揚州羅聘故居

資料整理などの必要があり、少し間が空いてしまいました。

揚州では“羅聘故居“を訪ねた。揚州には何度も足を運んでいるが、羅聘の家はこれが初めてである。10年以上前、揚州を初めて訪問した際にも揚州八怪記念館を訪ねた。しかし羅聘の家は見ないままであった。揚州八怪記念館同様、書画の展示が期待できなかったからでもあるが、明代の遺構をもつ西方寺と違い、大半が近代に改装された建物であると聞いたからでもある。
揚州羅聘故居揚州羅聘故居
揚州市内に残る羅聘の家は、金農が仮寓した西方寺に程近い場所にある。現在でも、早足で歩けば十数分で行けるだろう。この家から西へ200mの距離に汪士慎の家があり、また西に200mほどゆくと高翔の家があったという。また鄭板橋の仮寓先とも近かったという。
昼過ぎに訪れたところ、午前中の開館時間は過ぎており、午後2時まで待たなければならないということであった。
揚州羅聘故居訪問しておいて言うのもなんであるが、現在のこの羅聘の家というのは観るべきものがあまりない。いや、民国風のアンティーク家具に興味がある方であれば楽しめるかもしれない。家屋は民国時代に再建された建物が基礎になっており、相当に立派な家具も置かれている。もちろん昔のものではない。それでも羅聘の家の敷地は、隣接する区画との間で若干の移動があったと考えられるが、ほぼ昔のままであるという。
見学した内容に基づいて何か書こうと考えても、とりたたて言うべきところは無いのであるが、ともかく羅聘の家を中心にした、当時の人々の交流や関係について漫然と考えてみた。
揚州羅聘故居何度か訪れている呈坎にも羅聘の家がある。正確には羅聘の父親が育った家、あるいは祖父の家ということになるだろうか。奇しくも明代の名墨匠、羅小華の家の近くである。呈坎羅氏宗族の中にあっても、名門一族であったことをうかがわせる。
父親の羅愚溪は康煕五十年の挙人であり、羅聘が生まれたころは揚州で小さな役職についていたようだ。しかしこの羅愚溪が応じたのは武官向けの試験であった“武挙”であるという説がある。科挙といえど武官向けの試験となると、挙人といってもその資格の値打ちはかなり低い。小さな役職を得るのが精一杯であろう。逆に文官の挙人であれば、康煕年間当時ならうまくすれば県知事くらいには任命されることがあり、役職の名前も伝わっていないというのはやや不自然なのである。
ちなみに徽州は古来から武芸も盛んな土地であり、有名な“八卦拳“は徽州が発祥という説がある。北方から戦乱をさけて移住してきた人々としては、武装と自衛の必要性が念頭にあったということだ。徽州の市鎮のことごとくが、要害の地に築かれていることからも伺える。明代には胡宗憲汪道昆といった名将を輩出しており、墨匠を見渡しても、水泳に長けた羅小華や、馬術を好んだ方于魯、あるいは拳法と剣術に凝って戦功を挙げた程正路のように、文武に秀でた人物は多い。官吏となれば兵を率いる必要性もあったであろうし、他郷へ交易の旅に出るとなれば、自衛の必要もあったであろう。教育熱心で、徽州の大半の子弟が科挙に応じるといっても、机に縛り付けて受験勉強だけさせていたということではなさそうである。徽州商人のビジネスといっても、現代のようにデスクワークで完結できるわけがなく、交易の旅に際しては相当に基礎体力が求められたことだろう。
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それはさておき、郷里を出た羅愚溪であるが、実家である呈坎の羅家と、まったく交渉がなかったと考えることは出来ないだろう。また羅愚溪亡き後、羅聘の成人までは、呈坎の父親の実家の支援がかなりあったはずである。おそらく度々呈坎を訪れ、ある程度の期間滞在したことも複数回に及んだであろう。霊金山の霊山村には羅聘の對聯が残っていた、ということが霊山村の方建青氏の調査でわかっている。
現在はそれほどでもないが、当時の徽州の士大夫にとっては、原籍地は重要な意味を持っている。他郷であっても死ねば棺は原籍の村に運ばれ、そこで正式に葬儀が行われるのである。羅愚溪も、おそらくは郷里に葬られたことだろう。その際に羅氏であれば羅氏宗族の祖先を祭る廟、宗廟が重要な役割を果たすのである。これは日本の氏神様に、あるいは近い存在といえるだろう。また祭祀においては、宗家の家長がこれを取り仕切るのである。(羅小華は呈坎羅氏の宗家であり、呈坎にあっては普通の身分ではない。)ともかく儒教というのは祖先崇拝が中心的な価値観であり、故郷に葬るのが(相当な費用を要するが)何よりもの親孝行なのである。
揚州羅聘故居呈坎の羅聘の家と異なり、現代の揚州の羅聘の家は、大半は近代になって改装されており、往事の面影を偲ぶというのは、随分と異なった雰囲気になってしまっている。とはいえ、家屋のおおよその構成は当時のままのいわゆる“三合院”をなしており、その位置はほぼ昔のままであるそうだ。この揚州の羅聘の家が、羅愚溪から受け継いだ家なのかどうかはわからない。

この家で羅聘と方婉儀の夫妻が家庭を営んでいたわけであるが、当然のことながら家の中を取り仕切ったのは妻の方婉儀である。遠出していることが多かった羅聘であるが、留守を方婉儀が守ってくれたことは大きかったに違いない。詩文と梅畫に優れた才能を発揮し、子供たちも名の聞こえた梅畫の名手に育てた方婉儀は、揚州八怪の1人に加えるべきであるという意見もある。詩文書画の技量や羅聘の交際に果たした重要性を考えると、あるいはそれも正しい見方といえるかもしれない。彼女が加われば、八仙に何仙姑がいるようなものだ。(揚州八怪は八人と決まっているわけでなはい)
この方婉儀は良家の育ちではあったが、深窓に控えているようなことはなく、時には夫と一緒に金農や鄭板橋等との社交の場に顔を出し、また旅にも着いて行くことがあったという。儒教倫理からみればいささか逸脱した行為なのであるが、道教的な価値観からすれば女性の身で男性の雅会に立ち混ざることはありえた。ただし大抵の場合は妓女である。
乾隆年間後期の揚州が舞台となった「浮生六記」でも、妻の陳芸が夫の友人等と一緒に詩会や遊興を楽しんだことが述べられている。そういう女性の姿はちょっと珍しいにしても、それはありえたことなのだろう。
羅聘の妻の方婉儀の30歳の誕生日を祝った日に、金冬心は方婉儀の才色を称える詩を贈り、また鄭板橋は蘭竹の大幅を画いて詩を題し、大いに楽しんだという。その交際の親しさがわかるであろう。またこの金冬心の詩から、方婉儀が詩書畫だけではなく、容色にも優れた女性であったことが伺えるとされる。
筋金入りの読書人というのは、美人で文才があれば多少病弱でもかまわない、そういう人を妻にしたい、そう考えていたようなフシがある。紅楼夢の黛玉も、そういう意味では当時の読書人の男性が思い描く、理想の女性像なのかもしれない。「浮生六記」が広く長く読まれたのも、主人公の妻に詩藻があり、やはりやや儚げな女性であったからかもしれない。方婉儀が生来病弱であったかどうかはわからないが、羅聘より早く47歳で病没している。この時代、とにかく妻と死別する例が多い。誰しも長い生涯で2人ないし3人の妻を迎えている。「夫婦共白髪」を願うというのは、それがなかなか難しいことだからである。羅聘は方婉儀に先立たれた後、ついに妻を迎えるという事は無かった。
この時代の女性が早世する要因であるが、ひとつは当時の炊事場の構造にあるといわれる。換気がわるく、カマドの煙が充満するなかで炊事をするので、呼吸器を傷めてしまうのである。
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ところで揚州八怪の首領と目されるのは金冬心であるが、次席を挙げるとすれば鄭板橋であろう。金農とほぼ同世代で親しい友人であった鄭板橋には、羅聘もずいぶんと可愛がられたようである。恬淡とした金冬心と比べてややアクの強さを感じさせる鄭板橋は、羅聘の父親である羅愚溪の友人であったことがわかっている。亡友の遺児に鄭板橋としても目をかけたのであろうし、羅聘が金農に師事する契機となったことも考えられる。
鄭板橋は蘇州にほど近い興化の出身である。父親は鄭本といい字(あざな)を立庵、孟陽と号し、私塾の教師であった。鄭板橋の生母は汪氏といい、鄭板橋が幼い頃に他界している。祖父、曽祖父ともに興化の人であり、多くの資料では鄭板橋の原籍は興化であるとされる。しかし異説もある。
その祖先を鄭重一といい、明の洪武年間に蘇州周辺に移民してきた一族であるという。興化には三つの鄭氏の一族がおり、“鉄鄭”“糖鄭”そして“板橋鄭”といった。もちろん鄭板橋は“板橋鄭”に属している。この鄭板橋の出身一族であるが、ひょっとすると徽州をルーツに持つのではないか、ということを前から考えていた。鄭も徽州にあっては、それなりの数を誇った宗族のひとつなのである。
