羅小華と蛟龍 〜呈坎羅東舒祠

祖先崇拝の“廟(みたまや)“である宗廟は、祖先の中でも特に功績をあげた”偉人“を中心に祀られている。偉大な祖先を神格化し、その祖先の功業を神話として語り継ぐのは、世界各地に見られる”信仰“の原初的な形態である。それだけに、徽州各地の宗廟・家廟を目にすると、あたかもそれが紀元前の昔から延々と信仰されてきたものであるあのように錯覚してしまう。しかし徽州に現在も残る宗廟の多くは、明代後期から清朝初期にかけて作られたものなのである。
羅東舒祠の蛟龍安徽省歙県、呈坎(ていかん)鎮にのこる羅東舒祠(らとうじょし)は、13代目の羅氏宗主である羅東舒(らとうじょ)を祀(まつ)った祠堂(しどう)である。
この羅東舒祠の来歴を調べると、この宗廟の建設を開始したのは、呈坎羅氏の21代目の宗主である羅潔宗(1494〜1553)であるとされる。しかし嘉靖十九年(1542)に“ある事情”によって建設が中断され、それから70年もの間、工事が中断したままになるのである。万歴年間に入りようやく、呈坎羅氏22代目の宗主である羅応鶴(ら・おうかく:1540〜1630)が、その建設工事を完成したとされる。ところがこの羅応鶴の父親は羅灌宗(ら・かんそう)という人物で、別の資料ではこの羅灌宗が呈坎羅氏21代目の宗主ということになっている。呈坎羅氏宗主の21代目には、羅潔宗と羅灌宗の2名が存在したのであろうか?

実は呈坎羅氏には“前羅“と”後羅“の二系統が存在するのである。またその家廟も”前羅家“と”後羅家“の二つに分かれて存在していたという。呈坎の羅氏が二系統に分かれるようになった原因は、その通婚の習慣が影響しているといわれる。中国の古代社会における交換婚の名残であろうか、羅氏の中でも朱姓の宗族と通婚を重ねた一派が”前羅“になり、汪姓の宗族と通婚した一派が”後羅“になったのである。いわばそれぞれの外戚の影響により、羅氏そのものが二派に分かれてしまったというのだ。この”前羅“と”後羅“は呈坎の中にあって互いに対立する関係にあり、とくに風水上優れた土地をめぐっての静かな抗争を繰り広げてきたという。

男系による姓の相続で成り立つ父系宗族社会は、同姓での通婚をタブーとすることで必然的に別姓の”外戚”を身内に招いてしまう。この外戚の勢力の拡大により、宗家の姓が次第に少数派に転化するという、制度上の欠陥を持っているのである。しかし同姓婚をタブーとしなければ、儒教の同姓尊重の原理と重なることで、おそらくは近親婚の積み重ねによる血統そのものの衰退を招いたであろう。同姓不婚というのは儒教の成立以前から存在した風習であり、儒教の教え以前のいわば常識であったため、特に儒教で明文化されて禁忌とされたわけではない。

羅潔宗は呈坎羅氏の中でも“前羅”の系統である。では羅灌宗、羅応鶴は“後羅”なのかとも考えたが、そうではなく羅応鶴も歴とした前羅の系統なのである。しかし羅応鶴が前羅の22代目であり、その父親の羅灌宗が21代目ということであれば、羅東舒祠を起工した羅潔宗が21代目ということと矛盾してしまう。
この点について羅氏家譜は沈黙しているのであるが、ここにはおそらく羅龍文こと羅小華が関係した、明王朝への大逆事件が関係していると考えられるのである。そもそも22代目の羅氏宗主は羅龍文なのである。また長子相続が普通であることを考えれば、羅龍文の父親は羅潔宗と考えて良さそうである。
残念ながら、呈坎羅氏の詳細な家譜はいまだ閲覧の機会に恵まれない。ゆえにともに21代目の羅潔宗と羅灌宗の関係について、その詳細は明確にはわからない。しかし互いの名に「宗」の一字を共有することからみて、兄弟かあるいは宗族内の同世代の人物というのは間違いないところであろう。
呈坎の伝承では、羅小華が厳世蕃とともに都で斬刑に処されたとき、羅小華の家族も軒並み処刑の憂き目にあったという。羅小華の息子の羅王常が、改名してまでその身を隠さねばならなかったことが事実であるとすれば、その累が家族にまで及んだということもおそらく事実であろう。
