「程氏墨苑自序」を読む

明代後期の名墨匠、程君房(大約、程幼博)は「程氏墨苑」に自ら序文を書いている。そこにはそもそも墨苑を編んだ理由のほかに、程君房の墨癖や墨の蒐集の遍歴、方于魯との確執のあらまし、また自身の製墨法についてのべられている。ことに製墨法については、本来秘伝とされるべきところを述べ、かなり突っ込んだ内容に叙述が及んでいる。もちろん、それだけで製墨の秘密の全てではないだろうが、示唆に富んだ内容である。墨の性質については、易学に基づく論を展開した部分などがあり、予備知識がないと難読であるが、通読できるように大胆に意訳し、適宜文意を補っている。少なくとも大意においては、原文との齟齬はそう大きくはないと思われる。長いので大意のみ示す。

「程氏墨苑自序」

私は幼い頃より骨董を愛好する心が強かったが、今現在にいたるまで特に墨癖(ぼくへき:墨に執着すること)に耽けることから抜け出せなかった。すなわち墨の古いものであれば、より一層これを愛玩したのである。およそ製墨法の由来や、現代の蔵墨家の家は、手を尽くして捜索することを極め、十のうちその九までを手に入れることが出来た。そのように蒐集につとめても(製墨の祖といわれる)韋誕の墨ははるかに昔のもので、手に入れることはできなかった。いわゆる一点漆の如くと言われる墨というのは、本当に少ないものだ
。韋誕より以降は六朝の張永、唐の祖敏、陳朗、奚鼎、五季(五代)の奚父子、(李)超といい、庭珪といわれるもの、宋の柴詢、潘谷、常和、張遇、王油、陳?、蘇解、元の朱万初、これらはみな製墨で後世に名を遺したものたちである。しかしながらその作ったところの墨は喪われてしまい、いたずらにその名声のみが喧伝されて伝わっているのみなのである。普通には(完全な形の)一挺も入手できないのが恨めしいところである。
嘉靖甲子(四十三年:1564)に、私は都の大学に学んだが、骨董を売るものがいて、私に墨癖があることを知って、熱心に名家の墨を集めて来たのである。いつも自分が仕入れたものを持ってきては、私に買わせたのである。丸いものもあれば、挺(長方形)のものもあり、金で飾り立てたものもあれば、蛟(みずち)の紋様が描かれたものもあった。色は漆黒にして煤けたようなものがあり、磨った残墨、半分近く使われてしまった墨もあった。割れてしまって完全な形でないものもあった。その墨匠の数でいえば、およそ百数十家を下らなかった。あるいは奚氏の墨であるといい、または蘇軾が錦嚢(にしきのふくろ)に納めていた墨であるといい、ややもすると非常に古いので連城(れんじょう)の値(:いくつもの城と交換できるような、高価な玉壁)よりも高い値段をふっかける始末であった。私はどうしてそんなことが信じられただろうか。その墨を吟味して、その色や臭いをみれば、とても往事のものといえないことは直ぐにわかったのである。それが古ければ善しとしても、(質がよくなければ)それほどの宝というものではない。
ついで宣徳年間の墨を数挺得たのである。また、郷里(歙県)の羅小華の墨を数函入手できた。これを試しに使って比較してみれば、すなわち羅小華の墨はもちろん宣徳の墨よりは良いものである。また宣徳の墨は、明代より以前の墨よりは良い物である。古い墨というのは、煤は松脂を燃やして採取しており、それを練り固めるのに漆を使っていた。常に湿り滞(とどこお)って、その墨質は粗慢なものである。宣徳年間の墨は油烟を松烟に混ぜ、膠より煤の方が量が多いのである。その墨質は堅いが、色は薄いものである。羅小華はすなわち桐油を燃やして煤を採り、練り固めるに膠を用いたのである。さらに真珠を埋め込むなどして装飾し、贅を尽くしたのである。なるほど、製墨の技術というのは、羅小華によって完成したとはいえるだろう。しかしながらそれは奇を衒(てら)ったところがあり、華美を求めて墨の本質から逸脱したところがある。その油烟の採取法、膠の混ぜ方を見るに、まだまだ改善の余地があるのではないか。
私はもともと職人の仕事を蔑視したことはなく、自ら考え、工夫をこらした。(このように努力をするならば)どうして(製墨という)小さな技術の世界において、第一人者にならないということがあるだろうか。
