西門慶の邸宅? 〜西溪南「果園」?

所用が重なったとはいえ、3日も更新を開けるものではないと反省している。以下の写真は、昨年9月に訪れた、西溪南に残る庭園のひとつ「果園」の入り口である。この「果園」はまだ紹介していなかった。
西溪南「果園」金瓶梅の著者として序文に名のある“蘭陵笑笑生(らんりょう・しょうしょうせい)”が誰か?というのは、中国の文学史上のひとつの謎である。“笑笑生”という、いかにも人を食ったような名は明らかにペンネームであるが、金瓶梅の序文をその友人の“欣欣子(きんきんし)“という人物に書かせている。この欣欣子ももちろん誰かのペンネームであろう。あるいは欣欣子と笑笑生が同一人物であるという指摘もある。ともあれこの”笑笑生“が誰か?については諸説紛々20人前後の候補があって定説を見ない。比較的広範に支持されているのが王世貞であるが、諸説にもそれぞれ説得力はあり、同時に決定打にも欠いているようだ。
沈徳符(ちん・とくふ)の「萬暦野獲編(ばんれきやかくへん)」にはその作者は“嘉靖年間大名士”とある。ともあれ作者が誰であろうと、相当な文学的力量を持った当時の文壇の名士には違いなく、当初は士大夫同士の交流の中で写本の形で流行したと推察されている。
舞台が山東省であることと、山東方言が多用されていることから、作者は山東省出身者であるという説がある。しかし当時の士大夫達の交際範囲の広さを考えると、他郷の出身者であっても、山東方言を知らないわけではなかっただろう。文壇の名士ともなれば、北京へ赴くことも一度や二度ではなく、北京に程近い山東省出身者と接触しないほうが不自然である。また、“山東方言“というが、明代後期における山東方言がどのようなものであったかも、あまりよくわかっていない。現に江蘇省の方言もかなり入っているという指摘もあり、そうなると使われている方言に基づく作者の出身地の類推というのは当てにはならないかもしれない。
東京出身者が多少不自然にせよ、関西弁で文章を書けないと言う道理は無いのである。まして、文事に生きた当時の“大名士”が、その程度の筆力が無いと考えてはいけないだろうし、方言の監修者の意見を仰がなかったと断定する理由もないのである。また、ある地方の風俗が描かれていたとしても、作者が地方官吏として一地方に赴任し、数年を過ごさなかったという可能性も否定できないのである。
どうも、嘉靖年間中に写本の形で流通していた金瓶梅の作者を、これを読んでいた士大夫達の何人かは知っていたようなフシがある。それでもあえて作者が誰か?ということを書き残した記録がないというのは、あるいはそこには相当に深刻な社会風刺や朝政への批判が込められているからかもしれない。
清朝初中期と同様、明代も思想・言論統制が厳しい時代であった。特に金瓶梅が書かれたとされる嘉靖年間は、嘉靖帝による士大夫への弾圧が厳しく、多くの士大夫が宮廷で刑殺の憂き目にあっている。
王世貞の父親も宮廷で厳嵩(げんすう)の讒言によって刑死しており、ために王世貞は官界から去って以後在野で文事に生きた。金瓶梅は王世貞によって厳嵩と息子の厳世蕃を批判して書かれたとされ、また金瓶梅の主人公の西門慶は厳世蕃であるという説がある。
また徐渭が作者という説もあり、その場合は西門慶のモデルは羅龍文こと羅小華であるという。また現在のところ支持者は少ないものの、汪道昆こそが“笑笑生“という説もある。西門慶は当時の西溪南呉氏の大塩商、呉天行だというのである。その呉天行が造った屋敷が西溪南に残る”果園“である。汪道昆が金瓶梅の作者だとする説では、金瓶梅の物語世界の舞台がこの”果園“であるということになっている。
汪道昆は、倭寇討伐で功績をあげた武将のひとりであるが、弾劾によって宮廷を去り、徽州の郷里で詩社や禅社を結成し、詩人・文筆家・劇作家として生きた。当時王世貞と“南北両司馬”と併称され、王世貞にも高く評価されている。劇作家として豊かな力量を有していた汪道昆であれば、口語体小説である金瓶梅の執筆も考えられないことではない。