この際に刑を受けたのが、その一族のどの範囲までのものかはわからない。中国では「族滅」といって、宗族皆殺しという例もある。ともあれ21代目の宗主の羅潔宗の没年は、羅龍文が刑死する以前である。とすれば厳世蕃の逮捕時には、羅氏の宗主は既に羅龍文に代替わりをしていたはずである。宗主とその家族の処刑は、呈坎の羅氏を震撼させたことだろう。また羅龍文が刑死した後、しばらく宗主が空白の時期があったのかもしれない。
どういう経緯か、羅応鶴が22代目の羅氏宗主に納まったとき、あわせて21代目の宗主を羅灌宗となるように、家譜を修正したと考えられる。
“前羅”22代目宗主となった羅応鶴という人物は、明代の呈坎羅氏の中でも優れた人物の1人である。もともと“前後”の羅氏では「前商後儒」というように、前羅の一族は商業の道に、また後羅の一族は官吏となる傾向があったという。政和二年の進士で吏部尚書に登った羅汝楫、「羅鄂州」で知られ朱熹にも賞賛された羅願、また紹熙四年進士の羅似臣などは“後羅”の系統である。
羅応鶴は“前羅”であるが、このときは官界を志したようだ。隆慶辛未年(1571)に進士、官は都察院右僉都御史、誥封嘉議大夫を歴任し、戸部侍郎にまで登った。中年以降は思うところがあって官を辞して帰郷し、著書の執筆、後裔の指導にあたったという。羅龍文の父親が着工した羅東舒祠は、この羅応鶴の手によって完成をみるのである。
羅東舒祠の蛟龍前羅氏族譜の記載によれば、羅東舒祠は羅潔宗が嘉靖十八年(1539)に創建したが、「后寝几成遇事中辍,循垂70年」とある。つまりは「後寝殿がおおよそ出来たところで、“遇事“が発生し、停滞してそのまま70年が経過してしまった。」というところである。しかしその理由は族譜には記載されていない。
この中断の原因は、後寝殿が“九間(およそ16.2m)”の広さをもち、彩絵に黄色を使用し(黄色の使用は通常皇室に限られる)、さらに“鯉魚吐水”の彫刻にある鯉魚の頭が、どうみても成竜の頭であったからであると言われている。龍を意匠に用いるのは、原則として皇族に限られる。つまりは臣下の分際を越えた建築であるという事だ。ただしこういった建築の格式というのは、功績によっては特例が許されることがある。
建築計画が中断した正確な経緯は明らかではないが、基準を超える建造物を建築しているということで、工事の差し止めを命令されたと考えられる。しかし基準に合わないからといって、取り壊して規模を縮小して完成させるということはしなかったようだ。どうも工事を中止にしたまま、許可がおりる時期を待とうという腹だったのかもしれない。歙県に残る許国の八脚牌坊や、許村にのこる許氏宗廟の格式などは、追認という形であるが基準以上の建造物を認められているのである。
羅潔宗から羅氏宗主を継承した羅龍文であるが、その念頭に羅東舒祠の完成がなかったということはないであろう。しかし壮年の頃に郷里を離れ、浙江で倭寇と戦い、ついで北京で厳嵩・厳世蕃と行動をともにし、その厳嵩父子が失脚するや呈坎に戻って厳世蕃を匿い、最後は厳世蕃と揃って逮捕され、都で処刑されてしまったのであれば、羅東舒祠の完成に手をかける暇はなかったであろう。
羅東舒祠の建設が中断していた理由が、臣下の分際を越える建築物であることを、朝廷に咎められたということが事実であれば、宗主である羅龍文の反逆罪による処刑と、その罪の重さを考えればどうであろう。羅龍文に代わって宗主となった羅応鶴としても、とてものこと、羅東舒祠の建築をすぐに再開することなどは、思いも寄らなかったに違いない。

この羅東舒祠の後寝殿には18枚の見事な石雕欄板(せきちょうらんばん)が存在する。羅東舒祠の伝承によれば、この石雕欄板は績溪県の胡宗憲の族人が、羅応鶴に贈った品であるといわれている。もともとこの羅東舒祠には38枚の石雕欄板が贈られたが、この18枚のみが建物に使用され、残り20枚は廟内のいずこかに埋設されたという。
羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍
倭寇討伐に活躍した胡宗憲は、倭寇の頭目である王直と内通した嫌疑をかけられて、また失脚した厳嵩との共謀を疑われて投獄され、冤罪を訴えながらついに獄死している。その後、胡宗憲の一族はその冤罪と名誉回復を訴えていたが、明代も万歴年間になってようやく羅応鶴がこの案件をとりあげ、胡宗憲の冤罪を晴らしたのである。石雕欄板はその御礼に績溪の胡氏から贈られたものであるといわれている。羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍もとは38枚あったといわれる石雕欄板のうち、18枚のみを羅東舒祠の後寝殿で観ることが出来る。そのことごとくが、蛟龍(こうりゅう)が霊芝(れいし)と戯れる図である。空想上の神獣である蛟龍の意匠は、あたかも現実の動物であるかのように生き生きと描かれており、小生がこれを初めて目にしたときは、新品の模造品かと思ったほどに状態は完美であった。明代後期における、徽派彫刻の代表作のひとつと言って良いだろう。
小生はこの18枚の石雕欄板をはじめて目にしたとき、どうにも羅小華の墨を思わずにはいられなかった。羅小華の墨で現存するものを目にする機会は少ないが、「墨表」に記載されている墨銘から、その意匠に“龍“が用いられているものが多いことがわかっている。”龍“といっても、成龍を意匠に用いるのは皇族の持ち物に限られていた。通常士大夫に許されたのは、成龍未満の蛟(みずち)、すなわち蛟龍(こうりゅう)である。明末の方瑞生の著した「墨海」には、羅小華の墨の図案が数点記載されている。やはり龍、あるいは蛟龍を扱ったものが過半を占めている。以下にその図像を示す。
羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍羅小華は“華道人”あるいは“小華道人”と号し、墨銘にもその号を用いたものがある。あるいは“小道士”という、玄宗皇帝の伝説に基づく墨銘を用いている。“道人”というのは、言うまでも無く道教に帰依した人物が用いる号である。羅小華が道号を用いたのは、おそらくは厳嵩との関係が影響しているのだろう。厳嵩は道教に精通し、道術に耽った嘉靖帝の信任を得た経緯がある。羅龍文が厳嵩に取り入る契機となったのが、伝説どおりにその墨なのであれば、墨の意匠に道教思想を反映させたものを作ることを、羅龍文が考えないはずがない。唐の玄宗皇帝の文治政策を讃えた“小道人”の墨などは、厳嵩を通じた嘉靖帝へのアピールを意図していたと考えられなくもない。
羅東舒祠の蛟龍ここで羅東舒祠の石雕欄板に戻ると、18枚の欄板のすべてが、蛟龍が霊芝(れいし)に戯れる図である。霊芝は不老長生の仙薬とされ、道教思想と深く結びついた植物であり、出現自体が瑞兆とされるものである。霊草と神獣とが結びついたこの意匠は、これでひとつの招福の図案となってはいる。しかし吉祥や瑞兆ということであれば、他にも数多くの図案がある。神獣も、蝙蝠でも獅子でも鯉魚でも良いのである。執拗なまでに蛟龍と霊芝の図案が繰り返された、この一連の石雕欄板を見ていると、どうしても羅龍文を想起せずにはおれないのである。
績溪の龍川(りゅうせん)は胡宗憲の故郷であり、かれは龍川胡氏の宗主の地位にあった人物であった。この胡宗憲の冤罪と獄死にいたる経緯には、実は羅龍文が関係しているのである。
権勢を誇った厳世蕃は、度重なる弾劾を受けてついに失脚し、その義兄弟であった羅龍文とともに逮捕される。厳世蕃と厳嵩、およびその取り巻きである“厳党”とよばれた一派への追及は厳しく、胡宗憲も関与を疑われ一度投獄される。しかし嘉靖帝は胡宗憲を信頼し、一旦は胡宗憲は釈放されるのである。
ところが都(北京)の羅龍文の家が家宅捜査された際に、胡宗憲から厳嵩と厳世蕃へ宛てた手紙が発見され、これがもとで胡宗憲は再び投獄されてしまうのである。一説では、この手紙を代筆したのは胡宗憲の幕僚を務めていた、徐文長こと徐渭であったとも言われる。
実際のところ、胡宗憲が厳嵩へ接近しようとしていたのは事実であったらしい。ただ厳世蕃の処刑の原因になるような、倭寇や日本などの海外勢力との内応の事実はなかったということだ。厳嵩へ誼を通じようとした手紙の発見によって、胡宗憲も“厳党”であるとみなされ、倭寇との内通の嫌疑とともに再び投獄されるのである。
