「程氏墨苑自序」についての解説未満の補足

程君房が心血を注いだ「程氏墨苑」であるが、彼は多くの士大夫から贈られた序文、賛文、跋文と共に自らの序文を掲載している。前回その大意を掲載したが、今回はその内容について少し考えて見たい。
(ちなみに他の士大夫達が程君房を文中で名指すときは「幼博」であり、程君房が自らの文に署名するときは「程大約」とすることが多い。)

彼はまず自分自身に抜き難い“墨癖”があると言い、佳墨の蒐集遍歴と、各時代の墨に対する批評を述べている。名墨匠が同時に墨の蒐集家であったという事は、たとえば初代曹素功が「曹氏墨林」の中でも述べている。母親が程君房の一族の出身であり、程君房の墨に学んだと述べている曹素功であるが、数寄が昂じて自作するようになったというあたりも両者通じるところがある。六朝の張永から延々と、元の朱万初にいたるまでの墨を集めたというが、もとより16世紀の当時、3世紀や4世紀の墨が入手できたかどうかは疑問であり、程君房自身も確信がもてない旨を述べている。
嘉靖四十三年(1564)に都において、国士監生(国立大学の学生)として学んだと述べ、その際に骨董業者が出入りして、彼からあれこれと古墨を買求めたと言っている。しかし古墨を蒐集する過程で、業者があやしげな由来の墨に高値をふっかけて売りつけようとするあたりなどは、いかにもというところである。
当時北宋年間の墨が入手できたということになるが、明代後期に至っては、時代を隔てること優に五百年である。現代の我々が明代の墨を求める以上に困難であったということは、念頭に置いて読むところであろう。また明代以前の墨に対しては、松煙を漆で固めているとしており、また明代初期の墨については油烟と松煙を雑ぜた、いわゆる油松煙であると述べている。この点、蘇軾などの製墨法をみるに、北宋年間には既に膠が使われていたことがわかる。程君房がどのような墨を見、それを漆で固めていると判断したかが未詳であるが、この点はやや疑問を覚えるところである。
また嘉靖四十三年という年に注意すれば、その翌年の嘉靖四十四年には、厳嵩が失脚し、厳世蕃とともに羅龍文(小華)が都で処刑されたと明史には書かれている。それに先立ち胡宗憲は失脚、投獄されており、徽州の人士の周辺は何かと騒がしい時期であっただろう。当時おそらく20代であった程君房にとっても、印象深い事件であったに違いない。
ともあれ、羅小華は若き日の程君房にとっては、同じ時代を生きた人物であり、製墨で名を残す上ではかならず凌駕しなければならない対象であったのだろう。また後に羅小華の墨を数函入手したとのべているが、万歴年間に神宗皇帝が蒐集を命じたことでもともと高価な羅墨がさらに高騰し、市場からも消えてしまったことを考え合わせると、当時の程君房であればまだ入手可能であったのだろう。まさか清朝乾隆時代の紀暁嵐のように、贋物をつかまされたとも考えにくいところである。程君房は実地に羅小華の墨を使用してみて、その優れているところは認めつつも、改善の余地があると考えたようである。
その後郷里に帰ってから程君房は製墨を試みたようであるが、北京で学んでいる間に古墨の蒐集が進み、古い墨を賞玩しながら、だんだんと自分でも墨を造りたいという気持ちが沸き起こってきたのであろう。ともかく自分の故郷は製墨の本場なのであるから、帰郷するなり職人をあつめて墨を造り始めたようである。
程君房は「業者を卑視せず」と言っている。このところは、儒教倫理に基づいた封建社会の価値観が色濃く現れているところである。すなわち士大夫たるものは文章を作ることをこととするべきであり、手仕事によってモノを作ることなどは卑賤のすることであるという価値観である。後段でも程君房は「墨はモノであり、それを作ることを競うのは恥である。」と言っている。このあたりは程君房の本心というよりは、多くの士大夫が賛文を連ねる墨苑の序文において、自らの行いについての弁明の気持ちが働いているのかもしれない。
もとより、本当に墨づくりを卑しい行いであると考えていたわけではないだろう。モノづくりが卑しいなどというのは、現代からみればなんともやりきれない価値観であるが、その当時の社会通念を踏まえて程君房もタテマエを述べたところであろう。実のところ徽州の人士は農業や手工業を始め、商業にも手を染めていたのであるから、そういったさまざまな仕業に対していちいち蔑視していたかどうかは疑問である。
またここで考えなければならないのは、程君房の製墨との関わり方である。つまりは程君房が墨を造ったといっても、自ら手を下したわけではなく、専門の墨工を集めて指導して作らせたということであろう。いわばプロデューサーである。もちろん墨の品質はプロデューサーの采配に寄って決まるのであるから、程君房が造った墨としてもなんら差し支えないのである。
ここで程君房は、油烟の採取法について詳細に述べている。明代の油烟の採取については、現代の墨の愛好家のほとんどが誤解している点がある。すなわち高いところについた煤を最上とする考え方である。もちろん古墨の蒐集を多少手がけたといっても、多くは製墨の実際をまったく知らないのであるから、この種の誤解が生じたとしても致し方ないところがある。また清朝末期に墨汁を創製した謝?岱が、近代的な油烟の採取法を述べるに、密室で油脂を燃やし、天井に付着した煤を最上、壁に付着したものを次善、床に落ちたものを最下等とした話が伝わっている(これも真偽は定かではないが)。あるいは松煙の採取において、小高い山の山腹に長い円筒を寝かせその中に松を焚いた烟を通し、上部についた煤を最上とするという採取法がある。これらの話が合わさって、油烟も長い円筒を立て、頂部に付着した煤を最高とするというような「まことしやかな」話が定着しているのかもしれない。しかし奈良の製墨における点烟の法や、明代、清朝における点烟の器具を見る限り、そのような事実はない。明代と清朝では、灯心を燃やして油烟を採取する、いわゆる点烟の法は大きな違いが無く、器具が若干変化しただけである。程君房が述べているのは、上等な油烟を取るための秘訣であり、きわめて重要な示唆が含まれている。要約すれば、煤を付着させる天蓋は高すぎても低すぎてもいけないのであり、また焔は強すぎても弱すぎても駄目ということである。
現代の製墨法でも分かっているのは、あまり強い火力で生成した煤の品質が悪いということである。煤の収率や生産性に直接大きく関係するのは焔の強さであり、焔の強さは立てる灯心の本数によって大きく変化する。「独草」というのは、灯心を1本だけ立てる法である。また清朝の宮廷における製墨法を記したと言われる「内務府墨作則例」には烟に「三草」とある。灯心を三本だけ立てて製した烟(煤)であるという。灯心を沢山立て、火力を強くするほど短時間で多くの烟を採取できる。また油の量に対する収率も良くなるという。反面、墨に使う煤としての品質は低下し、黒味や潤いに乏しくなるのだと言う。
小生が墨匠に聞いたところでは、清朝の佳墨と呼ばれる墨で3本から5本、宮廷では稀に独草を用いたと言う。また清朝末期には十数本から数十本もの灯心を立て、油烟を量産したというのであるから、その墨質の低下は推してしるべしであろう。清朝末期の墨が、いかに硬質で優れているように見えても、いまひとつ黒味と色味に乏しい要因かもしれない。
良い烟ほど軽いものであるから高く舞い上がり、円筒の高い位置に付着するというような話はいかにも理解し易いが、油烟の製法の実際とは全く関係の無い話なので注意したい。