金瓶梅は「水滸伝(すいこでん)」に登場する西門慶が、武松による兄の復讐を免れた形で進行する。いうなれば「もし西門慶が武松に殺されなかったら…?」というもしもの世界の物語であり、水滸伝のパロディとも言えなくは無い。
「水滸伝」は元末から明初に生きた杭州銭塘の出身の施耐庵(し・たいあん)が、「西遊記」や「三国志演義」と同様に、民間伝承や講話、大衆芝居のシナリオの中に断片的に描かれていた場面を編纂整理し、「忠義水滸伝」として完成したとされる。「三国志演義」の作者とされる羅貫中(ら・かんちゅう)は施耐庵の弟子であり、「忠義水滸伝」の校正も羅貫中が行ったという。しかしこの施耐庵という人物は、実在が疑われている人物でもあり、羅貫中こそが作者であるという説もある。
明の嘉靖(かせい)十九年(1540)に高儒(こう・じゅ)が著した「百川書志」には「忠義水滸伝100卷。銭塘施耐庵的本。羅貫中編次。」とあるのだが、施耐庵が実在したとしても、あるいは後世のまったく別の人物が施耐庵の名をつかって書いた可能性もあるのだ。
水滸伝では徹底的に腐敗した朝廷・官界が描かれており、また無頼の徒を英雄好漢として持ち上げている。その無頼の徒が梁山泊に結集し、北方異民族との国境紛争や内乱討伐に活躍することになるのである。首領の宋江は大きな功績を立てたものの、しかし宋江も最後は腐敗した朝廷の高官に無実の罪に陥れられ、毒杯を仰ぐことになる。明代中後期にあっても、北方で伸張する女真族との紛争に活躍しながら、やはり宮廷で弾劾されて罪に落とされた士大夫出身の武将は多かった。
彼等の多くは私兵や義勇軍を率いて戦っており、腐敗した官軍以上に活躍している。どことなく水滸伝後期のストーリーと重なるところがある。そう考えると、水滸伝はかなりきわどい時世批判になっており、著者が自分の名を隠す理由も充分考えられるのである。
「小説くらいで目くじらたてることないじゃない?」というのは現代の、それも日本人の感覚であって、その「小説くらい」が今でも時折発禁処分になっているという現実を、考え合わせる必要がある。
現代中国でも言論・表現の自由の幅は常に大きな問題であるが、王朝時代にあっては、現代の中国とすら比較にならないほど厳しい言論統制がしかれてきた。「言論統制」というが、「焚書坑儒」の始皇帝以来、本質的に言論に自由などなかったと言ってもいいかもしれない。
異民族王朝である元を倒して成立したのが明王朝である。明王朝では、北宋の宮廷のように高い素養を持った士大夫達が派閥を組んで対立した結果、朝廷の統制が取れなくなり、北方の金に征服を許したという考えがあった。そのため、宮廷における士大夫の発言は厳しく制限されていたのである。
特に嘉靖帝の士大夫達への弾圧は厳しく、多くの士大夫が朝廷で諫言を行った末に“廷杖”、つまりは杖で打たれて殺されている。嘉靖三年(1524)には実に楊慎以下220人の士大夫が諫言を行い、そのうち134人が投獄され、このとき十七人が“杖死”している。先代の正徳帝も十五人もの大臣を一度に“杖死”させているが、それを上回る苛烈さである。明朝の宮廷政治の専制色の強さもさることながら、明代の士大夫達の剛毅な性格も物語っている。
現代から考えれば実に厳しい思想・言論の統制にも思えるが、当時としてはそれが「当たり前」であったのだろう。そういった社会環境にあって発達してきた中国の文学世界では、直接ものごとや政局を批判した文章を書くことは長らく禁忌であった。
寓意や諷喩、暗喩をたくみに織り交ぜながら時局を風刺した文章は、現代人にとっては実に難解な文章であっても、同時代の同じような素養をもった士大夫の間では、明解に意図するところが伝わっただろう。

