「黛玉」の意味について

「黛玉(たいぎょく)」という名称の意味については諸説あるが、小生の文字通りの憶断を述べたい。「黛玉」の「黛(まゆずみ)」であるが、今風に言えばアイ・シャドウということになる。またこの「黛」という文字には、青黒い顔料という意味がある。「まゆずみ」すなわち「眉墨」は、実際に固形の墨を硯で磨って眉に塗っていたという。「眉墨」を磨るための小さな硯を「黛硯(たいけん)」と言い、時折袖珍硯(しゅうちんけん:袖にいれて持ち歩き、常時愛玩できるような小さな硯)として過眼することがある。
「眉墨」に使われていた「墨」というものが、果たして「眉墨」専用に作られた墨であったのか、あるいは筆書に用いられる墨を兼用していたのかは定かではない。しかし下等な眉墨は鍋釜の煤を用いていたというから、油烟や松烟を使い、さらに香料まで混ぜた墨をもし使えばよほど上等であったかもしれない。また古くから精良な墨を「玉璧」に喩(たと)えた文は多く見られるのであり、そう考えると「黛玉」は墨そのものを喩えたと言ってもよさそうだ。
父の勧めで栄国邸に越してきた黛玉が、宝玉と初めて出会ったとき、宝玉は彼女に雅号を勝手につけようとする。架空の書物を引いて「西方有石名黛,可代画眉之墨:西方に石あり名を黛という。眉を画く墨の代わりになる」と言い放つのである。所詮は宝玉の即興のでたらめであるが、紅楼夢の中での“黛玉“という名の意図するところは黒い玉石であり、やはり墨を暗示しているのではないか?という想像(妄想?)が働くのである。
実は“墨“以外にも、黛玉が”筆“を象徴しているのではないかと思わせる部分がある。
大観園に移り住んだ宝玉達が詩社を結成した際、黛玉につけられた雅号は「瀟湘妃子(しょうしょう・きし)」であった。これは賈宝玉の腹違いの姉の探春がつけた雅号である。黛玉が住んでいるのが青竹の茂る「瀟湘館」であるということからでもあるが、林黛玉がいつも泣いてばかりいるということとも関係している。
そもそも「瀟湘妃子」という語の由来であるが、太古の聖天子である舜帝は、南巡(なんじゅん:南方の視察)した際に蒼梧(そうご)で崩御した。堯帝の二人の娘であり舜帝の妃であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)の姉妹は湘水(しょうすい)のほとりで舜帝の死を泣きに泣く。二人の流した涙が河畔の竹の上に降り注いで斑点となり、これがすなわち斑(まだら)模様のついた竹、斑竹(はんちく)になったという。故に現在でも斑竹を「湘妃竹(しょうきちく)」ともいう。「斑竹」は竹の品種ではなく、河畔で水に浸かった竹に特殊な菌類が付着して斑点が出来るのである。よって水辺で取れる竹の一部が斑竹になるのであり、山林の竹にはあまり出来るものではない。現在の中国では湖南省や福建省が主な産地である。
湘水は瀟水(しょうすい)とともに湖南省を流れるふたつの河川であり、洞庭湖に注いでいる。「瀟湘(しょうしょう)」というと、これら二つの河川の流域一帯を指す言葉であり、現在の湖南省一帯がそう呼ばれる。
すなわち「瀟湘妃子」は湘水のほとりで涙を流す二人の女性を意味するが、より直接的には斑(まだら)模様の付いた竹、すなわち斑竹のことである。古来より斑竹はその紋様の美しさを愛でて、筆管に用いられてきた。とすれば黛玉の雅号は“筆”を暗示しているとも考えられ、それは“黛玉”という名の意味するところの墨とも綺麗に対になる。名や字(あざな)と雅号を対にするというのは、よくある発想なのである。名と雅号を墨と筆とで対にすることで、大観園きっての詩文の名手である黛玉の文才を現しているかのようである。