そこで方于魯が登場する。方于魯と程君房のそもそもの関係であるが、生卒年を調べた限りでは二人は同年の生まれである。年が近いことも考え合わせると、二人は親しい友人だったのかもしれない。また方于魯も若いときに北京へ遊学していたことを考えると、親交は二人の北京時代に始まっていた可能性がある。
製墨においては、プロデューサーが程君房であれば、いわばチーフ・ディレクターが方于魯だったのかもしれない。方于魯が窮乏していたことは、方于魯の墓誌銘や方于魯が残した手紙などからも伺えるから、程君房が彼を経済的に援助したということはあったのだろう。とはいえ、雇われの身であればなかなか一家を思うように食べさせることは出来ないから、独立して製墨の事業を立ち上げたいと、方于魯は程君房に相談したようである。このあたりは、一方で程君房の製墨業に対する関わり方を考えなければならないところである。また方于魯自身も、製墨という生業に対して、なんらかの自負心のようなものが芽生えていたのかもしれない。最初期の程君房の製墨業において、方于魯というのは現場レベルではかなり重要な存在であったのかもしれない。その方于魯が独立して一家を構えたいと言った時、程君房はそれを支援しているのである。
方于魯が出版した「方氏墨譜」に対し、程君房は「墨図を盗んだ」と言って非難している。事実、「方氏墨譜」と「程氏墨苑」には図の重複があるのである。この事情を逆に考えれば、出資者と事業者との間で、版権の所在が曖昧であったことがひとつの理由になるだろう。それはすなわち、方于魯の墨業の創業期に、程君房がいかに密接にかかわっていたかも暗示している。
あるいは方于魯の独立と同時に、程君房の最初の墨業は一度閉じた可能性がある。素封家の家に生まれた程君房にとって、製墨は当初自分の墨癖を満足させ、交友の人士を喜ばせる範囲のものだったのだろう。しかし方于魯にとっては、なにより生計を立てるための手段であった。あるいはその相違が、後に両者に深刻な確執を生む要因であったとも考えられるところである。また方于魯の後援者となった汪道昆と、もとのスポンサーであった程君房との間で、塩業の利権を巡る対立があった可能性もある。ともあれ方于魯も程君房に教えられたとおりに墨を造る以上の才能が、やはりあったのだろう。とはいえ資金にモノを言わせてなかば趣味で墨を造るのと、墨業のみで生計を立てるのとでは、その造るものに違いが出るのもいたしかたないところである。それは現代でもそうであるが、超一級品だけで経営を維持するのは難しいのである。幅広い顧客層に合わせて、ある程度の幅のランクを形成しなければならなところである。対抗する程君房側の非難を鵜呑みには出来ないが、方于魯としても程君房が「得られるのが少なすぎるのが難点」と述べた、そんな墨ばかり造ってるわけには行かなかったのは事実だろう。方于魯の墨の粗製濫造については、その後援者の汪道昆も之を咎め、一度は方于魯を笞打ったという話も残っている。
墨譜が成って名声が喧伝され、一度に生じた大量のオーダーに応じようとしたことが、墨質の低下を招いたとも考えられる。また程君房やその同輩の評価が、墨質に対してとりわけ厳しかった可能性もある。さらに方于魯の同時代人による倣製も、可能性としては多いに考えられるところである。
それにしても、従属に甘んじてはいられなかった方于魯の思いも、自らのライフ・ワークを一度は持ってゆかれてしまった程君房の心痛も、察するにあまりあるところである。

ともかくこの自序文における、程君房の方于魯への攻撃は凄まじい。「ペテン師」と訳したのは原文では「偽人」とある。かなり執拗に方于魯を非難しているのであるが、一方で「程氏墨苑」を編んだのは、方于魯の「方氏墨譜」に対抗する分けでは無いと述べている。しかし「方氏墨譜」を否定する上で、「譜」の意味にさかのぼってその意義を否定し、かつ自らの「墨苑」は墨の本義に基づくのであると言い切るあたり、実に周到で執拗である。すなわち「墨苑」を編んだのも、ふたたび製墨へ手を染めたのも、方于魯への対抗心からではなく、「真を正す」為であったということを主張している。程君房が墨を愛する心は真実であろうし、すべて私怨に根ざすと思われたらやりきれないというところだろう。
ここで程君房は、墨譜あるいは墨苑の図と、実際の墨との関係を考えるにあたって、実に形而上学的な思考を展開している。マテオ・リッチに「非常な博学」と評された程君房であるが、その哲学的思考に関する素養の豊かさの片鱗がここにみられるところである。
程君房の性格については、これから「程大約集」などの著作を読みながら考えようとおもっているが、この自序文を読む限りでは相当に執念深い男のように思える。もちろんそうであるからこそ素晴らしい墨を作り、「程氏墨苑」という優れた著作を遺したのであろう。もちろん、方于魯の方は方于魯の方で存念があったであろうし、小生が今になって黒白をつけようというつもりはもちろん無い。ただ方于魯との確執のほかにも、同族から誣告を受けたり、また晩年近くになって劉県令と軋轢を生じるなど、とかく人間関係では摩擦の多い人生であったようだ。その一方で、程氏墨苑に載せられた多くの賛文に見られるように、篤実な友人も多くいたようである。また方于魯とも、仲たがい以前は親しい友人同士であったことが察せられるのである。
墨譜、墨苑を遺したことで、製墨史のみならず文化史に大きな足跡を残した程君房と方于魯であるが、かれらの人生や性格については分かってないことが多い。やや恬淡とした印象の詩人方于魯に対して、一癖も二癖もありそうな程君房であるが、彼等の人格や思想には非常な興味を覚えるところである。
落款印01


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BlueSkye:鑑璞斎

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