蘇軾と油烟墨 〜「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」

松烟墨が主流であったと考えられる宋代であるが、油烟墨が皆無ということではなかった。明代に本格化する油烟墨の製造は、その普及の端緒は宋代に現れていたと考えていいだろう。理由のひとつには松烟の原料となる松林の資源が不足し始めたこと、また江南の開発の進展によって、油脂の生産量が徐々に増加したことが挙げられるかもしれない。
北宋の蘇軾の詩に「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」というものがある。蘇軾の友人である欧陽季黙が、蘇軾のところへ油烟墨を二つ持ってきたという。その際に戯れに作った詩であるということだ。
欧陽季黙は北宋八大家のひとり、欧陽脩(おうよう・しゅう)の息子である。名に「季」とあるので、おそらくは四番目の息子であろう。蘇軾には他に「送欧陽季黙赴闕」という詩がある。蘇軾が科挙に応じて及第した際、試験監督は欧陽脩であった。合格者にとっては、自分の答案すなわち文章を認めてくれた人物ということで、試験監督と合格者は師弟関係を結ぶのである。欧陽脩は蘇軾の文才を高く評価しており、自然とその交際は息子の世代を交えたものになったと考えられる。
ともあれ「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」を読んでみたい。

書窓拾軽煤、佛帳掃余馥。
辛勤破千夜、収此一寸玉。
癡人畏老死、腐朽同草木。
欲将東山松、涅尽南山竹。
墨堅人苦脆、未用嘆不足。
且当注虫魚、莫草三千牘。

書窓(しょそう)に軽煤(けいばい)を拾い、佛帳(ぶっちょう)の余馥(よふく)を掃(は)く。
辛勤(しんきん)は千夜を破り、此(ここ)に一寸の玉(ぎょく)を収める。
癡人は老死を畏れるも、腐朽(ふきゅう)すれば草木(そうもく)に同じ。
将に東山の松を欲すれば、涅(そ)め尽くす南山の竹。
墨は堅けれど人は脆(ぜい)に苦しみ、足らざるを嘆いて未だ用いず。
且(か)つ当(まさ)に虫魚(ちゅうぎょ)に注ぎ、三千牘(さんぜんどく)を草(そう)す莫(なか)れ。

