「棟亭集」
「銅陵市人民医院図書室」と押印してある。どうやら安徽省銅陵市の病院の図書室の蔵書になっていた本のようだ。なんで病院の図書室に「棟亭集」などという、清朝の詩文集があったのかは謎であるが、あるいは病院に勤めていた人の個人的関心に拠る蔵書であったかもしれない。
曹寅「棟亭集」しかし本の後ろにを見ると図書室の貸し出しカードとおぼしきものが付いている。日本の市民図書館(といっても一昔前の話で、最近はバーコードで管理しているかもしれないが)と同じようなカードを使っているのだなあ….と思うと同時に「待てよこの本、大丈夫な品だろうか?」と考えた。きちんとその図書館が蔵書を処分したものなのかどうか。一応カードには金額らしきメモがあるので、放出されたと考えるべきなのだろうけれど、それならそれで何かそのシルシがないものかと探してみたが見当たらない。安徽省の銅陵市人民医院は現在も存在するので、ちょっと問い合わせてみた方がいいかな、とも考えている。問い合わせたところで、状況を把握している人が存在するとはとても思えないのであるが。
最近は厳しくなったのかもしれないが、かつて中国の公立の図書館や博物館からは、整理によって蔵書や蔵品が市場に流れ出てくることがあった。あるいはこの本もその一部なのかもしれない。

数年前「巴爾扎克与小裁縫(バルザックと小裁縫)」邦題は「中国の小さなお針子」という文革中の中国を舞台にしたフランス映画があった。映画の中でとある町の産婦人科医が、農村に下放された青年(文革期、都会の青年達が農村に送られ、農作業などに従事した)の持っていたバルザックの原著と引き換えに、極秘で青年の恋人の堕胎を施術するという場面がある。
本といえば「毛沢東語録」しかなく、洋書などは持っていたら反動的知識分子としてつるし上げを食いかねない時代である。当時は迫害された知識人階級出身であろう医師が、いかに純粋に文学的内容の本に飢えていたかをよく描いている。銅陵市人民医院でも、あるいは似たような事情があったのかもしれない。貸し出しカードの記録では、1980年に一度だけ借りた人がいたようだ。おそらくはこの人が購入を申請したのではないだろうか。

まあ、曹寅(そういん)に関心を寄せる人というのもあまりいない思うので、小生のところにこの本が来たのも何かの縁であろう。しばらく借りるつもりで大事にしたい。何度か触れているが、曹寅は紅楼夢の作者(異説も多いが)の曹霑(そうてん:つまりは曹雪芹)のお祖父さんであり、紅楼夢にも曹寅をモデルにした人物が登場するという研究がある。そういう関係で紅楼夢研究が盛んな中国ではわりと知られている人物である。
曹寅「棟亭集」曹寅「棟亭集」
巻頭の序文に「在馬列主義」「毛沢東思想指引下」という、懐かしいフレーズが見られる。「馬列主義」とは「馬克思列寧主義(マルクス・レーニン主義)」の略であり、さらに「毛沢東思想の指導の下に」社会主義科学文化事業の一環として、この本は出版された云々とある。当時の文献や論文のいわば書き出しの決まり文句であり、また結びの一文にも同じフレーズが繰り返されたのである。“ブルジョア的反動知識分子“とレッテルを貼られ、糾弾されないための一種の”呪文“のような一文である。この一文が必ずしも免罪符代わりになるわけではなかったそうであるが、ともかくも往時の中国の文献、論文にはほぼかならずこのような文言が書き加えられていたのである。
この序文の最後には、曹寅という人物が、紅楼夢の作者の祖父であると述べている。これもあるいは一種の免罪符代わりかもしれないのであるが、なにしろ毛沢東は紅楼夢の大ファンであったからである。“プロレタリア文学”というにはあまりにも“ゴージャス”な紅楼夢の世界であるが、当時の毛沢東主席がそうおっしゃるのならそうなのである、というご時世であった。
この本の元になったのは、上海博物館に収蔵されている康煕年間の刻本であるという。曹寅は順治十五年(1658)に生まれ、康煕五十一年(1712)になくなっている。この「棟亭集」は曹寅の死後、その門人たちの手によって編纂され、刊行された本であるという。
曹寅「棟亭集」印影本であるから、中の刻字の書体もそのまま目にすることが出来るのがありがたい。おそらくは門人のうちの誰かが浄書したのを刻したのだろうと思われるが、完整な台閣体が美しく、筆書の手本に出来そうなくらいである。官界に生きた曹寅の交遊を考えれば、科挙試験に必須の素養である精緻な楷書体を能くする門人には事欠かなかったことであろう。