林黛玉の父親の林如海は、50歳近くになってからであるが、なんと科挙に“探花”で合格したほどの人物である。つまり黛玉は、歴代役人を輩出してきた学問の家柄の出身なのである。その林如海の妻の賈敏(か・びん)は賈政の妹であり、林黛玉は賈宝玉の従妹なのである。しかし母親の賈敏は、黛玉が幼い頃にこの世を去る。林黛玉の兄弟姉妹は皆夭折し、林如海のただひとりの子が黛玉ということなのである。林如海もこの一人娘を溺愛していたが、そこはやはり跡を継ぐべき男の子がいないのを残念に思い、彼女に男子顔負けの教育を受けさせたのである。
林如海は“探花”に及第した翌年に、揚州の巡塩御史という要職に任命されている。ちょうどその頃に林黛玉の家庭教師として依頼されたのが、賈宝玉と縁続きの賈雨村という人物なのであるが、彼も進士及第の才人であった。栄国邸・寧国邸と同じ賈姓であるが、直接の血縁姻戚関係には無い。この人並み以上に才気はあるが、やや俗物的な性格も併せ持つ賈雨村という人物は、紅楼夢のストーリーの中ではしばしば現れて重要な役割を果たすのである。
当時は地方官であった賈雨村が、私腹を肥やしたために弾劾されて免職になっていたという事情もあるが、娘の家庭教師にわざわざ進士及第者をつけるあたりは、林如海の娘の教育への力の入れようは尋常ではない。黛玉は虚弱なため賈雨村の授業も滞りがちであったものの、進士及第者の弟子には違いないのである。黛玉自身の素質ももとより、そうした環境に育った黛玉からすれば、宝玉等の詩文など高の知れたものであったに違いない。
ところで揚州で巡塩御史をつとめた林如海は、当然のことながら徽州出身の塩商との交際があったであろう。巡塩御史は皇帝から直接派遣された、塩の流通の監督官である。また康煕年間の当時、揚州で塩業を牛耳っていたのが徽州商人達である。彼等からすれば目下の塩業に深くかかわるだけではなく、“探花”及第者であり、将来の出世も約束されたような林如海という人物は、なんとしてでも深く交際しておきたい相手である。単なる“進士及第”でも尋常なことではないが、首席から数えて三番目の“探花”ともなれば、下手をしなければ地方官どまりという事は無く、将来は宮廷の高官に出世することは間違いないところである。
娘に進士及第者を家庭教師につけるほど学問好きの林如海であれば、揚州の徽州商人達からは精良な徽州の文房四寶が送られたことであろうし、一人娘の林黛玉としては、それらをふんだんに手に取り、使うことが出来る立場であっただろう。
やがて林黛玉は賈雨村に連れられて、宝玉のいる栄国邸に引き取られる。賈雨村は同時に復職のつてを得るために、林如海の紹介を得て栄国邸を訪問するのが目的であった。この経緯については賈政の母親、つまりは宝玉や黛玉の祖母だが、死んだ末娘の忘れ形見である林黛玉を手元におきたがっていた、ということになっている。この宝玉の祖母の史太君は栄国邸の最高実力者でもあるが、孫娘を引き取るために再三使いを立て、また迎えの使者まで寄越しているのである。林如海としても可愛い娘を手放すに忍びなかったところであるが、当時の女性としての躾というのは、女親がいない家庭ではなかなか難しいという事情もあり、娘を母方の実家に預けることにするのである。
実のところを言えば栄国邸の方でも、林如海といういずれ宮廷の高官になるであろう人物との、縁を深める狙いがあっただろう。しかしこの林如海も病に倒れて揚州で病没するのである。この父親の死こそが、黛玉のその後の悲劇を決定付けたと言って良いだろう。
林如海が病に倒れたとき、黛玉は父親を看病するために一時揚州へ戻るのである。そして林如海が死去すると、葬儀のためにさらに揚州へとどまる。また林如海と黛玉父娘の原籍は姑蘇、すなわち蘇州であり、当時の葬儀の習慣として林如海の亡骸は原籍地に葬らねばならない。黛玉は栄国邸の支援も受けながら、無事葬儀を執り行って、栄国邸へ戻ってくる(このときはまだ大観園に移り住んではいない)。
もちろん黛玉は従姉妹たちにお土産を用意しているのだが、それは紙や筆であると描写されている。また多くの書籍を持ち帰り、自分の部屋に置くのである。この当時の普通の女子であれば、蘇州や揚州から帰ったのであれば、紅白粉や香、あるいは小物の類をお土産にしただろう。それが当時10歳に満たない黛玉の持ち帰った物というのが、本や文房四寶なのである。まるっきり科挙を目指す若い書生のようで、やはり当時としては並の女の子ではないものを感じるところだ。
後に黛玉が移り住む「瀟湘館」は、大観園のうちでも賈宝玉が「宝鼎茶閑烟尚緑,幽窗棋罷指犹凉」という對聯を作った場所にある。江南の邸宅風につくられた館であるから、江南出身の林黛玉が住むには相応しいというわけである。しかし對聯には隠棲した士大夫の生活がうたわれており、どう考えても若い女性の居室というよりは、老成した読書人の男性が隠遁生活を送るような雰囲気であろう。そこに黛玉が住むというのは、やはり彼女の文学的素養の高さや嗜好、育ってきた環境を暗示しているのかもしれない。
また大観園の姉妹従妹達が宝玉の宿題の代作をしてあげたときも、黛玉だけは精良な“油拳紙”に蝿の頭ほどの小楷を書いて云々と描写されている。黛玉の筆書の技量もさることながら、文房四寶にも相当に精通していたことが伺えるのである。
林如海が娘に「黛玉」と命名したのも、どうも紅白粉の類である「眉墨」という意味のほかに、精良な墨の意味をかけて彼女の学問の成就を望んだように感ぜられるのである。
また薛宝釵の兄の薛蟠が江南への行商から帰還し、その土産を分ける場面がある。宝釵は自分が貰った土産もみんな分けてしまうのであるが、気配りの行き届いた宝釵であるから、送る相手が喜びそうなものをきちんと分けて送る。本文では「一分一分配合妥当,也有送筆墨紙硯的…」とあるのだが、この「筆墨紙硯」を送られたのはほかならぬ林黛玉であろうと推察していた。あるいは探春もそのひとりかもしれないが、ともかく薛宝釵から送られた「江南の文物」を見て、林黛玉は身内のいない境遇を嘆いて涙に暮れるのである。彼女に「身内」を想起させるような江南の文物といえば、やはり揚州で目にしていたような精良な徽州の墨や硯だったのではあるまいかと思うのである。

しかし中国の王朝時代にあっては、女性が学問をしたところで科挙に応じて官吏になれるわけではない。紅楼夢の中でも、宝玉やその姉妹従妹達は詩社を作って詩文の腕を競うが「女子の詩は人様に見せるものではない」とはっきり述べられている。男性であれば、人士と交際するためにある程度の詩文の才は必須の素養であった。しかし女性の場合は、自作の詩文を家庭の外の人に見られることを極度に避けるのであった。人口に膾炙するほどの女子の詩文といえば、大抵の場合は妓女の作に限られるのである。
一般に考えられているように、中国の封建社会にあっては「文」は男性の占有物であり、女性にとっては嗜み以上のものではなかったのは事実としても、何故か紅楼夢には男性である宝玉を圧倒するほど詩文に長けた少女達が数多く登場する。
その原因というのは、実は物語の中にも述べられているのであるが、康熙帝の文治政策が深く影響していると考えられるのである。紅楼夢は舞台となった場所や時代を特定していないのが建前であるが、背景となった時代はいうまでもなく清朝の康熙帝の御世である。
康熙帝は当時、漢族の女子の中から品性・学問に優れた者を選んで女官とし、宮中で皇族の女性の勉強相手としたのである。中国の歴代王朝においても、臣下の娘が宮廷に奉公にあがるというのは常々行われてきたことである。しかし康熙帝が満州族の女性に漢民族の文化や習慣を学ばせようとしたのは、明確に政策的な働きかけであり、影響もまた大きかったのではないだろうか。
詩文においては黛玉の好敵手とも言うべき薛宝釵(せつ・ほうさ)であるが、彼女も父親が溺愛のあまり男子並の教育を受けさせたとされる。しかし彼女とその家族が栄国邸で住むようになったのも、兄の薛蟠(せつばん)の思いつきで宝釵を宮中の女官に押し上げようと画策し、上京したのがきっかけなのであった。
とはいえ、宝玉の兄嫁の李(りがん)のように、やはり「女子は才が無い方のが“徳”である」という両親の考え方で、多少の読み書き以上の教育は受けなかった女性もいる。やはりこちらの方が一般的な考え方であったのかもしれない。しかし康熙帝による、積極的に漢族の女性を宮廷に入れようとする姿勢は、ある程度の経済的余裕のある階層の女子への教育を重視させる効果があっただろう。もちろん、より経済的に恵まれない士大夫達も、そういった有力な貴族の邸宅へ娘を奉公させようと考え、女子に教育を施すということが行われたことだろう。
国も時代も異なるが、清少納言や紫式部が活躍した平安時代の、日本の貴族社会の状況を想起すればあるいは理解しやすいかもしれない。当時もやはり貴顕の家の子女の家庭教師ないし勉強相手として、文学的素養に優れた女性が必要とされた背景があり、下級貴族の家でも、権門に取り入るために女子の教育が盛んになった背景がある。
そういう意味では、林黛玉や薛宝釵のような存在は、やはり康熙帝が生涯をかけて実施した重商政策ならぬ“重文政策”が生み出した少女達であったと言えるかもしれない。紅楼夢に出てくる詩文の数々は曹雪芹の創作であるにせよ、そうした詩文の才に恵まれた女の子達が、やはり実在したと想像するには難くないのである。
賈政に命じられ、對聯や題を次々と作り上げた賈宝玉であったが、このときの彼の年齢は若干12歳である。詩文に関しては神童といっても良い宝玉であったが、そもそも彼が文字や詩文の学習を始めたのは3歳から4歳のころなのである。そのとき手を取って教えたのが実姉の元春であり、彼女の手ほどきでもって、何冊かの本と数千字の文字を覚えこんだと書かれている。この元春は時の皇帝に嫁いで妃となるのであるが、大観園に帰省した際に発揮されたように、やはり文学的素養に優れた女性なのであった。
清朝における女性詩人の活躍というのは、他の歴代王朝に類を見ないものである。康煕年間に顧之瓊(こ・しけい)が創建した「蕉園詩社」には、顧姒(こ・じ)、紫静儀(し・せいぎ)、朱柔則(しゅ・じゅうそく)、林以寧(りん・いねい)、銭雲儀(せん・うんぎ)という“蕉園五子”と呼ばれた女性詩人が名を連ねている。また随園こと袁枚(えんばい)には多数の詩の女弟子がおり「随園女弟子詩選」が残っている。また袁枚と同時代の陳文述(ちんぶんじゅつ)にも多数の女弟子がおり、「碧需仙館女弟子詩」がある。揚州八怪のひとり羅聘の妻の方婉儀も、これも優れた詩人であった。
こういった女性の詩人の活躍は、明代末期にその端緒を求めることが出来るのであるが、清朝初中期でのその隆盛は、康熙帝のおこなった文化政策の影響と無縁とはいえないだろう。
その康熙帝の文化政策に大きな影響を与えたのは、製墨をはじめとする徽州文化と深い関係を持つにいたった豐潤曹氏であり、とりわけ康熙帝の側近中の側近であった曹寅(そういん)なのではないかと考えている。康煕年間における、曹家をモデルに書かれたのが紅楼夢である。物語で描かれている家庭には、しっかりとした教育を受け詩才にすぐれた少女達があつまっているのも、事実に基づいた話なのではないだろうか。特にそのヒロインである黛玉はとりわけ文房四寶を愛好し、まさに天才的な詩人として描かれている。その名や雅号にもやはり墨や筆が象徴されているというのは、あながちでもなかろうと考えているのであるが、いかがであろうか。
落款印01


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