一句目「書窓拾軽煤、佛帳掃余馥。」とある。「書斎の窓」といっても、現代のように板ガラスがはめ込んであったわけではない。「柳窗」というように、換気と採光ができるように隙間模様が施された窓であったことだろう。その「窗(まど)についた煤を集めるというが、これは夜間に蝋燭や灯心を燃やして勉学に励んだことを暗示している。また「佛帳」とあるが、佛壇にめぐらされた「帳(とばり)」である。この煤を払うという事だから、これも夜間に読経に励んだことを暗示している。
蘇軾は士大夫の常として、詩作や文学研究に励む一方で、深く佛教に帰依していたのである。この油烟墨は欧陽季黙がもたらしたものであるが、あるいは欧陽季黙も同じような生活習慣の持ち主であったのかもしれない。すなわち「辛勤破千夜、収此一寸玉」なのであり、幾夜も幾夜も学問と読経に励んだ結果、かき集めた煤を固めて、墨が出来てしまうほどであったということである。蝋燭や灯心を燃やせば、当然のことながらいくらかの煤が出る。
寺院などでは、仏像や天井にすくなからぬ煤が付着し、時折それを掃除しなければならないことは日本でも中国でも変わりは無い。しかし個人の書斎や仏堂で、墨が作れるほどの煤を採取しようと思えば、どれほどの歳月を要するであろうか。もちろん、詩にうたわれている内容を真に受ける必要は無く、複数の家々から集めた煤で作られた墨かもしれないが。
日本でも江戸時代になると、灯心を燃やして明かりをとる生活が庶民の家庭にも広まった。燈明には当然のことながら煤が出るが、その煤を回収する業者が存在した。回収した煤は印刷用の顔料や、安価な墨の製造に使用されたという。
次の「癡人畏老死、腐朽同草木」というのは、蘇軾が傾倒した佛教の教えに基づく死生観であろう。
そして「欲将東山松、涅尽南山竹」ということである。「将に東山の松を欲せんとして」とあるが、この場合の東山は孔子の故郷、魯の国(現山東省)の“東山”を指すのだろう。「蓬莱の松」というように、古来から魯の国の松は著名であり、当然松烟の生産も行われたであろう。孔子の時代は筆記に際しての紙の使用が一般化する以前であり、墨も現在のような硯で磨って墨液を得るものではなかった。煤を固めただけの「墨丸」と呼ばれる墨を砕いて漆や膠に混ぜ、木簡や竹簡に書いていたと考えられる。
孔子の故郷は学問(=儒教)の聖地である。東山の松を欲する、というのは同時に学問の道を志すということである。しかし「涅尽南山竹」と言っている。ここでの「南山」はもちろん唐の都長安の南方の山、終南山を指す。終南山の麓には、漢の武帝の陵墓がある。北宋の首都は開封であるが、長安の南の終南山といえば「都」の暗喩する語であり、さらに言えば官吏として宮廷に仕える「宮仕え」の象徴でもあるといえる。
また「終南山の竹」というのは、自生している竹のことではなく古代の筆記用媒体である「竹簡」のことであろう。「涅(そ)める」の「涅」はもともと墨で黒く染めるという意味がある。つまりは官界にあって、行政文書や奏上文を書くことになったことを言うのだろう。「尽(つ)くす」という表現には、多くの仕事に追われた日々があったという意味が込められているようだ。また『欲将』には、「〜を欲していたところが」という意が含まれている。つまりは学問を志していたのに、いつのまにか官界にあって官吏としての仕事に追われていた、という意味にとれる。
士大夫の子弟は幼い頃から学問に励み、学問に励むということは究極には科挙に合格し、官界で栄達することが目的であった、というのが一般的な価値観である。蘇軾自身もそのような道を歩んできたはずであるが、この詩では官界での栄達とは無縁の、純粋な学問への関心という価値観をとなえているかのようである。
つぎに「墨堅人苦脆、未用嘆不足。」ということである。「墨は堅けれど人は脆(もろ)きに苦しむ」ということであるが、これは「非人磨墨墨磨人」に似た感情の吐露であろう。墨を惜しんで使わないうちに、人は老いていってしまう、ということで「足らざるを嘆いて未だ用いず」につながる。この油烟墨もごくわずかな量なので、惜しんで使わないでいるうちに、墨は堅くもとのままだが人は年老いてしまうのである。
最後の「且当注虫魚、莫草三千牘。」であるが、「虫魚(ちゅうぎょ)」は、文献の注釈のこと。「虫魚に注(そそ)ぐ」あるいは「虫魚を注(ちゅう)す」とも読めるが、いずれにせよ古代の文献に注釈を施すことであり、純然たる文学研究を行う事である。つづいて「三千牘を草(そう)す莫(なか)れ」ということであるが、「三千牘」とは奏上文のことである。すなわち「史記」の「滑稽列伝」には“(東方)朔初入長安 、至公車上書、凡用三千奏牘。”とある。つまりは「三千牘」といえば、皇帝に向けた長篇の奏上文のことである。また特に諫言をいう事がある。蘇軾も他に「次韵子由送千之姪」に“閉門試草三千牘、仄席求人少似今。” として是を用いている。
つまりは学問や佛道研究に励んで得られた、この貴重な油烟墨は、政治の世界で用いるべきではなく、純粋な学問のために使用するべきである、と言っているのだろう。ここに現れている価値観は「欲将東山松、涅尽南山竹。」に対応するものであり、学問に励むのは何も官界での成功のみを目指したものでは無い、というところだろうか。一応、大意を示しておく。

(大意)
書斎の窓から煤をかき集め、仏壇の帳(とばり)からも煤を掃いて集める。
学問と仏門に捧げた苦労は千夜にもおよび、(出来た煤で)こうして玉にも等しい希少な油烟墨が出来た。
オロカな者は死を恐れるが、人間死ねば朽ち果てて草木と変わりないものだ。
(学問を志して)孔子の故郷、魯の国の松を求めたが、結局は終南山を仰ぐ都に出て、宮中の竹簡を墨で黒く涅(そ)めることになった。
墨は堅いといえど、人の一生は脆くもはかないものである。しかし量の少ないのが惜しまれて使う事ができない。
まったくもってこの墨は経典の注釈など学問に用いるべきで、奏上文を書くことに用いるべきでは無いよ。