曹寅に関心を持ったのは、もちろん紅楼夢のためではなく、曹寅や曹雪芹の出身一族である北方曹家と、徽州の製墨家達とのかかわりにおいてである。
上の写真には「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」とあるが、程正路は清朝初期の名墨匠のひとりである。詩の詳しい解釈はまだ出来ていないが、詩の中に「画家遵北苑、墨法秘南唐」という対の句がある。また続けて「二者能兼得」とある。
「北苑」とはもちろん北宋時代の大家である董源(とうげん)であり、「南唐」はこの場合奚超(けいちょう)と奚廷珪、すなわち李廷珪を指す。「画家は北苑の画法を遵守し、製墨法は南唐の製法を秘法とする。」ということになろうか。それを「二者能兼得」というのだから、程正路は画作にも製墨にも優れていたという事になる。
程正路は号を恥夫、又は晶陽子といい、別号に雪斎がある。また彼の墨肆(墨店)は悟雪斎といった。歙県は槐塘の人である。康煕年間に非常な名声を博したというが、程正路の墨で現存するものは少ない。一説では、あの胡開文も程正路の店で墨工として働いていた時期があったという。曹寅自身も製墨に親しんだと言われているが、あるいはこの程正路との交際が関係しているのかもしれない。
実は程正路の履歴についてはまだ詳しいことがわかっていないのであるが、程姓の墨匠であるからといって明代の程君房の後裔と考えるのは早計であり、徽州に程姓は多い。ただ出身地域が「槐塘」ということは、やはり程君房や曹素功の出身地である巌寺鎮に近接する地域の出ということになる。
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多くの名墨匠が、この巌寺鎮を中心とした歙県城と休寧県城の中間に位置する地域から出ている。ひとつには「文人自怡」の製墨の伝統が、広く深く根付いていた地域であると伺われるのだが、往時のこの地域の経済力、また文化レベルの高さというのは、現存する明清の建築群からも十二分にうかがえるものである。
曹寅は程正路だけではなく、多くの徽州人士との交際があったようだ。文集の中には徽州出身とおぼしき姓名が散見される。
徽州人士と北方曹家との交流は、曹鼎望が徽州府知事をつとめたころに始まるだろう。また徽州人士だけではなく、明の宗室の後裔の名も、その中に見られるのである。そのひとりが「朱赤霞」という人物であり(明朝は朱姓)、朱赤霞の描いた「対牛弾琴図」という画に曹寅は題文を書いている。この朱赤霞はまた程正路の友人でもあった。