胡宗憲は正式に罪に服したのではなく、嫌疑をかけられ投獄されたまま、獄中で(一説では食を断ち)死去する。厳世蕃と羅龍文は処刑されるが、厳嵩自身は死一等を免じられ、家財没収、庶人に階級を落とされた上に郷里に追放されている。しかし世論としては、胡宗憲は倭寇と内通した“売国奴“であるという評価が固定したまま、嘉靖帝の治世は終わる。
胡宗憲の冤罪に関しては、隆慶六年(1572)に江西安陸の人で、兵科給事中の劉伯燮が上書しその冤罪を弁じた。劉伯燮は隆慶年間の進士であるが、かつては胡宗憲の下で対倭寇の戦いに活躍した人物である。この劉伯燮の訴えが奏功し、胡宗憲は倭寇平定の功績をもって追封をうける。しかし胡宗憲が倭寇と内通した裏切り者であるという公論は、いまだ根強く残っていた。
明代後期にあっては、北方の国境線は女真族の進入を受け、沿岸部は倭寇が荒らしまわるなど、明の国土はとかく国外勢力に圧迫されていた。当時の江南地方には外国人に対する反感や、排外的な気分が充満していたようである。宣教師のマテオ・リッチも、南京から退去させられるなどの迫害を受けている。そういう外国嫌いの機運というのも、考え合わせる必要がある。
しかし反逆の罪で厳世蕃とともに処刑された羅龍文については、政治犯以外の何者でもない。羅氏の宗主にあった者が、世間からそうみなされているというのは、羅応鶴を初めとする呈坎羅氏としても肩身が狭かったことだろう。宮廷の高官にのぼった羅応鶴としては、官界にあっては呈坎羅氏の名誉回復に努めたことは想像に難くない。
中国の量刑には、功績を以って罪を帳消しにするという、面白い考え方がある。場合によっては罰金を支払って帳消しにしてしまう。この帳消しの感覚というのは実にさっぱりとしたもので、文字通り罪が消えるというわけで、後々までそれで後ろ指を差されない。この点の“罪”に対する感覚は、日本人とは随分違ったものだろう。日本社会のように「脛に傷」というようなことが、いつまでもついて回るということがない。
羅応鶴としては、羅龍文にも功罪あったことくらいはせめて認めてもらいたい、と考えただろう。羅龍文の功績といえば、なんといっても倭寇討伐に活躍したことで、これは動かしがたい事実である。しかし肝心なことに、その当時の上官であった胡宗憲が倭寇と内通した汚名をかぶったままである。
万歴16年(1588)には徽州の汪道昆、許国が再度上層文を上書し、胡宗憲の冤罪を弁明した。このとき汪道昆は官を辞して郷里にあったが、かつて胡宗憲を助けて倭寇討伐に活躍し、隠棲してからは文壇に大きな影響力を有していた。また許国は嘉靖〜万歴の三朝に仕えた朝廷きっての元老であり、その門下生の多くが進士に及第して官界にあった。この両名の訴えは、相当に効果があったと考えられる。またこのとき関係当局にいた羅応鶴もとくにこの案件を取り上げ、胡宗憲の汚名撤回に大きく貢献したのである。
翌年になって胡宗憲の孫である胡灯が奏上し、胡宗憲の棺を故郷の天馬山に帰郷させ、ここに葬ることが許された。また神宗皇帝は胡宗憲に諡号として“襄懋”と、さらに諡文をたまわった。そして特に“抗倭名臣”の扁額を下賜したのである。これによって胡宗憲の名誉は完全に回復したと言って良いだろう。ゆえに龍川の胡氏は、羅応鶴に深く感謝したのである。
胡宗憲は内通の嫌疑のみ晴れれば、倭寇討伐と治安回復に果たした功績は大きなものであった。羅龍文も、倭寇の大頭目の徐海を投降させる際に重要な役割を果たしている。羅応鶴が胡宗憲の冤罪案件を取り上げた際には、おそらくは呈坎羅氏の名誉回復も意識の上にあったことだろう。
最終的に羅龍文の功罪について、どのような配慮があったかは不明である。しかし万歴帝神宗が羅小華の墨を酷愛して買い集め、市中から羅小華の墨が消えてしまったという事実を見れば、羅龍文に対する名誉も回復されたことが察せられるのである。
いかに羅小華の墨が優れていたとしても、反逆の汚名を持った人物の作った墨を、皇帝が蒐集を命じるわけにはゆかないだろう。公然と赦免することは無理であったにせよ、あるいはそういう形で羅龍文への恩赦を、世間にしらしめたのかもしれない。羅小華の息子の羅王常も、晩年になってようやく羅姓を名乗ることができたと述べているが、ここにも羅応鶴の働きが感じられるところである。
こうした羅応鶴の運動というのは、要路に多額の金をばら撒く必要があったことは想像に難くない。“前商後儒”と言われた前羅出身の羅応鶴であれば、それを賄うことも充分可能であったであろう。その経済力の凄まじさというのは、羅東舒祠の壮麗さから充分に伺えるところである。
羅応鶴は45歳(数え年)の時に父親が死去し、葬儀と喪に服するために一時帰郷することになった。帰途に着く間際に、郷里の大先輩である許国の執務室に呼ばれるのである。そもそも許国と羅応鶴は、師弟関係にあったといわれる。進士に及第する前の許国は、母親の故郷である霊山村で教鞭をとっていたのだが、そのときの生徒の1人が羅応鶴であったというのだ。霊山村が呈坎に程近いことを考えると、ありえない話ではない。
羅応鶴を前にした許国は「わしもそろそろ引退を考えている。貴君が父君の葬儀のために帰郷するにあたって、この箱を贈る。郷里に帰ってから開きなさい。」といって、木箱をひとつ渡したのである。羅応鶴が呈坎に帰って葬儀を済ませてから箱をあけると、中から羅応鶴に対する弾劾の書状が、束になって出てきたのである。
つまりはそれらの弾劾文は、朝廷の元老である許国がすべて握りつぶしてきたのである。許国も引退するにあたって、もうこれ以上は庇うことが出来ないということを羅応鶴に伝えたのであった。この意味を悟った羅応鶴は官を辞し、以後は郷里で著作や羅東舒祠の建設に専念することになる。
(羅応鶴が弾劾を受けた背景には、呈坎羅氏と西溪南呉氏の間の確執にあると言われているが、長くなるのでこのことは別の機会に)
あまりにも壮麗なために規制にかかり、建設が中断していた羅東舒祠は、当初の計画をより拡充させた形で完成している。それが可能であったのも、嘉靖年間以降に宗廟の建築基準が緩和されたことと、羅龍文の名誉回復、くわえて宮廷における羅応鶴の功績が大きかったことによるのだろう。
胡宗憲は厳嵩・厳世蕃と羅龍文の失脚に巻き込まれたともいえるが、胡宗憲の方から積極的に厳嵩に接近しようとしていたことも事実のようで、そこにはいささか梟雄めいた性格もうかがえなくは無い。しかし厳嵩・厳世蕃は、正史の上では史上屈指の佞臣であるとされているが、胡宗憲は明代後期の名将・功臣であると評価されている。羅龍文は功罪相殺したものの、その名前自体が、政治史の中では小さな存在になってしまったようだ。「明史」の中でも別伝を立てられるには至らず、奸臣の厳世蕃の伝記の中に登場するのみである。しかし文化史の面では、明代最高の墨匠という評価を残し、後世の製墨業に与えた影響は計り知れない。製墨に限らず書画や詩文、骨董の鑑別に明るく、また金石学や古印研究の先駆けを成した1人なのである。
胡宗憲と羅龍文の関係を考えると、胡宗憲の失脚と獄死の近因に、羅龍文がいたという見方も可能である。その胡宗憲の名誉回復に、羅龍文に代わって羅氏の宗主となった羅応鶴が深く関わり、また胡宗憲の復権によって羅龍文の罪も軽減されたのであるとすれば、そこにはなにか“因果”のようなものを感じないわけにはゆかない。胡宗憲の子孫から羅応鶴に石雕欄板が贈られたのも、その因果の帰結を思わせるものである。
羅東舒祠の蛟龍これらの欄板に刻まれた、蛟龍の躍動感溢れる姿には、羅龍文の精力的に生きた生涯を想起させるものがある。この欄板を後寝殿に配した、羅応鶴の真意はどのようなものであったのだろうか。
羅東舒祠は祖先崇拝を目的とした建物であり、別に前羅氏の宗廟がありながら、特に功業のあった羅東舒を祀(まつ)るために別につくられた建物である。前羅氏の宗廟は歴代の宗主を中心として祀られるのであり、羅応鶴も死後はこの羅氏宗廟に祀られる。しかし本来の22代目の宗主であった羅龍文は、宗主として宗廟に祀られることはないのである。とすれば、羅東舒祠にこの石雕欄板を配することで、羅応鶴としては羅龍文の霊を祀る意図があったのではないだろうか…というのは小生の推測に過ぎない。どこにもそのような記録はない。しかしこの18枚の欄板の蛟龍を見ていると、そこに羅小華の姿を見るようでならないのである。
落款印01


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