常に一室を用意し、木で作った槽(おけ:長方形。四方を板で囲う)を置いて、鐙(トウ:”鐙”は”灯”に古同。油脂を満たす碗)をその中にいれ、これに桐油を注ぐ。そこへに茜草(:あかねぐさのつる)をもって灯心を立て、(これを燃やして)油烟を採るのである。また(煤を付着させるために)燃える灯心の上に蓋をかぶせて覆いをするのである。灯心を覆うには高すぎてはいけない。高ければ生じた煤は(空気中に)分散してしまうからである。また低すぎてもいけない。低すぎれば煤に不純物が混じるからである。ただ(立てる)灯心の多い少ない、焔の燃え上がる高さに応じて、煤の清濁が分かれるのであり、なるべくその清浄なところを採らなければならない。もっともよくないのは、小さく明るい炎をもとめることである。またもっとも禁じなければならないのは、柴艸茜(:未詳)を灯心にいれること、また蘇木(そのき)などを燃やすことである。焔が燃え始めたころの、火が盛んなうちは煤をとってはいけない。すでに火が弱くなって、焔が微(かす)かなのはよくない。また焔が消えてしまうまで煤を採ってはいけない。焔の大きさに応じてそれぞれ高下を調整し、そのもっともよいところを採らなければならない。これが油烟の煤を採るときの秘めた奥義であり、微妙なところはなかなか言葉で言い表せないところである。そうしてから、煤に膠を混ぜ、これを杵でうつのである。膠はその時期によって産地を厳選し、そうして杵で打つ回数にも決まりがあり、実験を重ね、工夫を重ね、ようやくして良いものが得られるのである。はじめは形のないものであるが、(型に入れて)圭(まるい墨)となり笏(四角い墨)となり、ひとたび墨の塊となれば硯で磨って墨液を発するのであり、その墨液の光彩は人の目を射抜くようである。筆に含ませて書けば(粘ることなく筆跡は)流れるようであり、紙の上では(その墨痕は)まるで画のように美しいものである。これを他の墨匠に比べれてみても、ただたんに彼らを凌駕するのみではない。凌いだ上でわれながら言うのであるが、これは製墨の技芸を極めているのであり、これ以上のものは誰にも作れまい。しかしながら、その得られる量が少ない事が難点である。ただ、自分で秘蔵して用いるくらいしか作れないものであった。
友人の中に私の製墨に意見を言うものがいて、利益のためにするのではなく、(採算を考えず)名を高めるためにあえて(製墨を)して欲しいということである。私はあくまで儒者であり、工者であることは恥ずかしいから(彼の意見を)固く断り、(採算の取れないこの事業をしないおかげで)貧困に陥らずに済んでいた。
しかしかの方于魯というものは、もともと私のところで厄介になっていたものなのであるが、かれが謂うに「雇われの身で朝夕の生計を糊するには足らないので、お願いですから独立して製墨業をいとなませていただき、それでもって家族を養いたいのです。」と言ったのである。私は彼が困っているのを哀れんで、なにからなにまで彼を支援し、(独立の際の)資本も助けてやったのである。さらに墨の図案なども金に糸目をつけずに提供した。こうして方于魯はにわかに頭角をあらわし、千金の富を得たのである。私は方于魯に(私が与えた)基礎によって事業を営み、また(優れた墨を作るという)本分を忘れてはおるまいな、と問うたのである。なのになんというべきことだろう、その墨作りという行いを堕落させ、私の恩に報いるとは。
また方于魯は市人の金を貸して罪に触れ、都に逃亡したのである。たまたまそのとき私は都で鴻盧の職務に従事していたため、私は都で方于魯をとらえて、郷里に送還したしたのである。彼は故郷へ帰ると、まえよりも一層無頼な振る舞いに出て、一時の名声を盗み取ったのである。いたずらに墨の外見を華美に装い、人々の耳目をひきつけておきながら、それいでいて墨がその等級の別に見合った内実を持っていたわけではない。
墨を求める者がいれば、わざとゆっくりとこれに応じてもったいをつけ、ありがたがらせた。また甲乙の墨をならべておいて、甲の墨を求めるものがあれば乙を与え、乙を求めるものがあれば甲を与えるといった具合であったが、甲乙の等級を分けていたといっても、実のところは同じ墨だったのである。目でもって墨を判断しようとするものはその外見に惑わされ、その名声で判断しようとするものはその墨の品質を疑わなかった。その墨は日に日に悪くなりながら、その価格は日増しに高くなっていったのである。
わたしは「失人(人物を見誤る)」の罪をまぬがれようとは思わない。だから(真を正すため)、私はふたたび製墨業に専心し、職人をあつめてその事業に特別に力を注いだのである。画は江世会(:著名な画家)のように技巧に優れたものがあり、またその墨形は鄭一桂(:著名な画家)の(画)ように精密で、またその事業の経営監督にあたっては洪自寛(:未詳)のような賢才を用いた。.
