「浮生六記」と江南塩業

揚州で羅聘の家を訪れてから、どうも羅聘(ら・へい)と方婉儀(ほう・えんぎ)夫妻の姿と「浮生六記」の沈復(ちん・ふく)と陳芸(ちん・ゆん)夫婦の姿がイメージの中で重なってしまった。沈復夫妻はそのもっとも窮迫した時期を揚州で過ごし、妻の陳芸は揚州でこの世を去っている。
徽州商人の塩業で栄えた揚州であるが、羅聘の壮年期である乾隆中期には、その繁栄もすでに斜陽に向かっていた。羅聘は顧客をもとめ、しばしば北京へ赴いている。
乾隆三十三年、塩業が傾斜を始める契機となった「両淮塩引案」という一大不正事件がおきている。この事件の詳細は別所に譲りたいが、世襲の塩商が支配する巨大な利権が弊害を生み、倫理の弛緩によって起こるべくしておきた事件であるともいえる。
あの四庫全書の中心的な編纂者のひとりで、蔵硯家として著名な閲微草堂こと紀暁嵐(き・ぎょうらん)もこの事件に関係して降格、流刑の処分をうけている。揚州におけるクライアントの大半が徽州商人であり、徽商と深い関係のあった羅聘も、これに無関係ではいられなかった。後に羅聘が死の床にある方婉儀を残して、北京へ旅立たねばならなかった理由は、この事件の影響であるとも言われている。
乾隆帝は乾隆八年に徽州の名墨匠、汪近聖の次子である汪惟高を宮中に召しだし、製墨法の教授に当たらせている。このとき作らせた墨に「御製耕織図墨」がある。「耕織図」とは、男が綿花を育て女が機を織るという、ありふれた農村の生活を描いた図である。紀元前の古代からその原形がみられるが、作画は宋代に盛んになった。つまりは農業を奨励し商業を抑えるという、中国の歴代王朝の基本政策である「重農抑商」を象徴する意味がある。
「両淮塩引案」の起きた翌年の乾隆三十四年、乾隆帝は元代の畫家、程(ていけい)の描いた「耕織図」を圓明園の建物の中に掲げ、その畫中に書かれていた詩の韻をふまえて、自ら一首づつ詩をつくった。また工匠に命じて図を石に刻み、自らの詩をこれに加え、合計48幅を庭園内の回廊に掲げたのである。無論、石に刻ませたのは印刷のためで、各所に複製が配られたのである。
乾隆中期以降、製墨の意匠に耕織図の流行をみている。元代の画人の程は、湖州の安吉の人とされるが、実はその原籍は徽州の歙県なのである。これ、なにをかいわんやである。つまりは徽州商人達へ向けた、乾隆帝の明確なメッセージであるとかんがえられる。さらに乾隆年間の献上墨にはこの「耕織図墨」が多く見られるが、これは臣下の側からの、恭順の意のあらわれであろう。いわば墨の意匠を介した”政治”であり、文物としての墨の重要性を象徴する事件であるといえるだろう。
天上世界のことはさておき、話を「浮生六記」の沈復にもどしたい。沈復は績溪県を訪れた際、塩商の程虚谷に招かれたことが「浮生六記」に述べられている。程虚谷は徽州の大塩商であるが、製墨でも名を残しており、尹潤生「墨林史話」には”乾隆程虚谷虔制般若波羅密多心経墨”が掲載されている。また故宮博物院には双竿比玉墨が収蔵されている。
沈復の父親を沈稼夫(ちん・かふ)という。「浮生六記」の中では尊称をつけて「稼夫公」と表記されている。沈復はこの沈稼夫の長男ということになる。稼夫公は幕僚、幕友を生業としており、沈復にこの仕事の跡を継がせるのである。
科挙に及第し、朝廷より任命された正規の官員は、その赴任先で実務を処理するにあたり、吏務に長けた者を個人的に採用した。いわば官僚の私設秘書が幕友、幕僚である。彼等の多くは士大夫といっても挙人未満の生員か、あるいはまったくの無位無官のものであることもあった。私設秘書といっても、雇い主の官吏からは「先生」と呼ばれ、それなりの礼遇を受けるのが通例である。
明代末期に倭寇討伐に活躍した徽州績溪出身の胡宗憲は、徐渭や文徴明を幕僚として招聘しているが、このような臨時スタッフを私費で招聘することは古くから行われてきた。実務上の必要もさることながら、在野の賢人を召抱えるということは、ある程度の地位をもった官僚であれば、その容儀を整えるためにも必要なこととされた。
受験戦争を勝ち抜き、科挙に及第したばかりの官吏たちは、当然のことながら実務能力を有しているとは限らない。実際問題として、行政実務に長けたスタッフの存在が必要になるのである。
また進士に及第したキャリア官僚は、地方に着任して数年して宮廷に戻り、また数年して地方へ赴任する、ということを繰り返す。見知らぬ土地の県知事に任命されれば、当然その土地の事情に通じた者が必要になる。また知事の交代の際には、その現地スタッフが後任の知事に再び採用されることにより、行政の継続が保たれる、という機能もあった。土着の有力な読書人階級の人士は”郷紳”などと呼ばれるが、その土地の事実上の実力者であると言っていいだろう。
ともあれ沈復も父親のこの家業を継ぎ、幕友で身をたてることになる。沈復やその稼夫公の場合は、幕友といってもあちらこちらの地方政府から、都度招聘をうけて仕事についていたことが「浮生六記」の記述からわかる。沈復は転任を繰りかえしながらさまざまな地方をめぐる生活を、”幕遊(ばくゆう)”と言っている。しかしどのような職務内容だったのであろうか。
清朝の歴史をひも解いてみても、進士及第者ならともかく、おそらくは科挙に応じていないであろう、稼夫公や沈復のことについては史書には出てこない。布衣(無官)の者であっても、金農や羅聘のような当時の著名人というわけでもないのである。やはり沈復の自伝的小説ともいえる「浮生六記」から探るより他無いだろう。
冒頭、「余生乾隆癸未冬卜一月二十有二日、正値太平盛世、且在衣冠之家,后蘇州滄浪亭畔」とあるように、沈復は蘇州で生まれ、また陳芸との新婚時代を蘇州の滄浪亭のほとりで送っている。ここに「且在衣冠之家」とあり、また文中稼夫公が「我輩衣冠之家」と言っている。「衣冠」つまり沈復と稼夫公自身は幕友であったとしても、その何代か前は科挙に応じて官吏になったものがいたのであろう。
読書人の子弟が進士に及第でもすれば、その兄弟で優秀なものがいれば”太学生”の身分が与えられ、国士監(国立の官吏養成学校)で学ぶことが許されるなどの恩恵をうけた。またその子や、場合によっては孫の代までは、なんらかの官職が与えられるという特典があった。しかし沈復の場合は、先祖の事跡は詳らかではない。
沈復自身は科挙に応じるために準備をしていたが、父稼夫公が大病を患うにあたり、その将来を危ぶんだようである。そこで沈復に試験の道を捨てさせ、自分の幕友の仕事を学ぶように命じたのである。沈復はこれを「恥辱」と表現している。
いたって廉潔な人物であっても相当な役得があったのが、当時の官吏の生活である。その余禄は幕友にまでも及んだようだ。むしろ実際上の職務を担当する地方の専門職の幕友のほうが、なにかと余禄が多い場合もあったという。稼夫公は沈復に自分の幕友の仕事を継がせるに際し、おそらくは同業者の自分の義弟に弟子入りさせ、仕事を学ぶことを命じている。その仕事はある程度の習熟が必要な、なんらかの専門性を持った内容のようである。どのような仕事についていたのだろう?

この稼夫公の赴任した地域について記述がある。すなわち

「余年十五時,吾父稼夫公館于山陰趙明府幕中。」とあり、また
「甲辰之春,余随待吾父于呉江明府幕中,」さらに、
「是年,何明府因事被議,吾父即就海寧王明府之聘」そして、
「吾父不凖偕游,遂就青浦楊明府之聘」とある。

ここでは「山陰」「呉江」「海寧」「青浦」といった地名が出てくる。「明府」というのは太守のことであり、清朝にあっては県令、つまりは県知事である。その地域の知事の招聘をうけて任地に赴いているのである。
まず「山陰」は山西省のこともさすが、ここでは別に「時吾父稼夫公在会稽幕府」とあり、会稽はすなわち現紹興付近である。また呉江は江蘇省南端、また青浦は現在の上海市郊外、さらに海寧は浙江省海寧市である。これらの地方は、いずれも当時の塩の生産地なのである。特に海寧はその名も「鹽(塩)官」という街をもち、南は江蘇省の「鹽(塩)城」とならぶ、塩の大生産地であった。
すなわち稼夫公が幕友として関わっていたのは、おそらくは当時の江南経済を過熱させた、塩業.....行政側からみれば「塩政」ではなかろうかと推測されるのである。
また稼夫公は息子に幕友を継がせるにあたり、「我托汝于盟弟蒋思斎」と自分の義理の弟の蒋思斎に師弟の礼を取らせるのである。ついで「癸卯春,余从思斎先生就維揚之聘」とある。蒋思斎は招聘をうけて「維揚」にむかったということであるが、「維揚」は現在の揚州市、いうまでもなく塩業の中心地である。
無論、稼夫公や師匠の任地だけをみて、塩政に関わる仕事をしていた、と断定することは出来ない。しかし他にも塩業とのかかわりを感じさせる記述がみられるのである。
父の家業を継いだ沈復であるが、さまざまな事情がもつれて、父親からは勘当同然の身となる。揚州で妻の陳芸と窮迫した生活を送っていた沈復は、ある年の暮についに金策に窮してしまう。そこで妻の陳芸が提案するのは、「君姉丈範恵来現于靖江塩公堂司会計,十年前曽借君十金」ということである。つまりは「あなたの姉の夫である範恵来(はん・けいらい)は靖江(せいこう)の“塩公堂”で会計の任についていますが、十年前に貴方から十金を借りています。」というのである。つまりはその借りを返してもらって、急場をしのげないでしょうか、というところである。
「塩公堂」とは、塩政における地方局のような存在で、多量の塩を貯蔵するため、大きな建物が充てられるのが普通である。そこで義兄が会計の任についていた、というのである。沈復はすっかり忘れていたのだが、ともかくも旅装をまとめて靖江(現在の上海北部)へ向かうのである。
途中困難にあいながらも「塩公堂」にたどり着く。来意を告げたところ範恵来は、恩義もあり助けたいのはやまやまであるが「无如航海塩船新被盗,正当盤帳之時,不能移豊贈」というのである。つまり「无如航海塩船新被盗」塩を運ぶ船が盗賊の被害に遭い、「正当盤帳之時」帳簿に監査が入っているので「不能挪移豊贈」、つまりは余分にあるところ(の金)を移して、贈る事が出来ないと.....一種の公金横領である。
海賊の被害に遭って、塩を運ぶ船が喪われたのであろう。そこで塩公堂の会計に監査がはいるとはどういうことだろう?この理解には「鹽(塩)引」とよばれた、当時の塩政の制度について考えなければならないのだが(解説は長くなるので)、ともかくここでは盗難のドサクサで帳簿をごまかす不正を防ぐ、という理解に留めておきたい。それを行うのはそのような弊風が蔓延していたからであり、現に範恵来は公金を融通しようとしているのである。むろん沈復も半ばはそれを期待したような気配がある。
ともあれ、ここでは沈復の姉の夫が塩政関連の事務職にあり、そこを沈復が頼ったということになる。公金横領が出来ない範恵来は、間に合わせの西洋銀貨二十枚で、この借を清算したことにしてくれと、沈復に頼む。沈復ももとより多くは望んでいなかったので、承諾して帰途につくのである。
また別に胡省堂(こ・せいどう)という人物が登場する。「訪故人胡肯堂于邗江塩署」とあり(故人は古い友人の意)、彼もまた邗江(かんこう:江蘇中部、宜興に近い)の”塩署”につとめているところを沈復は尋ねるのである。
このとき沈復は”貢局”に欠員が出たので、短期間ながら職を得て人心地つくのであるが、”貢局”とは宜興の名産、紫砂の急須の生産をつかさどる行政事務局である。このとき沈復自身は塩署に職を得られたわけではないのだが、この「友人」とされる胡省堂もまた塩政に関わる人物である。胡省堂については別にもう一回登場し、沈復が彼に十金を貸してあげたことがのべられている。
また「琢堂(たく・どう)」という、沈復の幼馴染の友人が登場する。彼が「有旧交王?夫孝廉在淮揚塩署」とある。つまり琢堂は淮揚(わいよう)の塩署につとめる孝廉(こうれん:すなわち挙人)の王?夫(おう・えきふ)という友人がいる、ということである。
この淮揚はすなわち揚州を含む地域であり、ここの塩署は江南最大の塩の生産地である鹽(塩)城を管轄に置き、別格の規模を誇る塩政局で、揚州にあった。
琢堂は沈復と回り道をして王?夫に会いにいっている。もちろん誼(よしみ)を通じるためであっただろう。このとき既に妻の陳芸はこの世になく、沈復はついでに揚州で陳芸の墓参りをしている。
沈復は多くの雅友がおり、陳芸と一時その屋敷に身を寄せた魯半舫などがいる。しかし金策がらみ、仕事がらみで出てくる範恵来、胡省堂、琢堂(の友人の王?夫)といった面々は皆、大なり小なり塩政に関わっているのである。
江南一帯でいかに塩業が栄え、それに応じた塩政当局の利権が大きかったにせよ、他にもさまざま行政府があるはずである。しかし「浮生六記」の沈復と稼夫公のキャリアからは、”塩”の匂いが濃厚なのである。
また父親の稼夫公は沈復によって「慷慨豪侠(こうがいごうきょう)」の人物と表現されている。また人に施すのが好きで、そのような場合は金銭を塵芥のように心得ていたという。「吾父稼夫公喜認義子、以故余異姓弟兄有二十六人。吾母亦有義女九人」とある。つまりは義理の息子、娘を多く持ったということである
中国においてはこの義兄弟姉妹、あるいは義子の盟を結ぶ、という風習が古くからある。劉備が劉封を義子としたことは有名であるが、一度義理の子とした以上は、息子同様にそれを庇護するのである。義子を持つということはその親とは義兄弟になるということである。養子のように必ずしも養育まで一切合財の面倒を見たとはかぎらないが、冠婚葬祭において身内同様にあつかうのである。稼夫公が26人の義子を持ち、その妻が9人の義女を持ったというのは、逆にいえばそれだけの稼夫公とその妻が義兄弟、義姉妹を持ったということである。同時に義子達は沈復にとっての義兄弟姉妹である。稼夫公の義弟の1人が沈復の幕友の師匠である、蒋思斎という人物ということになる。また先の範恵来は沈復の姉の夫、ということであるがこの「姉」が実姉であったかどうかは不明である。
ともあれ、父親の稼夫公が塩政にかかわっていたならば、その同僚や友人にもやはり塩政・塩業がらみの人物が多かっただろう。義子や義女というのは、多くは友人の子供たちをそう扱うのである。またその子供たちもそれぞれ家業を継ぐとすれば、沈復の幼馴染に塩政に関わる人物がいても不思議は無い。
沈復が績渓県を訪れたのは「余年二十有五,応徽州績渓克明府之召」という記述がある。すなわち績溪の「克」という県知事に招聘されたのであり、その際に塩商の程虚谷に招かれたのである。沈復が塩政にかかわる幕友であったとすれば、その交友も怪しむには足らないだろう。
沈復が塩政に関わる幕友の仕事に着いていたとすれば、沈復夫妻の窮迫もその理由が察せられるのである。沈復が績溪に行った「乾隆癸未」は乾隆二十八年(1763)であるが、この年に揚州で金農が死去している。その五年後に「両淮塩引案」という、塩業界を震撼させる大不正事件が起こる......起こるというよりは、大なり小なり不正は行われており、規模の大きなものが発覚したということが正しいのかもしれない。
以降、乾隆帝は「耕織図墨」に象徴されるような「重農抑商」政策へ傾き、巨大な権益を誇った徽州の塩商達も、その特権的な地位を失って行くのである。
塩業が衰退すれば、塩業をつかさどる塩政に携わる官吏も没落せざる得ない。沈復が金策に奔走する場面にも現れているが、塩政を担う官吏のモラルもずいぶんと緩んでいたようである。また程虚谷が沈復を招いたように、”商”と”官”の癒着の構造というのは、さまざまな弊風の温床となったことだろう。
沈復がまだ少年期の乾隆四十四年には羅聘の妻、方婉儀がこの世を去る。すでに揚州は主要な書画の市場ではなくなり始めているころである。沈復が陳芸と揚州で売畫生活を送るのはこれよりさらに後、乾隆年間も最末期のころであると考えられる。
沈復が塩政に関わる幕友として生計を立てていたのであれば、徽州の塩商の衰退とともに、塩政そのものも斜陽に向かってゆく頃である。その幕友の道にゆきずまり、揚州で売画生活を始めたときには、やはり揚州における徽州商人の衰退により、書画の需要そのものが減っている時期なのである。
沈復は父親によって早くから科挙への道を断念させられ、その後は官界にあっても書画家としても、恵まれた道を歩んでいたとは言えないものがある。その学識というのも、当時の読書人の子弟としてはごく常識的な水準である。詩文や金石学で名士になれるほどの素養は無かったと、自分自身でもよくわかっていたようだ。「浮生六記」には対句は出てくるが、完成した詩は一篇もない。ほぼ同時代に成立した「紅楼夢」の華麗さには、及びもつかないところである。
しかし、後代になるほどこの「浮生六記」の小説としての評価は高くなってゆく。つくづく時代に合わなかった沈復であるが、まさか自分の書いたものが、日本語に翻訳されて日本人に読まれているとは思いもよらないことであろう。清朝に成立した小説としては、あるいは紅楼夢に次いで、海外では読まれている小説かもしれない。(現在は喪われた第五編では、沈復は沖縄を訪れたことが書かれている)
それはさておき、当時の塩業の衰退の様相を知る傍証としても、ドキュメンタリー私小説である「浮生六記」の内容は興味深い。沈復が塩政に関わる幕友についていたという、確実な証拠はないにせよ、塩業の盛衰に翻弄されたとは言えるのではないだろうか。
”揚州八怪の殿軍(しんがり)”と呼ばれた羅聘よりも、さらに遅く揚州に来てしまった沈復ではあったが、ともかくも「揚州八怪後の揚州」の姿を文章に留めておいてくれたことは、往事を知りたい者にとっては感謝の念に耐えないところだ。
落款印01


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