民国時代の許承堯が編纂した「歙事閑譚」には、鄭姓の人物が数多く出てくる。とくに「双橋鄭氏諸人詩画」という項では、「黄山画苑論略」の記述に基づいて、詩書画にすぐれた鄭姓の人物を列記している。ちなみに徽州の休寧県には板橋村という村があり、また歙県には板橋山(村)、鄭村鎮がある。(下図左上と右下)
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「だからどうなの?」といわれると返答に窮してしまう。これだけの証拠で鄭板橋が徽州に原籍をもつとはいえないであろうし、仮にその祖先が徽州の鄭氏からわかれたとしても、ずっと時代の下った鄭板橋の人生に、徽州の鄭氏が関係したともいえない。しかし気になるところではある。
ともかく鄭板橋は金冬心とおなじく、揚州に家があったのではなく滞在していたのである。羅聘の家に近い距離に定宿があったことからも、その往来の頻繁であったことが伺えるのである。
揚州羅聘故居揚州八怪のうち、金農、鄭板橋に次ぐ存在といえば、汪士慎であろう。年齢的には金農より一歳年上の最年長である。
汪士慎は休寧県出身とする資料が多いが、歙県とする場合もある。これも推測であるが、歙県が休寧県と接する地域に上溪東、下溪東という地名がある。呈坎の南東部にあたる地名であるが、汪士慎が自ら“溪東外史”と号したことを考えれば、あるいはこの地域の出身なのではないだろうか。ちなみに歙県には西溪南、南溪南といった地名があるが、このばあいの“溪”というのは古くは“龍溪”とよばれた呈坎を指し、呈坎を中心に考えた方角が地名になっているのだという。
汪士慎は徽州の大塩商である馬兄弟と非常に親しかったが、揚州における人士との交遊関係は、金冬心や鄭板橋に比べると限られたものであったらしい。晩年は失明して孤独のうちに日を送ったと言われる。汪士慎は羅聘と方婉儀の双方にとっても同郷の先輩である。汪士慎の失明後、羅聘夫妻は常々近所に住むこの老人を気にかけていたのではないだろうか。
揚州羅聘故居 羅聘がこの場所に、羅家の一家族のみで住んでいたかどうかまではわからない。意想外に大きな家である。
現代の日本人からみれば、中国は広大であるから平均して日本の家屋よりも広い家に住んでいると思われているかもしれない。しかし江南の都市部に住む人々が広い家に住めるようになったのは近代に入ってからのことで、もともと城郭で囲まれた中国の都市においては市街地の敷地面積が限られており、庶民の家は狭いのである。市街地を拡張するということは城壁を拡張するということであり、非常に経費がかかることである。そういった城郭の中では、広い邸宅であっても、何世帯かの家族でシェアして生活している場合も多い。現在は観光地になっている蘇州や揚州の園林も、民国時代には数世帯の家族の生活の場であったものが多いのである。
金農が寓居した西方寺は、広い寺院ということもあり、羅聘に限らず揚州や、時には他郷から人士が入れ替わり立ち代り訪れたという。一時期汪士慎が仮寓した馬兄弟の小玲瓏山館もまた、主要な社交の場であった。また一方では羅聘の家も、金農の生前から多くの人士が訪れている。
たとえば羅聘の家には歙県出身の優れた篆刻家達が度々訪れている。すなわち巴慰祖(は・いそ:1744〜1793)、汪肇(おう・けい:生卒未詳)、胡唐(こ・とう:1759〜?)であり、これに程邃(1607〜1692:てい・すい)を加えて、“歙中四君子”といわれた。とくに胡唐と巴慰祖は後の趙之謙にも大きな影響を与えている。このうち巴慰祖はとくに製墨でも名を残した人物であり、周紹良「蓄墨小言」には陳鴻寿(曼生)など六人連名で製した墨が収録されている。また「歙事閑譚」には「金涂塔墨聯句詩」として、巴慰祖、胡唐、朱文翰、黄沫等が集まり、鑑古齋に依頼して墨を製し、句を連ねて詩を作ったことが記載されている。
また揚州には“西冷四子(あるいは西冷前四家)”とよばれる、杭州出身の四人の篆刻家がたびたび訪れている。彼等も羅聘とは親しく、丁敬以外の若い三人は羅家に滞在することも多かったようだ。すなわち丁敬(てい・けい:1695〜1765)、蒋仁(しょう・じん:1743〜1795)、黄易(こう・えき:1744〜1801)、奚岡(けい・おく:1746〜1803)であるが、このうち最年長の丁敬は金農とも親しい友人であり、羅聘も「丁敬像」を残している。さらには?石如、王文治などの姿もある。いずれも近代の金石学、あるいは篆刻において大きな影響を与えている人物達である。
揚州羅聘故居“西冷四子”と呼ばれる杭州出身の一群の篆刻家達は、同郷の金農との関係を契機に、羅聘達との交際の輪に入っていったことが想像される。また一方の歙四子はやはり篆刻に優れた汪士慎、ないし羅聘が交際に関係したであろう。
徽州は明代における金石学の先進地域であり、金石学を背景に持つ古印の研究、さらには古印研究を基礎とする篆刻が精緻な発展を見せている。(古印の研究においては、呈坎の羅小華が先駆的な研究を残しており、その遺産は子の羅王常に継承され、孫の羅公権へと続いている。)
「西冷」は杭州の呼称であるが、“西冷印社”に代表されるように、近代における金石学、篆刻の中心は杭州にあるとされる。しかしその源流をさかのぼれば、徽派篆刻からの影響関係は無視できないものであり、その契機は揚州における金農と羅聘の師弟関係に求められるかもしれない。
揚州羅聘故居羅聘が金農に弟子入りするにあたっては、窮迫した金農が、燈籠や団扇に畫を画いて路傍で売っていたところ、羅聘がその畫を学ぶために毎日買っていったことがきっかけになったという逸話がある。しかし金農というのは当時の揚州にあっては隠れもない名士であり、画の買い手に不自由する身ではなかった。それでもときに窮迫したのは事実なのかもしれないが、その要因は金農が生涯をかけて取り組んだ、金石学の研究のためであると考えられる。資料の蒐集にせよ、また執筆した著作の出版にせよ、とにかく多額の資金を要するものである。
古代の青銅器や碑石、またそこに書かれた文字を研究する金石学は、現代の考古学とも言うべきものであるが、骨董価値をもつ青銅器やその拓本というのは当時としても高価であり、その蒐集には費用を要した。また書籍自体も大変に高価である。
金農が、その共同研究者ともいうべき徽州の方密庵に送った手紙が「歙事閑譚」に収録されている。その中に「集古録」が五銭すると書れた手紙がある。集古録といえば、おそらくは金石学の学祖とされる欧陽脩の「集古録」であろうが、古代の碑刻四百を交渉したこの書籍は、金石学の研究には欠かせないテキストである。それが五銭ということであるが、五銭といえば一両の半分である。
紅楼夢で描かれる貴族の生活のモデルとなったのは、康煕年間の大貴族の家庭である。そこでは上流の女中の俸給が月に三両であるとか四両であると述べられている。女中とはいえ、普通の富豪の家の娘よりも、はるかに豪奢な生活を送ることが出来た彼女達の月の手当てがそれぐらいである。
例示としては大雑把であるが、ともかくいかに重要な書籍にせよ、一冊の本が五銭なのである。とすれば、金農はすくなくとも生活費レベルの金策に窮していたわけではなさそうである。
後に弟子の羅聘も経済的に逼迫した状況におかれるが、その理由というのも金農の著作をまとめ、出版すると言う難事業に取り組んだためであると考えられる。いうまでもなく当時の書籍出版というのは、多額の資金を要する事業であった。

揚州八怪という呼称が出来たのは清朝末期、定着したのはつい最近であると言われる。司馬遼太郎氏が、作家連と中国政府に招かれて中国を訪れた時の様子を旅行記に書き残している。たしか「江南の道」という本であったと記憶しているが、そのなかで司馬氏は、揚州では是非とも揚州八怪ゆかりの場所を尋ねたいと考えていたそうだ。ところが案内をしてくれた人…ただの旅行ガイドではなく、中国政府から派遣された、それなり以上に文化的素養のある人物であるが……彼が揚州八怪を知らなかったというのだ。いつか揚州八怪を題材に小説を書きたいと考えていた司馬氏、これは意外におもったそうである。あるいは揚州八怪という呼称も、先に日本で定着したのかもしれない。

“揚州八怪”はなんとなく語感が良いし、便利なので小生も多用しているが、揚州八怪と言った場合は、一群の畫人達が想定されているようだ。“揚州畫壇”というような言われ方もする。現在から見れば画家の集まり、というようにみられる揚州八怪であるが、実のところその“結合力”は畫というよりも詩や文章、金石学の研究なのである。畫家の集まりというよりは、在野の考古学者や文学研究者、詩人の集まりであったというほうが実際に近いことだろう。ただし、今も昔も純粋な学問というのは御飯のタネにならない。糊口をしのぐためには、商品性の高い畫や書を画くこともしばしばあった、というのが実相に近いのではないだろうか。
揚州羅聘故居日本における揚州八怪の受容には、明治時代の欧州における印象派の画家達の伝説、“モンマルトルの丘“ではないが、画材もろくにそろえることが出来ず、食うや食わずで絵を描いていた、放浪の画家達とイメージがかぶっているのではないかという疑惑がある。
「冬心題画記」には、楽しみで画いた畫を売って米や肉に代えている、という金農の言がある。しかし実のところは書籍や金石学の資料の蒐集に手一杯というところで、資金に余裕があれば著作の出版準備をしたいところである。当時の出版といえば版を彫ることから始めるのであるが、一度には版を作る資金が無いため、少しづつ彫っては貯めて置くのである。
しかしもし金農が題文に「畫を画いて、それでもって本や拓本を買っている」としたらどうだろう?書籍も拓本も安い買い物ではない。自分の畫の価値を書物や碑帖と等価であるかのように言うのは、いかにも衒いが行き過ぎてかえって俗である。読書人の日々の勤めとして本や金石を蒐集、研究するのは当然のことで、ことさら口にすべきことではないといったところであろか。「学問が好きなんです。生活は大変ですが一生懸命研究してます。」なんていう詩は読んだことが無い(あるかもしれないが)。ここでは自分の畫なんぞは、幾ばくかの米や酒と交換するのがせいぜいと、サラリと言いところである。
ともかく金農にせよ羅聘にせよ、徽州商人が栄えた揚州で住んでいれば、値段はともかく畫の買い手に事欠くほどのことはなかった。他の揚州八怪の面々も、売畫で暮らしを立てるために、進んで揚州へ赴いているのである。
なんでもかんでも徽州と結び付ければ良いというものでもないだろうが、当時の揚州が塩業を扱う徽州商人によって繁栄し、その経済発展の上に豪壮な邸宅や園林が築かれ、当然の如く對聯や畫の需要が高まったことは、考えあわせる必要がある。公共施設としての博物館が出来、美術品がある程度の公共性を帯びて語られる現代とは、まったく異なった市場が存在したと考えなくてはならない。
徽州商人の繁栄の大きな要因となった塩業であるが、徽州商人達はほかにも茶業や木材、生薬、工芸品の流通に大きな権益を持っていたのである。とくに塩業や茶業に関しては、単に必需品の流通を支えていた、というだけではこれほどの経済発展の理由が見えてこないのであるが、羅聘の家から逸れて行くのでまた別の機会に述べたい。
揚州羅聘故居ともかく羅聘の家というのは、当時の揚州にあっても一応の格式を備えた、中流以上の家庭の家である。書斎もあり来客を迎えて手狭というほどの家ではない。もちろん維持するのも大変であっただろうし、実際の家計は火の車であったにせよ、馬兄弟や金冬心亡き後は、揚州における重要な社交場であったことだろう。

あるとき陝西は上元県の知事で張五典という人物が、揚州を過ぎるにあたって羅聘の家を表敬訪問した。彼も詩書画で名のあった人物である。あいにく羅聘は外出しており、羅聘の家人が彼を接待していた。アポ無しの訪問だったのだろう、なかなか羅聘は帰ってこない。仕方無しに羅聘の書斎に詩を一首したためて立ち去った。その詩「過羅両峰香叶草堂」を以下に示す。(細かい解釈は省く)

言訪羅含宅、閑看碧樹秋。
苔濃如渲染、石痩未雕捜。
経籍先秘伝、詩篇老輩投。
閉門斜照外、歌吹是揚州。

羅含(らがん)の宅(たく)を言訪し、閑(しず)かに碧樹(へきじゅ)の秋を看る。
苔は濃く渲染(せんせん)の如く、石は痩せて雕(ちょう)を捜(さが)せず。
経籍(けいせき)は先(ま)ず秘(ひ)して伝(つた)わる、詩篇(しへん)老輩(ろうはい)の投(とう)ず
門を閉じ斜照(しゃそう)の外、歌は吹(ふ)く是(こ)れ揚州と。

(大意)
「詩にうたわれた、菊の花が咲く羅含の邸宅のような、羅聘先生の家を訪ねていまいりました。お留守のようだったので、杜甫が“寒蝉碧樹秋”と詠んだように、先生を慕ってしばし静かに秋の碧樹を眺めながらお待ちしていました。庭の苔の緑は濃く石に染み込んだようで、石は摩滅して痩せており、施された彫刻が見えなくなっていますが、侘びた良いお住まいですね。なかなかお戻りにならないので、書斎で蔵書を拝見していました。書物というのは、まずは秘密のうちに伝わるものなのですね。詩文の大先輩があなたに送った詩編を読み、その交情の厚さに深く敬服いたしました。門を閉じて陽の傾いた街へ出れば、どこからか歌声が聞こえ、杜牧が詠んだとおりの繁華な揚州の街の中です。」

おそらく「詩篇老輩投」とあるが、「老輩」とは金農や鄭板橋、または汪士慎ではなかっただろうか。彼等が羅聘に送った詩編を読んだ、ということである。それらはごく親しい身内の間で交わされた詩であり、出版されていた詩集には掲載されていなかった作品かもしれない。「経籍先秘伝」と、思いがけず高名な金農等の未発表作を看ることが出来、胸を躍らせたのだろう。無論、その場で書き留めるか暗記して帰ったであろう。
張五典は乾隆二十五年(1760)の挙人であるが、県知事として赴任したのはそれから早くとも数年後のことであり、金冬心や鄭板橋は既にこの世を去っていたころかもしれない。高名な羅聘に会えるかと訊ねたところ、羅聘に会うことは出来なかったが、半ば伝説化した揚州の老大家の詩を目にすることが出来、望外の喜びを覚えのだろう。

長くなったので、この張五典の詩をもってひとまず羅聘故居の訪問記(?)を終わりたい。
落款印01


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