油烟の採取にあたっては、桐油を蜀や楚(四川省、湖北省)にその材料をもとめ、膠片はすなわち閩(福建)や広(広東省)に赴いて探し、香料は沈香や龍脳、麝香を用い、灯心は紫茜双葍(:未詳だが、すなわち灯心に使う植物の根)を用いて、杵で打つときはすなわちその回数を数え、毎回規定の回数に至らぬことがないようにした。ひとつに膠と煤との混ぜ方は方于魯に教えたとおりであり、墨の名称や形式についても同様である(もともとは私が教えてやったのだ)。
その値段は半ば損ばかりであるが、ただし豨(キ、猪の子)の脂や、独草、鹿角膠といった材料、手法の類は、膠の品質によってすべてこれを用いなかった。いったい豨(き)の脂などは、焔は強いが、烟はあまり出ない。墨色に光沢があると言っても、その墨の光は白いものだ。(灯心に草を1本しかたてない)独草はその炎は暗く、煤などとれるものではない。鹿の角で作った膠などは病気に用いるものであるし、実のところは偽物が多いのである。また光沢があるといっても、その光の色はやはり白いものであり、製墨に使用してよいものではない。
これら(の特殊な技法や高価な材料)は方于魯のようなペテン師がことごとしく言って自分の利益をごまかし、世間のほかの墨匠までをも欺いているのである。(方于魯が製墨の世界を混乱させたこと、)これがもっとも恨むべきところである。私が製墨に専念したのは、彼の欺瞞を暴くことだけが目的なのではない(墨の本来の姿を明らかにしたかったのである)。ここに墨には真実の姿が完成され、こうしてペテン師の事業は失墜したのである。すなわち私は利益を削って墨を作ったが、方于魯は墨の材料を悪いものにして利益を得たのである。(だから)私の墨と彼の墨のどちらが真実であるか、弁別することは容易である。
友人の呉仲良(文璧)は、つね日ごろ私の製墨ことを述べるに、(三国時代、墨匠の祖)韋誕(いたん)になぞらえて語っていた。しかしながら韋誕より以降は、奚李(易水の製墨名家の奚氏は南唐で李姓を賜った)が継承し、(三国時代から明代までの)各世代に墨があるといっても、名前ばかりがのこっているばかりである。その墨の実物は残っていないのであり、何に基づいて名声を判断するべきであろうか。すなわちそれら墨匠の名声といえども書物に書かれているのを見るに過ぎないのであり、いまだにその墨匠達の実力の程はわからないのである。現代になって、(私が)墨の(存在)意義の一切の精神を汲んで(墨を作り)、使ってみて文章をつくることに大いに役立つものとしたのである。その墨の意匠は巧妙であり、品等は多くに及んだ。ペテン師はその墨の意匠を盗んで、利益と名声を得たのである。
大昔から色々な品物があったわけだが、日常の物のひとつひとつにいたるまで残っているわけがない。図になっているものが、わずかに(図として)残っているだけである。(だから物を図で表した)譜(図鑑)になっていなければならないのだと。(だから墨を図に残した方が良いと、呉仲良は言うのである)
私が言う、ああ、墨は物にすぎないではないか。作るのは墨工という職人である。私はまさに(士大夫として、ことさら文章以外の作業に従事する)このことを恥じているのである。どうして今、墨のことでもって、あえて人と競おうとするだろうか。しかしペテン師は私の製墨法を極めていながらその(志の)本分を忘れ、虚名をひろめていって不正に名利をえようとしているのである。まさに天下の人々を自分の方になびかせながら、その批評や見識を欺いているのである。ゆえに墨の頽廃をおしすすめて、真実の墨というのものを世の中から消し去ってしまおうとしているのである。しかし今、(ふたたび真実の墨を作って)すでに真贋については明らかにした。そのうえさらに墨の名を用いて(譜を作り)、(呉)仲良の言われた通りにする必要があるだろうか。(私がこの墨苑を作った目的は)そうではないのである。
純粋に黒く落ち着いているのが墨の本質である。墨の色合いやその光沢は墨の装飾なのでである。意匠に(八卦の)象を採用し、墨の図案をその(象の)形をにせてつくるのは、(それが)墨の実際の姿なのであり、かつ(象が形となってあらわれる)神秘的な作用なのである。なぜならば、(象の)形というものは物の根本であり、物というものは天の原理に基づくからである。一つの物と一つの形に、造化(天地創造)の作用でないというものはない。これは昔の人の作るところであるが、(易の)規定にのっとってその意義を解釈し、その由来を考えて名前をつけるのである。