蘇軾の生涯を振り返ってみれば分かる事であるが、二度の大きな毀誉褒貶を経験している。一度は投獄されて死刑になりかけているし、また後の流刑は事実上の死刑である。
蘇軾が合格したのは科挙でも政治エリートを選抜する「賢良方正能直言極諫科」である。その名の通り皇帝に「直言」し「極諫」する人物として選別された蘇軾であるが、有名な新法と旧法の派閥抗争の渦中にあって、新法派から詩文によって皇帝を誹謗・中傷したとして告発される。つまりは「諫言」は良いが「侮辱」してはいけないということである。この告発は蘇軾に敵対する新法派が仕掛けた、多分に「言い掛かり」的な告発と考えられている。しかし若い蘇軾自身も、弾劾で指摘されたような皇帝・朝政批判の気分を、詩文に織り交ぜていなかたとは言い切れ無いものがある。
いわゆる「筆禍」なのであるが、蘇軾はこれを「身から出た錆」として深く後悔し、死一等を免ぜられて都を追放されて以降、悔恨と恭順の姿勢を繰り返し詩文にうたっている。卑屈なまでの自己批判を繰り返すのだが、中央の政敵に対する“ポーズ”という意味合いもあったであろうし、同時に若気の至りを悔いる気持ちもあったであろう。
この「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」が、いつ頃読まれた詩であるかはわからない。老境に入った人物の思索が感じられるところもある。しかし「三千牘を草(そう)す莫れ」という気分には、宮廷にあって筆禍にあった過去を悔恨する感情が読み取れる。「宮仕えはもうこりごり、野にあって経典の注釈でもしていたほうがいい。」という気持ちが見えるのである。また「死」を暗示する語が散見されるところをみても、一度目の投獄より釈放され、地方官に左遷(事実上の流刑)された頃の作詩であるかもしれない。
ところで蘇軾が墨や墨匠についてよんだ詩は多いが、ここではわざわざ「油烟墨」と、墨の材料を明記している。つまり宋代では一般的に「墨」といえば「松烟墨」のことであり、油烟墨というのはやはり少し珍しい墨であったのだろう。
またこの詩でうたわれている油烟墨というのは、詩文でうたわれている通り、本当に書斎や佛堂の煤をかき集めて作った墨かどうかは定かでは無い。しかし墨の鑑別、製法に詳しく、名墨匠である潘谷と交際し、自ら墨を製したという蘇軾である。もしこの墨が、明代の油烟の採烟法に見られるような、複雑な工程を経て作られた油烟墨であれば、それを詩にうたったことであろう。宋代における油烟墨の製造については情報が乏しいのであるが、生活から出る廃物を利用して、油烟墨が作られていたことは事実としてあったことであると考えられる。
蘇軾の「黄州寒食帖」は黄州(今湖南省黄岡県)に流されていた頃に書かれたが、湖南省は当時から桐油の原料であるアブラギリ(シナアブラギリ)が多く自生し、現在でも桐油の生産が盛んであった。ここで蘇軾は製墨を試みなかったであろうか。
蘇軾が墨を製したという逸話は、蘇軾よりやや後代の葉夢得(1077〜1148)が「避暑録話」の中に書いている。葉夢得は北宋にあって中書舎人、翰林学士を歴任し、汝州の知事をつとめた。また宋が南宋へ移った後も建康(江蘇南京)知府を任され、抗金の戦いの最前線にあってよくこれを防いだ人物である。若い頃に蘇軾に師事したといわれている。原文は長いので併載せず大意のみ示すが、
「宣和の初年頃、潘衡という江西で墨を売るものがいた。自ら海南で蘇軾と一緒に墨を作り、その秘法を得たと言ったので、人は争って是をもとめた。私は許昌で蘇軾の四番目の息子の蘇過に会い、このことを訊ねてその秘法を求めた。しかし蘇過は笑って言うには『なんの秘法がありましょうか。そんなのもは私も知りません。潘衡さんが来たときに私も居合わせましたが、別室を使って煤を採っていたところ、夜半に失火し、部屋ごとすべて燃えてしまったのです。灰燼の中に煤をわずかに数両ほど得られたでしょうか。しかし膠を作る法を知らなかったため、牛の皮を煮て自ら膠を作り、この煤と混ぜましたが、型入れすることが出来なかったのです。それで握って固めた、ちょうど指先のような墨が数十出来たばかりだったのです。父は腹を抱えてわらいましたが、潘衡さんはこの失敗を謝って立ち去りました。』ということだった。おそらくは後に潘衡自身で製法を研究し、墨癖のあった蘇軾の名を借りてこれを宣伝したのであろう。潘衡はいま銭塘(杭州)にいるが蘇軾の名を借りたがために、墨の売値は以前の数倍になった。しかし潘衡の墨が良い墨であるというのもまた事実であり、墨の品質を以って名声を得たのである。(蘇軾に名を借りた虚名ではない)」
