文若虚と扇子 〜「古今奇觀」より

「古今奇觀」あるいは「通俗古今奇觀」は、明代後期から末期にかけての説話集である。日本でも古くから知られ、岩波文庫から訳が出ていた(青木政兒校註。絶版)。「通俗古今奇觀」の編著者は「抱瓮老人」というが、もちろん仮名である。その中に、扇を売る男の話が出てくる。説話の一部に過ぎないものの、当時の折扇の流行についてよく語られている箇所なので、ここを三段にわけて読んでみたい。
金扇、洒金扇の例『話説国朝成化年間,蘇州府長洲県阊門外有一人,姓文名実,字若虚。生来心思慧巧,做着便能,学着便会。琴棋書画,吹弾歌舞,件件粗通。幼年間,曽有人相他有巨万之富,他亦自恃才能,不十分去営求生産。坐吃山空,将祖上遺下千金家事,看看消下来。以后暁得家業有限,看見別人経商図利的,時常獲利几倍,便也思量做些生意,却又百做百不着。』
金扇、洒金扇の例「本朝の成化年間、蘇州は長洲県、阊門外に一人の男がいて、姓を文、名を実、字を若虚といった。生まれつき聡明で器用であり、作らせれば出来、習えばたちまち上達する、といった具合であった。琴棋書画や、笛、太鼓、歌に踊りと、それぞれにおよそ通じていた。幼い頃に彼の人相を見て、「巨富の相がある」といった人がいた。彼もまた自らの才能を頼んで、家業に熱心に取り組もうとはしない。こうして“坐して食らえば山も空し”のたとえのとおり、祖先が残した千金の家産を、たちまちのうちに食いつぶしてしまった。そうなって初めて、財産には限りがあることを悟ったのである。そこで他の人々が商売をして利益を図り、いつも元手の数倍の利益を上げているのをみて、自分も同じように儲けてやろうとおもったが、手を出すものみなことごとく失敗するという有様であった。」
金扇、洒金扇の例まずは「文若虚」という人物が出てくるが、「若虚」は字(あざな)であり、名は「文実」である。名と字(あざな)をつづければ「実若虚」であるが、これは「実にして虚の若(ごと)し」ということで、漢語でいうところの「深蔵若虚」の意味だろう。外見は何も才能が無い様に見えて、真の才能が奥底に眠っていることを言う。
この文若虚先生、そこそこに裕福な家に生まれたものの、いわゆる“器用貧乏”なのだろう。生家が裕福であったのを良いことに、一芸を極めることをせずに色々手を出した挙句、どれもほどほどに身についたところで生計を立てるまでには至るものがない、というところだろう。日本でも「唐様で“売立”と書く三代目」という言葉があるが、ちょうど当てはまりそうな人物である。
しかし文中に描かれている文若虚という人物は、明代後期のこの時代を特徴付ける人物像でもあるといえる。明代は北方の異民族の侵入と沿岸部の倭寇の跳梁に苦しめられた時代であるが、明王朝の国家財政が疲弊していった反面、民間経済は史上空前の活況を呈していた。蘇州や杭州などの江南の大都市を中心に都会的な文化が爛熟を極め、多芸多才な人物達が生まれる土壌が醸成されていたのである。
ただし文若虚は、残念なことに「詩文」に優れた才能を持っていたとは述べられていない。そこが読書人として一流と二流以下の境界なのであるが、書画にいかにたくみであっても、文学的素養が高くなければ士大夫の社交の世界では重きをなさないのである。現代のように書も画も専門分化し、詩文など省みられることもない時代からは、想像もつかない価値観のように思えるかもしれない。しかしある意味人文と美術との、幸福な関係があった時代であったといえるだろう。また細分化され、専門分化した現代から見れば「多才」に見えるのではあるが、「武芸百般」と言われるように、さまざまなものに通じているようでも、大きく観ればひとつの道、という考え方があった時代である。
金扇、洒金扇の例『一日見人説:“北京扇子好売”,他便合了一个火計,置辧扇子起来。上等金面精巧的,先将礼物,求了名人詩画,免不得是沈石田、文衡山、祝枝山拓了几筆,便値上両数銀子。中等的自有一様喬人,一只手学写了這几家字画,也就哄得人過,将假当真的買了,他自家也兀自做得来的;下等的无金无字画,将就売几十銭,也有対合利銭,是看得見的。揀个装了箱儿,到了北京。』
金扇、洒金扇の例「あるとき“北京では扇子が良く売れる”と言う人がいた。文若虚はすぐさま一計を案じて、扇子を調達しようと思い立った。贈答品にもちいられるような、扇面に金箔を貼った精巧で上等な品には、それに名人の詩書画を求めたのである。しかし沈石田(周)や文衡山(徴明)、祝枝山(允明)といった蘇州の名家にちょっと筆を振るってもらうだけでも、数両もの銀子が必要だった。中等の品は食い詰めた読書人が、名家にならって書き写したような書画で、ちょっと目にはそれと分からないようなものなら偽物であっても本物として売れた。また文若虚もそのような贋作つくりが出来たのである。下等な品は金箔もなく書も画もなく、売っても何十銭になるかくらいのものであったが、これも値段なりには売れるので、見込みが無い品ではない。それぞれ見合った箱にいれ、ともかく北京へたどりついたのである。」
金扇、洒金扇の例折りたたみ式の扇子、「折扇」が士大夫の間で流行し、定着したのは明代の永楽帝の頃からと言われる。永楽帝は内務府に命じて高麗扇、すなわち折りたたみ式の扇を倣製させ、大臣や官僚達に下賜したことが、大流行の契機になったと言われる。ともかく人がそういうのなら、それなら自分もひとつ扇子を北京へ売りに行こうじゃないかと思い立ったようである。
まずは仕入れと、扇子を買い込みはじめたときに、「上等金面精巧的」とある。あきらかに「金面」というのは、金箔を一面に貼った金箋か、あるいは大きめの箔を散らした洒金箋で出来た扇面であろう。「精巧」とあるのは、扇骨のつくりが凝っていることを指すと考えられる。そういった高価な扇子には、やはり当時有名な名家の手による詩なり書なり画なりを書いてもらい、さらに付加価値を付けて売ろうと言うのである。
そこは当時蘇州のこと、文徴明に祝允明、唐寅に沈周と、詩書画の名手にはことかかなかったわけである。ただし永楽帝が南京から北京に遷都したのは1403年のことである。文若虚は冒頭で明の成化年間の人であるというから、1464年から1487年のことである。北京遷都から半世紀以上経過した成化年間には、折扇が士大夫のお洒落や社交の道具として定着していたことは無理の無い話であろう。しかし文徴明が生まれたのは1470年であるから、成化末期でもまだ二十歳前である。遅咲きの文徴明がここで出てくるというのは、ちょっと無理がある。文徴明より10歳年上の祝允明であっても、北京まで名が聞こえるほどの名声はどうか、というところである。1427年生まれの沈石田は充分可能性があるが、逆にその潤筆料が銀数両で済んだかどうかが疑問に思うところだ。
ただしそもそも中国の昔話というのは、時代考証があまり考慮されていないので、この種の考察はあまり意味が無いかもしれない。というよりも、あえていつの時代か曖昧にしている場合が多いのである。これも一種の「指桑罵槐」であって、昔話に仮託した時世への風刺、批判である場合がある。作者がはっきりしないのも、筆禍を逃れるための手段である。時代考証はさておくとしても、ここでは扇面の等級の高下について、なるほどと思わせる記述が書かれている。
金扇、洒金扇の例『豈知北京那年自交夏来,日日淋雨不睛,并无一毫暑気,発市甚遅。交秋早凉,雖不見及時,幸喜天色却睛,有妝晃尾子弟要買把蘇州的扇子袖中籠着揺擺。来買時,開箱一看,只叫得苦。原来北京歴沴,却在七八月。更加日前雨湿之気,斗着扇上膠墨之性,弄做了个“合而言之”,掲不開了。東粘一層,西缺一片,但是有字有画,値価銭者,一毫无用。止剰下等没字白扇,是不壊的,能値几何?将就売了,做盤費回家,本銭一空,頻年做事,大概如此。』
金扇、洒金扇の例「ところがこの年の北京は夏が来たというのに、毎日小雨が降って晴れることなく、しかもまったく暑さが来ないために、扇の売れ行きはまったくにぶいものだった。秋になると早々と涼しくなり、扇子を使うには時すでに遅しといえども、幸いにして晴天になったことが喜ばれた。お洒落に凝った貴公子達が蘇州の扇子を買求め、扇子を袖の中にしまい、自慢げに頭をゆらしながら街に出歩き始めたのである。ところが売り時が訪れたときになって、文若虚は扇子をしまっておいた箱をあけて一目見るや、あっと叫んで苦渋の表情を浮かべた。もともと北京は七、八月が梅雨の時期である。さらに例年にない長雨の湿気が加わったことで、扇の上では膠と墨の性質が互いに争い、まさに“合して之を言う”(道理ではあるが)扇子を掲げようと思っても、開くことができないのであった。東に紙片がくっついているとおもえば、西はどこかが欠けているといった具合である。これももっぱら書や画が書かれている扇のみのことで、すなわち値打ちのある扇ばかりが、まったく売り物にならなくなってしまったのである。辛うじて残ったのは書もなにも書かれていない下等な白扇のみである。これらは壊れていないとはいっても、一体いかほどの価値があろう?とはいえ残った扇をまとめて売り、なんとか旅費を工面して帰郷したが、元手をすっかり無くしてしまったのである。文若虚のやることといえば、いつも大抵はこんな具合であった。」
金扇、洒金扇の例乾燥した酷暑の北京の夏ではあるが、長雨で気温が低いというのはよほどの異常気象であったといえる。そして寒い夏が過ぎて秋になったところで、扇子の実用上の需要は低下する。しかし暑気は去っても、ひとまず天気が良くなったことで、外出には差し支えなくなったわけである。また扇子は既にお洒落の道具として定着していたのであり、そういうものを欲しがる若者「妝晃尾子弟」は、蘇州の扇子を欲しがったということである。
ところが文若虚が仕入れた扇子を売ろうとしたところ、扇子の墨が長雨の湿気を吸って粘り、閉じた扇面が互いに張り付いて取れなくなったというのである。「合而言之」は孟子の「仁也者、人也、合而言之、道也」からであろうが、つまりは墨や膠が湿気を吸えば、張り付いてしまうのも「道理だが」というところである。
なんともうかつな話であるが「膠墨」という語に注意したい。ここでいう「膠」は墨の膠を言うのか、あるいは加工紙に塗布された膠を言うのかやや判然としない。画が書かれているのであれば、顔料を定着させるために膠が使われていたはずであり、礬砂にも膠がふくまれる。しかし湿気によって膠が粘って紙を接着してしまうと言うことは、紙はもとより墨もまた、膠を多く含んだ墨が用いられたのだろう。また充分な濃墨で筆書されていたことが想起されるのである。更に言えば、膠の効力が切れたような古い墨ではなく、割合と新しい墨であったことも想像される。文若虚がどの程度の墨を用意できたかはわからないが、少なくとも文徴明や祝允明の名も挙がっているのであれば、いずれ徽州の佳墨であったことだろう。
例年にない異常気象に見舞われたとはいえ、北京に滞在中に大切な商品の管理に心が行き届かなかったというところが、文若虚の至らない点である。長期滞在の間、北京で遊びまわっていたのか、雨が止むのをぼんやりまっていたのかは定かではないが、ただ扇子を開いた状態で保管しておけばよかっただけのことである。
書画を書く事に関しては彼自身も素人とは言えないのであるが、紙筆の性質や書画の保存には無頓着なあたり、文若虚の「半可通」ぶりをここで筆墨の性質をからめてたくみに描写しているのである。それでも救いなのは、字も画も書かれていない白扇を売り払い、なんとか旅費を工面して帰郷したことであるが、救われただけに懲りることも中途半端に終わるのである。
「機を見るに敏」という意味ではあながち間違ってはいないし、資金を集め、書画の素養を生かして商品を仕入れ、北京までそれを運ぶのはなかなかの行動力である。しかし若干の不運に見舞われたとはいえ、大事な商品の管理を怠っているあたりは非常にお粗末な話である…..と、えらそうに論評してしまったが、小生とていつ同じようなことをやらかさないとも限らないので、実のところあまり笑えない話なのである。文若虚にしても、マーケティングと商品開発までは悪くなさそうなのであるから、良い補佐役がいれば成功したかもしれない….事実、物語りの後半は文若虚のサクセス・ストーリーである。ただし文房四寶に関係の有る話題はではなく、ここで紹介するには長すぎる話である。
金扇、洒金扇の例「古今奇觀」を編纂した「抱瓮老人」が何者であるかはわからないが、明代も最末期の人であるとされる。文中でも「成化」を国朝と言っているから明代の人物であろうが、あるいは清朝最初期にかかるかもしれない。「古今奇觀」にこめられた時世批判の厳しさからして、明の遺老の作とも考えられるのである。
この「文若虚」の話の冒頭にはさりげなく、明末清初における折扇の流行や、流通の様相を彷彿とさせるエピソードがまとまっている。(ちなみに掲載している金扇、洒金扇の写真はすべて清朝のものである)事実、現代見られる明代後期の名手の扇面には、金扇あるいは洒金箋が使われ、筆書も淋漓とした濃墨が多い。折扇、なかでも金扇の流行は、紙の加工や製墨に影響を与えたことは疑いようがないところであるが、この「古今奇觀」も往事の状況を物語っているようである。
落款印01


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