小生はひとつ誤解をしていたのだが、康煕六年(1667)に徽州知府を勤めた曹鼎望(そう・ていぼう)は、正しくは曹寅の“叔父”ではない。曹鼎望と曹寅の父親の曹璽は兄弟ではないのであり、“豐潤曹氏”の流れの曹鼎望と、同じく北方であっても“遼陽曹氏”の出の曹璽とでは、家系を別にしているそうだ。しかし曹寅は曹鼎望を“叔父”と呼び、曹鼎望の子の曹鈖(そう・ふん)を曹寅は“兄”と呼んで親しく交際していたことは事実である。
また曹鼎望が監修した「豐潤曹氏宗譜」では、曹璽の一族はももとは豐潤曹家と同族であり、あるときさらに北方の遼東に移住したことになっている。どうもこのあたり、有力な北方の曹姓の家同士が、積極的に結びつこうとしたフシが伺えるのである。曹鼎望はさらに、豐潤曹氏の家譜と徽州や江西省近辺の曹氏の家譜を統合し、南北の曹氏が同宗の一族であるという、やや荒唐無稽とも言える家譜を編纂している。
ともあれ曹璽と曹鼎望が、早くから満州族に投降し、宮廷で重用された漢族同士であることは確かである。康煕時代の初期に曹鼎望は徽州知府をつとめ、曹璽は江寧織造に任命され、曹璽のこの職は後に曹寅が継ぐことになる。「江寧織造」は表向きは宮廷・官吏用の絹織物の製造をつかさどる役職であったが、その実は南方の漢族の不平分子の監視・懐柔という任務があったのである。
曹寅が曹鼎望を「叔父」と呼ぶということは、曹璽と曹鼎望は「兄弟」と呼び合った関係ということになる。曹璽が漢族不平分子の懐柔を担う要職にあったとき、曹鼎望が徽州知事として赴任し、そこで「善政」と記されるほどの統治を行ったということは、逆に言えば“徽州“という地域の政治的な重要性を意味している。
異民族の征服王朝である満州族は、儒教イデオロギーからすれば本来は蔑まれるべき野蛮人なのである。曹鼎望の出身地である山東省はかつて孔子の故郷である魯の国であり、古来より儒教の聖地とされてきた。また徽州は明代における儒教の正統派である朱子学の学祖、朱熹の出身地であり、ここも儒教にとっての聖地であるとされるのである。また徽州からは朱熹にはじまり程颐や程颢など、多くの儒教理論家、教育家が輩出している。曹鼎望が徽州に赴任したのは、清朝初期に康熙帝が行った、漢族に対する思想統制や融和政策における腐心に理由が求められるだろう。また曹鼎望が徽州の名門校「紫陽書院」を修復し、息子をそこで学ばせたのも、そういった政治的意図と無関係とはいえないのである。
また康熙帝に少年時代から侍立していたのが、曹璽の息子の曹寅である。彼に「江寧織造」を継がせて引き続き南方士大夫の監視と懐柔にあたらせたのも、曹寅自身の素養の高さもさることながら、清朝による漢民族統治の完成が、一代や二代で仕上げられるものではないことを見越していたからかもしれない。
曹鼎望やその息子の曹鈖、あるいは曹寅が、徽州士大夫独特の文化である「文人自怡」の製墨に親しんだという事実が、彼等の徽州士大夫との交際の深さを物語っている。徽州という地域性に無関係な士大夫同士の交流であれば、詩文や書画を通じた交際で足りるのであり、曹鼎望にしても曹寅にしても、その方面の素養に事欠くことはなかったはずである。士大夫自ら製墨に手を染めるという所作が、徽州独自の文化であり、その文化的意味の重さを見抜いたからこそ、曹鼎望以下の北方曹氏と徽州製墨との積極的なかかわりがあったのではないか。
また徽州においてすぐれた製墨家を輩出した地域が、同時に徽州の中でも特に経済・文化水準が高い地域であったということも、偶然とはいえない。また康熙帝に特に「紫玉光」と称揚され、清朝初期を代表する製墨家となったのが、何故”曹”素功であったのかも、そこに手がかりがあるのではないかと考えている。
またこの徽州士大夫との交際の輪の中に、先にあげた朱赤霞や、石濤のような明王朝の宗室の者たちが含まれてゆくのである。少しさかのぼれば明代末期の汪道昆や方于魯といった徽州人士と、朱多炡など明の皇室の連枝との交際も想起しなければならない。

いち早く満州族に投降した北方漢民族による、南方漢民族の監視・懐柔という図式で捉えると、いかにも謀略めいた行いであるかのようにうけとられるかもしれない。しかしそもそも融和政策というものは、相手に対する誠心誠意抜きにして実現しえるものではないのである。曹鼎望をはじめとする北方曹家の者たちが、そろいも揃って権謀術数主義な性格の持ち主であった考えるのは、皮相に過ぎる見方である。
曹鼎望や曹寅が、単に政治的な意図をもって徽州の士大夫と交際し、また製墨に取り組んだかというと、決してそうではないだろう。彼等はこころから徽州の文化・風土を愛し、この土地の人士と親しく交際したことだろう。
「棟亭集」に収録された詩文の中には、まさにそういった曹寅と徽州士大夫との交流の軌跡が残されているのである。
落款印01


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