おそらく謂う者がいるだろう、墨はそもそもこうした(易を立てる行いに)似ているのであると。(いやいやしかしそれは違って、墨は)硯にあてて磨れば興趣をもよおすものであり、墨液を眺めながらあれこれと文章に思いをめぐらさずにはいられない。これが墨というものが、それを使う人に与える作用の大きなものである。どうしてただ(象をかたどり色々な種類を作って)名声を競うための物であろうか。
しかしながら墨は使えば尽きてしまうものであり、いくら墨を作っても、形ある物だけにそれが失われることからはまぬがれない。ゆえにこれを譜(図鑑)にして残さざるえないと謂う(者もいるだろう)。すなわち譜は墨が図となって表れたものであると。また墨は譜が実際の姿となったものであると。名(譜)と実(墨)が相互に関係しあっているのであって、決して滅びることはないのだと。
私が言うのは(譜というものは)そういうものではない。譜とは墨に序言を与えたに過ぎないのであり、その名称や族類(:分類)をならべたてているだけである。譜をみて墨を捜し、墨をみて譜を捜したところで、(対応するものが必ずしも得られないから)いたずらに痒みに手が届かない思いをするだけである。その図の由来を象(すがたかたち)の(さらに上にある)概念に求めて、(それを書いた文章が)古人も賞賛するほどという意味では、いまだにそれをつくしきるところがない。しかしながら、ペテン師はすでにこれをつくってしまった。その本心は図をかかげて価格を吊り上げることである。しかしながらその墨は譜に沿ったものではなく、譜は文にそったものではない。いたずらに図をよせあつめて、巧みにそれをみせているだけであるが、(その譜でもって名声をたかめ)ついに墨において(古代の名医)秦越(のような権威)となったのである。はなはだしいのは奢侈に飾り立てて皇帝にのみ許された図案(:龍など)を用いて、宮中を侮辱したことである。また収録した図案もまたすべて陳腐であり、それについて説明を述べているものはない。何をもって天下に(第一人者と)称するというのか。(そんなわけだから相手にするのも馬鹿馬鹿しいのであり、)私は、どうしてふたたび(方于魯と墨の)名声を争うようなことをするのだ、という謗(そし)りを受けたいとおもうだろうか。
やむを得ず(墨苑を作ることを)するのであれば、すなわちその墨(図のそれぞれ)に文章を書いて、本当のところを述べようとおもうのである。そこで文章を(墨)図のわきに入れ、読む人がその図案の由来を知ることが出来るようにした。あるいはこれをもって収蔵するに値する本としたのである。これは私の得意とするところであったのである。そういうわけで常日頃蒐集していた文章や、自分自身でも文章の数章をつくって墨銘の来歴をただした。すなわち(方于魯の墨譜なぞは)私の志を盗むものであり、到底私にはおよばないのだと言えるだろう。
(呉)仲良はよろこんで言うには「それでは(その集の名を)このように命じよう。すなわち私が聞くには、苑は物をたくわえるところであり、族類の具函である。古(いにしえ)より、文苑あり、説苑があった。大きなものでは天地の造化、小さい物であればモノゴトのこまごましたこと、すべてを包括してつつみこまないものはないのである。あなたの墨苑は、墨の集大成なのだ。古い時代を考えてその(墨の)造(つくり)を考え、(墨の)造を考えて文を編んだ。一つの造にたいして一つの文、皆物類に根ざすものである。すなわちその著作は墨の宗工を悉くしたものである。凡そ翰墨の世界に身をおきながら、おおよそ網羅してほとんど尽くしている。“苑“をもって墨集の名とするに、どうしてよろしくないということがあるだろうか。願わくば、その集の名を“墨苑“となずけることを。」
ここにおいて、つとめて承ってその(呉仲良の言う)とおりにしたのである。墨をとりあげてその本来の意義をたて、その品目をならべること六部、そのほか雑多なものはこれに付録とした。すべては天の意思が形となってあらわれたものを図案とし、また国家の威光を明らかにし、あらゆる物の最も優れたところを採用したのである。どうしてあえて、才子が群れ集まる中に肩を並べることをもとめるだろうか(孤高にして抜群なのである)。願わくば私の墨を愛好する心を、ここに成就させてほしいのである。

萬歴甲子午日新都幼博程大約著

(埼玉に避難された福島のお客様よりメールいただきました。安堵いたしました。)
落款印01


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