葉夢得は世代的には蘇軾の息子の蘇過と同世代であり、実際にあって聞いた話を収録したと考えられる。蘇過は「小東坡」と言われ、もっともよくその文才を受け継いだとされる人物である。また葉夢得も文房四宝に深い関心を寄せ、造詣が深かったことは「避暑録話」から伺える。
潘衡は名墨匠として名を残しているが、墨匠というよりは墨の商人であった、という説もある。墨匠であれば、膠の製法に詳しくないというのは、たしかに不自然ではある。蘇軾の名を借りて大いに利益を上げた、という言われ方もあるが、葉夢得は潘衡の墨も優れていると述べている。そもそも海南島というのは当時の中国ではまさに地の果てであり、酷暑と風土病の地である。そこへ左遷(流刑)されるということは、蘇軾にとっては事実上の死刑なのである。その蘇軾をはるばる訪ねた潘衡の心情も、単なる商略を越えたものがあったであろうし、僻遠の地で屈託無く製墨に親しんだ、晩年近い蘇軾の人格もまた博大である。
この葉夢得の文は、蘇軾が製墨を行ったという伝説の、おそらくはもっとも信じるに足る資料である。後世この話が流伝する過程で潘衡がこの故事を利用して「南海松煤」という墨を作ったとか、二人は松脂(まつやに)を燃やして煤を採ろうとしたというような話も作られている。「南海松煤」あるいは「南海松烟」という名称の墨は、近代でも見られるが、「南海」は蘇軾の流刑の地、海南島での潘衡との故事によるのである。
「松脂(まつやに)」を燃やそうとした、というのはどうだろう?蘇過の話が事実であるとすれば、蘇軾と潘衡は室内で煤を採取しようとしたようである。とするとたくさんの樹皮を重ねて燃やす“松烟”を採取しようとしたというよりも、室内に灯心をたて、なんらかの油脂を燃やして煤を採取しようとしたとも考えられる。「松脂を燃やした」ということは蘇過の話の中にはどこにも出てこないのであるが、そもそも松烟の採取に老松を燃やすのは、樹皮に多くの松脂がしみこんでいるからであった。それならば直接松脂を燃やした方がよかろうというのは、なるほど核心をついた着想ではある。また蘇軾は松脂を用いて藥酒を造ったとか、松脂を薬として服用していたという記録も残っている。
煤はともかく、墨用の膠の製法がよくわからなかったため、牛の皮を煮て膠と自製したところ、墨を型入れできなかったようである。これは現代の製墨技術からも説明できることである。膠の濃度や配合が適切でないと、墨は形を成さない。また牛の皮から膠をとる法は明代の程君房もその製法に言及しており、墨に良いとされる広膠(広東の膠)もまた牛の皮より作られる。
松脂から墨を製することは現在は行われていないが、明の「考槃餘事」にも「余嘗謂松烟墨深重而不姿媚、油烟墨姿媚而不深重。若以松脂為炬取烟、二者兼之矣。」とある。すなわち「私はかつて松烟墨は色が深く沈着だが艶やかさに欠け、油烟墨は艶やかであるが沈着さに欠けると考えていた。もし松脂を持って煤を採れば、その二つの性質を兼ね備えるのではないだろうか。」ということで、松脂を燃やすというような着想がなかったわけではなさそうである。
蘇軾が欧陽季黙への詩によんだように、生活の中で油を燃やして灯をとる際の、廃物から作られたのが油烟墨のはじまりであると考えられるし、あるいは松脂からの類推で油脂を燃やすに至ったとも考えられる。しかし蘇軾と潘衡が製造に失敗したように、油烟墨の製法は充分に確立されていなかったのかもしれない。また生活から出た煤を集めて作った油烟墨に、蘇軾ほどの墨の巧者が詩文で言及しているところを見ると、やはり油烟墨の本格的な使用と製法の洗練は、明代を待たなければならないようである。とはいえ、次の時代の主流になるべき油烟墨にたどり着いていたところは、さすがに蘇軾であるといえるだろう。
落款印01


calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< March 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM