製薬と製墨 〜歙県槐塘村

今回は槐塘(かいとう)村を訪れた。安徽省歙県に属する市鎮であるが、現在は村になっている。なにゆえ槐塘を訪れたかというと、康煕年間の名墨匠、程正路(てい・せいろ)こと程儀(てい・ぎ)がこの市鎮の出身だからである。
曹素功が肆名を玄粟齋(げんぞくさい)から藝粟齋(げいぞくさい)に改名した頃、程正路の悟雪齋(ごせつさい)もまた名高い墨肆であった。程正路の墨で現存するものは少ないが、きわめて精良な墨であったと言われている。また悟雪齋では、若き日の胡開文こと胡天柱(こ・てんちゅう)が学んだという。
この程正路に関心を持ったのは、康熙帝の寵臣で江寧織造(こうねいしょくぞう)として大きな権勢を誇った曹寅(そう・いん)との関連からである。曹寅の詩文集「棟亭集」には、曹寅と程正路とが互いに親しい友人関係にあったということがわかるのである。
槐塘へ
街の入り口に聳える牌坊は、「丞相状元坊(じょうしょうじょうげんぼう)」である。徽州は学問・教育の盛んな地域であった、ということをしつこく繰り返しているが、槐塘は徽州の中でも有数の学問の地である。
「丞相」とは宋代の丞相、程元鳳(てい・げんほう)であり、状元は宋代に程揚祖(てい・ようそ)、明代に唐皋(とう・きょう)が出ている。科挙の歴史1300年といえども、552人しかいない状元のうち、2人までもがこの槐唐の出身なのである。また進士は31人、また挙人、官員にいたっては数え切れ名ほど輩出しているという。
槐塘へ 槐塘へ槐塘へ
街の入り口でパンフレットをもらったが、観覧料のようなものは徴収されなかった。例によってだれか住人に案内を請わなくてはならない。この日は中国でも休日にあたり、人々ものんびりとくつろいでいた。
槐塘には徽州でも数少ない宋代の建築物である「御書楼」が残っていると聞いていた。この御書楼には理宗が程元鳳を表彰するために送った“儒碩・昭光・清忠”が書かれた扁額があったという。しかし村人に聞くと今はもうないということだ。パンフレットに写真が印刷されている建物がないというのは、どういうことだろう。安徽省の文物単位になっている建物である。
理由を聞いても「もうない。」というばかりだ。その理由はあまり話したくなさそうなので深くは聞かなかった。数年前にここを訪れた人が、それを見たという話を読んだことがある。やや愕然としてしまったが、気を取り直して案内を頼む。
槐塘へ槐塘へ
家々の玄関には石鼓が置かれているところが多い。しかし門柱の礎石になっている姿もみられ、どうもこのあたりに石鼓の起源があるのではないかと考えた。しかしここの村は、観光化を試みたものの、頓挫している形跡がある。西溪南はそれでもある程度整備を進めている気配があるが、槐唐は完全に放置されている。
整備したところで、ここに来る観光客は少ないであろうけれど、ある程度の現金が落ちることになれば、御書楼も残されていたかもしれない。なんといっても、改修を重ねたとはいえ、宋代から続く建物というのは滅多に見られないのである。
まだ紹介はしていないが、実は西溪南には南宋に基礎をもつ故民居がある。さすがに補修の痕跡は見られるのだが、宋代から続く木と漆喰の建物が、時代の特色を残したまま現存しているというのは、驚異的なことなのである。槐唐でそれが喪われた、しかも近年になってというのは、地団駄を踏むほどに残念なことである。しかし徽州をめぐるにつれ、ここ10年で姿を消した史跡がいかに多いかということに気付かされる。
槐塘へこれも見事な牌坊である。槐塘周辺には、歙県に百基ある牌坊のうち、五十までがあるといわれている。村内で見ることが出来たのは、丞相状元坊とこの牌坊だけである。案内も何も無く、誰を記念して建てられたのかは、まだ調べが付いていない。様式からみると、明代の牌坊であると考えられる。
しかし中央に石柱が立てられ、軒の崩落を防いでいる。実に危うい雰囲気である。
槐塘へ槐塘へ槐塘へ槐塘へ
牌坊は数え切れないほど見たが、そのなかでも良い作品のひとつだ。しかし彫刻の多くが喪われ、後から補填された箇所がなまなましい。また干した草が牌坊の柱に立てかけられ、周囲の草も刈られていない。かえって時代の趣を味わうことはできるのだが、やはり保全は気になるところだ。

案内をしてくれた人も程氏という。「程正路の家は残っていないのか?」と駄目もとで聞いてみる。「ないけど程敬通の家がある。清代の医者だよ。」というので行くことにする。なるほど、壁には「→程敬通」とある。なかなか牧歌的なサインである。
槐塘へ槐塘へ
槐塘は徽州医学の発祥の地とされている。この徽州医学、または新安医学は、中国の漢方医学の歴史の中でも、きわめて重要な地位を持っているとされる。新安医学の世界を詳述する力はないので省かせていただくが、徽州における医学の発祥地であり中心地であり続けたのが、この槐塘であるという。
その歴史は、唐代にまでさかのぼることができるといわれる。明代の嘉靖年間から清朝末期にかけて全盛期を迎え、清朝期には多くの名医を輩出し、数百冊の医学の著作があるという。そのなかでも清朝において”神医”とまで呼ばれたのが程敬通である。
街の人が「”傷寒論”を書いたのが彼だよ。」と教えてくれたが、さすがにそれは.........ともかく伝説的な名医であったが、その名が後世まで伝わっているのも、優れた教育者であったからでもあるだろう。
当時の医学はもちろん薬学も含むものであり、漢方薬の製造で著名であった。徽州商人が扱う商材といえば、大きなところでは塩や茶、あるいは木材や米といったものがあるが、ほかにも工芸品、医薬品が著名であった。工芸品というと、どうしても漆器や竹細工といった、細々としたプロダクトをおもいうかべてしまうが、現代で言えば工業製品である。
また漢方薬、薬剤の生産でも著名であり”富山の薬売り”ではないが、徽州の行商人の薬は江南で重宝されたという。周辺の山野から希少動物や薬草など、漢方薬の原料も豊富にあつめることが出来た。
槐塘が徽州医学の発祥の地というのであるが、突如として医療技術が確立されることはない。おそらくは医療や薬学の先進地域からもたらされたものが基礎になっているはずで、その住人の祖先が北方から移住してきた、という話もあながちではないようである。
槐塘へ程敬通の家の跡である。門は締め切っており、中に入ることはできない。隙間からのぞいた限りでは、中の敷地は菜園になっているようである。はたしてこのまま保全されるのだろうか。あるいは次に来たときは見られないかもしれない。
しかし「程正路」の家は残ってないのであるが「程正路」と「程敬通」、名前をみると何か通じるところがないだろうか。「正しい路(みち)」あるいは「路を正す」と「通(みち)を敬する」あるいは「敬して通す」である。
程正路の生卒ははっきりしないのであるが、曹寅(1658〜1712)とほぼ同世代ではないだろうかと考えている。程敬通も生卒未詳であるが、ほぼ万歴末年から康煕初年(1579〜1677)といわれているから、程正路が“神医”とまでいわれた程敬通をしらなかったということはないだろう。

徽州の墨匠の話では、製墨材料として重要なのは煤と膠、そして漢方生薬の配合だそうである。墨の物性の大半は煤と膠で決まると考えがちであり、事実この二つは非常に重要な要素である。そこへ漢方薬の配合が、大きく作用するということだ。無論その配合法は秘中の秘である。
李超と李廷珪の親子が易水から移住して以降、現在に至るまでおよそ千年以上、中国における製墨業は徽州が最高の地位を保ち続けている。中国広しといえど、何故徽州なのか?というのが小生のひとつの疑問なのであるが、あるいは徽州で発達した漢方医学との関係も理由に考えられるかもしれない。
槐塘へ槐塘へ
胡開文を開いた胡天柱は、漢方薬を処方した”薬墨(やくぼく)”で大いに名をあげたといわれる。故宮博物院には乾隆甲子年(1744年)胡開文所制の「朱砂八宝五胆薬墨(しゅしゃはっぽうごたんやくぼく)」が見られる。薬墨は他の墨匠も手がけており、過眼した限りでは?大有(せんたいゆう)のものが多いようだ。
その種類は便秘の際に服用する「百草霜」や小児病用の「八宝万慶錠」、膿(う)み毒や鼻血、中風に効く「八宝五胆薬墨」、また婦人病用の「八宝治紅丹」等があったという。胡天柱は若い頃に程正路の悟雪齋で修行したと言われているが、あるいは徽州における医学の先進地域である槐塘であれば、薬墨に通じたのも、わからなくもない話ではある。
藥墨は李廷珪や潘谷も製したと言われているが、彼等は特に薬墨を製したのではなく、李廷珪や潘谷の墨を服用すれば薬として作用した、という伝説がある。墨には熊の肝や麝香、龍脳など、希少な漢方薬材を用いるため、服用しても薬になるという話である。
もちろん、きちんと作った墨というのは毒ではない。筆先を舐める人というのは今も昔もいたようで、舐めた位で体を壊すような墨は作れないのである。(とはいえ、墨を食べたり、舐めることを推奨しているわけではない。毒ではないというだけで、体に良いかどうかは未詳である。また水銀を使った朱墨は毒性があるので厳禁である。)
槐塘へ「千年古槐」である。「槐塘」の場合の「槐(かい)」はエンジュの樹のことである。「槐塘」の名は、村の入り口に石塘と三本のエンジュの樹があったからだという。この「槐塘」が後に「槐唐」とも表記されるようになったという説もある。また槐塘の村民ははじめは唐姓が多く、彼等は唐末にこの地に移住してきた人々であったという。それで当初は「懐唐」と、唐を懐かしむという村名であったのが「槐塘」となったとも言われる。
たしかに現在でも”懐”と”槐”は「huái」と発音し、同音である。この槐塘を含む地域は「槐唐風景区」となっているが、観光地としてはさほどの知名度はない。無名といってもいいだろう。徽州には古い市鎮が多いが、現代の観光における知名度の差というのは、街並みの保存状態や、重要文化財の数に依存するといった現実がある。観光地として著名であるからといって、過去の徽州における重要性や文化水準とは、必ずしも一致していないということは、注意が必要である。
この槐塘に近接する場所に唐模(とうも)という市鎮がある。唐模は徽州にあっても明代から清代の建築物が数多く残っているということで、著名な観光地になっている。槐塘にせよ唐模にせよ「唐」の字がついている。これはこの一帯の集落の起源が、唐代にさかのぼることを表しているのだと言う説である。特に唐模は、唐代の街並みをよく残しているということで、”唐模”(模には型、モデルという意味がある)という名になったということだ。
槐塘へ槐塘の中心は、当時の徽州における主要な街道が貫いていた。また東西南北に加え、三方向の道がここに集まり、さらに水の流れを加え”八卦”をなしていたという。つまり槐塘は徽州にあっても交通の要衝に位置していたのである。
これは兵法上の「衢地(くち)」にあたり、激戦地になりやすい地域である。事実この槐塘は、同治年間の太平天国の乱で徽州にあってもとくに標的になり、十戸のうち九戸が無人になるという惨状を呈したという。太平天国の乱による衰亡の事情は、西溪南鎮と似通ったものがある。
大雑把に言えば、呈坎を頂点に、徽州府城であった歙県城と休寧県城を結ぶ線を底辺とする三角形を考えると、その重心部分に巌寺鎮があり、巌寺鎮の西方に西溪南、東方に槐塘や唐模といった大小の市鎮がある。現在は見る影も無く小さな村になってしまっているが、かつては平地に築かれたこれらの市鎮が大いに栄えていたようだ。
槐塘へ槐塘へ
現代では徽州の製墨業を歙県派、休寧派、婺源(ぶげん)派の三派に分けて語られることが多いが、歙県派に属す墨匠も実は巌寺鎮付近の出身であったり、さらに細かくみると西溪南やその周辺(潜口など)であったり、唐模周辺地域であることがわかってきた。胡開文も悟雪齋で修行したというのであれば、むしろ歙派に属しても良いのではないか思うのである。
歙県は官僚や文人の集まるところであるから、その墨は献上品のような超高級品や墨質に優れた墨、休寧は商人の集まるところだから、外観が華美だが墨質はやや劣る、というような分け方がされる。しかし徽州においては官吏も商人も、おなじ士大夫階級の一族から出るのである。また官吏が商人になったり、その逆もありえた。墨匠が詩人でも画家でもあるのである。また墨匠が医者であったり、医者が詩人であったりということは、極普通のことで怪しむには足らない。これは徽州のみならず、王朝時代の中国の文化を考える上で、特に重要な点であろう。なんでも専門分化した現代人の目から見ると“マルチタレント”に見える人々であったとしても、当時の人の意識の中では、それらが見事に総合されていたのではないだろうか。この場合、製薬業と製墨業の関係が興味深いところである。
また”士農工商”のような、封建的序列に墨を当て嵌め、”商人の墨は士人の墨に劣る”とするのは大きな誤りである。封建社会においては、人々が階級と職能で分類された社会で生きていて、ひとつのことにだけに専念していたと考えてしまいがちである。しかしすくなくとも徽州という地域には、それは当てはまらないようだ。

明代の名墨匠、程君房の出身地は巌寺鎮であるとされている。「歙事閑譚」には「程君房所刊尺牘」という項があり、そこには程君房が蒐集し、出版した著名人の尺牘集の内容が記載されている。この中で「古歙篠野程大約編」とあり、また「〜新安牛槐程嗣功序」とある。この程嗣功なる人物の序文には「槐水之陽」という印があり、歙事閑譚では程嗣功は槐塘の人物であろうと考証している。またこの程嗣功は程大約すなわち程君房の「族弟」と称していると書かれている。この程君房が出版した尺牘集は、方用彬の「七百通」と同様、当時の徽州士大夫の交友の様相を知る上で、貴重な手がかりを残していると考えられるが、歙事閑譚に掲載されているのはその概略に過ぎない。ともあれ歙事閑譚の記述からは、程君房が槐塘の程氏と宗族関係にあったことが伺えるのである。
また「新安牛槐程嗣功序」と「古歙篠野程大約編」という署名には、対応関係があると考えられる。「牛槐」という号が地名を暗示しているのであれば、「篠野」も、地名を指している可能性がある。この「篠野」というのは、程君房の別号として知られている。”号”に、住んでいたかあるいは出身地を示す語を用いることは多い。「篠野」というと「細い竹の生えた野原」というほどの意味である。そのような地名は、現在の徽州ではみられない。方于魯の出身地である「聯墅」と同様、今では消えてしまった地名であるという可能性もある。
もうひとり、槐塘には程京萼(てい・きょうがく:1645〜1715)という気になる人物がいる。書の名手として知られ、八大山人の親しい友人でもあった。
墨は徽州の墨がよく、徽州の墨はとりわけ歙県の墨が良いと評される。しかし歙県でもさらに巌寺鎮から西は西溪南、東はこの槐塘周辺に、著名な墨匠の出身地があることがわかってきた。現在は近代化からとりのこされ、観光整備もすすまないままにうずもれている古村落であるが、いずれもかつては高度な文化水準を誇った市鎮なのである。
とくにこの槐塘などは、学問といっても文学や詩だけではなく、当時の最先端の薬学の研究が行われていた地域である。徽州の墨が他の地域を圧して優れており、またその伝統が長らく続いたのも、関連する産業の継承・発展と無関係ではないだろう。今後の保全が心配な槐塘であるが、徽州製墨の源流を訊ねる旅も、ここでようやく核心に近づきつつあるような気がしてならない。
落款印01


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