北宋の蘇軾ですら、詩文の暗喩するところが朝廷や皇帝への批判であり、不敬の咎で投獄され、あわや刑死という目にあっている。それでもかろうじて「喩え」をもちいていれば「そんな意図はございません。」と言いぬけることも出来なくは無い。蘇軾の生きた北宋は、新法派と旧法派が激しい派閥争いを繰り広げており、詩文の才能と批判精神に富んだ蘇軾が、詩文に仮託して朝政を批判したのは明らかなのである。

「水滸伝」は現代の日本人が読んですら、宮廷や官僚、官軍の腐敗した様と、いささか粗暴であるが英雄好漢達の活躍との鮮やかな対比が印象に残るのである。そういう意味では、水滸伝で描かれている社会や人物達の発言は、かなり直截的な政局批判になっているのである。よって、作者がわからないようにペンネームや、古い時代の文学者の名をかりて著された可能性も否定できない。
この水滸伝のテキストは、正徳、嘉靖年間に数回分の残片が見えるが、まとまった形で現存しているもっとも古いテキストは、萬暦十七年(1589)に刊行された「忠義水滸伝」一百巻一百回である。巻首に“天都外臣”と署名された序文があり、“天都外臣本”と呼ばれるものである。ただし原刊は残っておらず、現存しているのは康煕年間に復刊されたものである。
明代の方于魯や汪道昆、あるいは方用彬を中心とした交際を追ってゆくと、明代の徽州の士大夫の間では、とりわけ任侠的な性格が喜ばれた雰囲気がある。

.......「任侠」や「義侠」を尊ぶのは徽州に限らないかもしれない。また時代は明代に限らないかもしれない。現代に於いてすらも中国の朋友との交際の中で、時に「侠」の精神を感じることがなくもない。「任侠」というとまったくヤクザな話のようであるが、簡単に言えば究極の利他主義と言えるだろう。日本人から見れば利己的で自己中心的と考えられがちな中国の人の行動であるが、時折徹底して利他的な行為に出ることもある。矛盾しているようでいて、ヒトの性格やモノゴトというのは、ハナから矛盾をはらんで成立している、というのが根底にある。白黒つけたがる、是々非々を求めたがる日本人からみれば、なんとも正体がつかめないところもあるかもしれないが、それこそ「なんでも日本式に考えてはいけないのである。」......

話がそれたが、汪道昆が「天都外臣序」を書いた水滸伝「天都外臣本」が嘉靖年間に実在したとすれば、徽州で出版された本であろう。もとより出版が盛んであり、「程氏墨苑」や「方氏墨譜」にみられるように、当時の中国で最高の出版技術を持っていた徽州にあって、汪道昆が他郷で本を出版したとはちょっと考えられないのである。徽州で出版したという事は、まずは徽州の人々の間で読まれたであろうし、読まれることを見越して出版したのであろう。
王世貞が徽州の風俗を評して「徽俗十三在邑,十七在天下」と言っている。「十三」と「十七」は年齢のことではなく「十のうち三」つまり30%と「十のうち七」すなわち70%のことである。徽州の人士のうちの実に七割は、他郷で交易に従事していた事実を言っている。徽州の男子に生まれれば、官吏になるにせよ交易商になるにせよ、多かれ少なかれ旅に日を送る生活をすることになる。水滸伝の英雄達はしばし旅をしながら天下を横行し、ひろく豪傑達と交際しながら次第に勢力を増やしてゆくのだが、あるいはそういった旅と交際を積み重ねながら生きてゆく気分というものが、徽州の人士の共感を呼んだのかもしれない。
三国志演義と比べると、水滸伝は当時の知識人達にとっては文学としての評価があまり高くなく、それほど支持されなかったという説もある。しかし金瓶梅も当初は士大夫の間で写本として流行したと考えられるから、物語の入り口となった水滸伝に関しても、やはり相当に浸透していたのではないかと察せられるのである。
「水滸伝」が表向きは旅と豪傑同士の交遊がテーマであるとすれば、金瓶梅は対照的に家庭内での生活が主題になるといえるだろうか。汪道昆が金瓶梅の作者なのだとすれば、この金瓶梅で描かれている家庭生活のモデルとなったのが、西溪南の徽州商人である呉天行の家庭生活であるというのだ。とすれば、儒教道徳にやかましかった徽州であるが、家庭の中には随分と頽廃と悪徳がはびこっていた、ということなのだろうか。いや、あえて不品行な主人公の家庭を描くことによって、逆説的に倫理観を示したかったという見方も出来るのだが。
その呉天行の屋敷である「果園」が今尚存在しているのである。実は汪道昆の屋敷の跡である「釣雪園」から程近い距離にある。汪道昆が呉天行をモデルに金瓶梅を書いたとすれば、ずいぶんと近所の家庭事情を描いたものである。
ちなみに王世貞も、多士済々百人前後の江蘇の人士を率いて徽州を訪れている。その際は徽州側では汪道昆が主人となって接待したのであるが、江蘇の士大夫と徽州士大夫の交流は活発であったようだ。方用彬の手紙の中に、王世貞の名も見られるのである。よって「徽俗十三在邑,十七在天下」という王世貞の評は、実際に徽州を訪問しての評である。

前置きはこれくらいにして、次回は「果園」の内部を紹介したい。
落款印01


calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM