程大約「筆花生夢賦」 ?

方于魯が詩文の世界で当時名高かったように、程君房こと程大約も著名な文章家であった。膨大な著作は「程幼博集」にまとめられているが、四庫全書の「存目」に収録されているだけで、本文は未収である。そのせいもあってか、文章家としての程大約の業績は忘れ去られた感がある。方于魯と同様その文名は「墨を以って蓋う」ものであり、製墨における業績の巨大さが、その詩や文章を覆い隠してしまったようである。
たしかに非常に多くの詩人、劇作家、文章家を輩出した明代後期にあって、一頭抜きん出るのは容易ではない。また現代における明代文学扱われ方そのものが、西遊記や三国志、水滸伝といった白話小説に主役を奪われている感がある。清朝以降、現代に至るまで、当時の士大夫達による本格的な詩文の研究が、あまり盛んではないということも理由にあるだろう。
現在「程幼博集」は小生が調査している範囲では、現存している物が見つかっていない。程氏墨苑も方氏墨譜に比べて伝存が少なく、日本にわずかに残っているだけなのであるが、「程幼博集」も残っているとすれば日本にあるのかもしれない。(所在をご存知の方は、教えていただければ幸甚である)
「程氏墨苑」では墨に関する程大約の豊富な文を読むことが出来、それだけでも程大約の博学と文章家としての力量を伺うには充分なのである。しかしやはり内容が墨に偏っており、墨苑に付属された「中山狼伝」を除いて、程大約の事跡を伺わせる情報は少ないのである。一方で、「墨苑」に収録されている文からは、程大約は辞賦や散文に長けていたことが伺うことが出来る。
清の康熙帝が編纂させた「御定歴代賦彙」には、程大約の賦が三編収録されている。四庫全書にも収録されている「御定歴代賦彙」は、歴代の辞賦集である。これは陳元龍が主持をつとめ、康熙四十五年に成立している。程大約の三編の賦は、補遺巻に納められている。「辛うじて」納められている、という感もなきにしもであるが、そもそもこの集の選に入る事自体が容易なことではないのである。文章家として名を残さなかったとは言い難い。
この三編のうちから「筆花生夢賦」を読んでみたい。やや長いため、全体を何回かに分ける。今回の部分は以下の通り。

筆花生夢賦 程大約

『昔江淹夢人貽筆一枚毫端生五色花光彩可愛由是文思日進壇名。當時余幼承父命、習計然之策。浮游江湖不遑問學。中年適有所激奮、跡成、均始親經史、領略大義而已。薄宦一載歸羅家難、乆綜困保宮。情思無聊間以篇籍自娯、麄渉吟詠思致蹇澀、未敢示人。』

「昔江淹夢、人貽筆一枚、毫端生五色花、光彩可愛、由是文思日進壇名。」
『昔(むかし)江淹(こうえん)の夢、人の(貽(おくる)、貝+台たい)る筆一枚、毫端(ごうたん)は五色の花を生じ、光彩(こうさい)は愛す可(べ)し、是れ由えに文思(ぶんし)は日に進み壇名(だんめい)。』

江淹(444〜505)は字を文通(ぶんつう)、南朝時代の官僚であり、また辞賦に長けた著名な文学者である。南朝の宋、斉、梁の三朝に仕えた。
南朝宋の泰始二年(466)、彼は将軍劉景素の幕僚にあった。ところが劉景素の叛乱の密謀を諌めて容れられず、福建の浦城の県令に左遷されてしまう。(のちに劉景素は叛乱に失敗)
浦城の郊外で午睡中、夢に神人が現れ五彩を放つ筆を与えられたという。その後は名文が湧き出る如く脳裏に現れるようになり、一躍文壇の首魁に登ったということである。これを「夢筆生花」という。
またこの後日談として、「江朗才尽」という話がある。江淹はその後官界で出世を重ねたが、それと反比例するように文章は振るわなくなった。梁の鍾?の著した「詩品(詩の評論集)」に拠れば、あるとき江淹の夢に晋代の詩人郭璞が現れ、昔貸してあげた筆を返して欲しいといわれたという。懐をさぐると五色の筆がある。これを返すと夢から覚め、以降はまったく文章がかけなくなったということだ。
普通、「江淹の夢」というと、筆を返して文才を喪う方を指すが、程大約は筆を得る話を下敷きに採用している。いつの時代もおよそ読書人たるもの、素晴らしい文章が書けるという事に生涯を賭していたのである。事に真偽はともかくとしても、その価値観がよく現れた逸話である。

(大意)「その昔、江淹の夢に人物が現れ、一本の筆を与えられた。筆鋒の毛は五色の花のようで、光り輝いており、まことにいとおしく感じられた。このことによって江淹の文章は日ごとに進歩し、文壇に名を馳せるようになったのである。」

「當時余幼、承父命習計然之策、浮游江湖、不遑問學。」
『余は幼き時に當り、父命(ふめい)を承り計然(けいぜん)の策を習う。江湖(こうこ)に浮游(ふゆう)し、學を問う遑(いとま)なし。』

計然は春秋戦国時代、越の名臣である。越王勾践の時代、名宰相の范蠡(はんれい)に「経世の術」つまりは経済政策を与えたといわれる。計然の献策によって越は富国強兵を成し遂げ、呉を破って会稽の恥を雪(そそ)ぐことになる。その後范蠡は、国家政策において有効であった計然の策を、個人が商売に適用したら成功するだろうと考えた。そこで名を変えて他国へ渡り、商業で大成功を納めるのである。以上の話は史記の「貨殖列伝(豪商の列伝)」に見られる。すなわち「計然の策」といえば、端的には商売(のやりかた)のことである。
徽州では男子は幼い頃から教育を受けるが、12,3歳の頃に基礎教育が済んだところで素質や家庭の経済状況に応じてコースが振り分けられる。すなわちそのまま科挙の勉強を継続するか、家業(多くは商業)を継ぐかを選択、いや本人の意思というよりは多分に親の命ずるところにより決められるのである。いわば義務教育後に、商業コースか官僚コースに進むということだ。
程大約の場合は科挙受験の素質が無かったのか家の事情からか、後者を父親に命じられたということだ。もちろん当時の社会の倫理から言えば、父親の命令は絶対である。程大約の家庭はほどほどに裕福であったから、あるいは科挙向きの学問にはあまり向いていなかったのだろか。事実程大約は生涯何度か科挙に応じているが、生員(科挙受験資格者)を出なかったのである。あるいはまた、父親が高齢であれば家業の行く末を危ぶんだとも考えられる。
士大夫の家庭の価値観といえば科挙に合格することが絶対であるが、学問を続けるためにはその家庭の財政基盤も不可欠なのであり、家業を潰してまで子弟に学習を続けさせることは出来ないのが普通である。
そこで「江湖に浮遊」とあるが、「江湖」は俗に言う世間。そこを漂ったというのだから、程大約も徽州商人の例に漏れず、他地域への交易に日を送ったことであろう。それで学問をしている暇がなかったということだ。いささかの不本意が読み取れるところである。
(大意)「私は幼いときは、父親に命じられて商売のやり方を勉強していた。交易のために色々なところに行き来していたため、学問をする閑などなかったのである。」

「中年適、有所激奮、跡成、均始親經史、領略大義而已。」
『中年に適(あた)り、激奮する所(ところ)有り、跡を成し、經史に親しむに均始(きんし)して大義を領略(りょうりゃく)すのみ。』

ここで「中年」と言っているが、いわゆる四十代、五十代という年齢の意味ではなく、人生の半ばというほどの意味であろう。昔は人生五十年だから、二十代の半ばを指すと解釈できる。とはいえ、24,5才の頃には北京に游学していたから、学問に専念し始めたのは20歳前後のことであろう。「激奮」とあるのは、発奮するところがあって、というところだ。
現代の感覚からすれば晩学というほどでもないが、早期英才教育が基本の当時の士大夫にあっては、やはり遅いという見方が出来る。古典の世界でも「中年」は四十、五十歳くらいの年配を指すことがあるが、ここでは「晩学」を強調するためにあえて「中年」としたのかもしれない。
「跡(せき)を成す」というのは「墨跡を成す」というほどの意味であろう。書法も本格的に学んだようである。「經史」はいわゆる経書と史書であり、当時の士大夫の必須の教養である。すなわち「五経四書」のことであろうが、当時の士大夫の子弟は、幼少期に少なくとも五経四書の全てを暗誦できるように教育されていたのである。
さすがにこの時期に程大約がそのレベルの暗誦から始めたとは考え難く、ここではより深くその文の意義を理解する本格的な読解だったのであろう。そしてその学問を通じて「大義」すなわち、世の中の大きな道理を理解した、ということを述べている。文末に「而已」とあるのは、「〜に過ぎない」という意味を強調している。
(大意)「大人になってから発奮するところがあって勉強をやり直した。書を習い、経書や史書を学びなおし、世の中の道理の根本を理解したに過ぎないが。」

「薄宦一載歸羅家難、乆綜困保宮。」
『薄宦の一載、羅家の難に歸し、乆(=久:ひさ)しく保宮に綜困(そうこん)す。』
(大意)「しかしながら都でわずかな官職にありついて、一年ばかりで羅龍文の事件が起きてしまい、郷里に帰らざる得なくなった。また(冤罪に遇って)しばらくのあいだ監獄で過ごさなければならなかった。」

「薄宦」というのは、文字通り俸給の薄い下級官吏のことである。「墨苑自序文」に拠れば、程大約が北京に游学していたのは嘉靖四十三年(1564)とある。このとき程君房は「国士監生」だったのであるが、官僚養成学校の学生ということである。ちなみに程大約はこの学生資格を「資を以って」つまりお金を出して購っている。また「墨苑」に収録されている友人の趙鴻程の文に拠れば、程大約は隆慶元年(1567)にこれを卒業している。
「国士監」を卒業することによって「太学生」という身分を得ることになるが、後に程大約はこの「太学生」資格により、鴻路寺序班という官職に充てられる。これが「薄宦」のことであろうか?しかし程大約が鴻路寺序班に任じられたのは万歴年間のことであり、次の「羅家の難」と前後関係が異なるのである。
「羅家の難」というのはもちろん、嘉靖四十四年に羅小華こと羅龍文が厳世蕃とともに処刑された事件であろう。「歸す」とあるが、「歸(帰)る」というのは普通は官吏が郷里に「帰る」ことを言う。「一載」は「一年」。すなわち羅龍文が刑死したのは嘉靖四十四年であるから、嘉靖四十三年から一年で郷里に帰ったということであれば、文意に沿うのである。「国士監」も大学校と同様、下級の官吏の身分であるから「薄宦」といえなくもない。しかし隆慶元年に「国士監生」を卒業しているのであるから、「歸」を辞めて郷里に帰った意味と取ると、文意と実際が合わなくなるのである。
次に「保宮に綜困(そうこん)す」とある。「保宮」というのは地方の収監所、監獄である。「綜困(そうこん)」というのは、易経でいうところの「井綜困」であろう。凡その意味は「井戸に落ちる」ことであり、これは良い場所からよくない場所へ下る卦であるから「投獄」というほどに解釈していいだろう。現代人にはピンと来ないが、当時の士大夫の子弟は「易経」はすべて暗記していたのである。
つまりここでは、程大約が投獄されたことをさしているのだろう。いずれ詳述したいが、程大約は親類との間で係争があり、身内によって殺人の冤罪に陥れられるという、陰惨な経験をしているのである。後世、この事件が方于魯や汪道昆との確執と混同されているが、これとは別の事件である。
ともあれ、これはあくまで「賦」なのであるから、実際の事件を反映した内容ではなく、羅家の難や自らの収監などを理由として、「官途」を断念せざるえなかったことを述べているに過ぎないだろう。ただし程大約が賦の中で、羅龍文の事件に言及している点は注意したい。
羅龍文が時の権門であった厳嵩に接近したように、徽州の人士達の中には、積極的に羅龍文に近づいた者たちも多かったであろう。その交際の範囲に、程大約が含まれていた可能性は、十二分にある。
もとより当時から墨癖があった程大約のこと、墨匠としても今をときめく羅龍文に関心がなかったとは考えられないことである。程大約が「国士監生」として都に滞在していた時期に、羅龍文の処刑は行われ、ついで胡宗憲が獄死しているのである。これらの事件が程大約の人生や心理に、どのように作用したかはいずれ考えたいところである。

「情思無聊間、以篇籍自娯、麄渉吟詠思致蹇澀、未敢示人。」
『情思(じょうし)無聊(ぶりょう)の間(かん)、篇籍(へんせき)を以って自ら娯(たの)しみ、麄渉(そしょう)して吟詠(ぎんえい)し、思い致るも蹇澀(けんじゅう)、敢えて人に示さず。』

「麄渉(しょしょう)」はすなわち「粗渉」であるが、そぞろ歩き。歩きながら吟詠し、景物を見て「思致」つまりは詩文の構想が浮かぶも、「蹇澀(けんじゅう)」とあるのはなかなか詩にまとまらない、いわゆる苦吟の様相である。またそのような詩文を、敢えて人には見せなかったということである。
この箇所は前の文の「保宮」を受けている。程大約には「圜中草」という詩文集があり、これは投獄中に読まれたものだと言われる。程大約の獄中生活がどのようなものであったかは未詳であるが、自家の財力を使って、ある程度はその環境を緩和していたことは考えられる。程大約はその一族の者が罪に触れたときも、大金をはたいて救うということもしている。屈辱的な生活であるには違いないが、本を差し入れてもらい、散歩できる程度には拘束を緩めてもらったのかもしれない。
程大約の獄中生活は、万歴二十一年(1594)から万歴二十八年(1600)までの、実に6年間に及んでいるといわれる。しかしこの間にも、「墨苑」の製作は鋭意進められているのである。収監といっても本当に監獄に入れられていたのか、あるいは自宅で行動を制限されていた程度なのかは未詳であるが、ともかく詩文を作ったり、墨苑の編纂作業が出来る程度の自由はあったようだ。

(大意)「物思いに耽って手持ち無沙汰なときは、本を読んで一人で楽しんだ。またそぞろ歩きをしながら詩を吟ずるなどをしていたが、詩句が頭に浮かんでも、なかなか体裁を整えることが出来ずにいた。そうして作った詩賦は、あえて人に読ませるということをしなかったのである。」

(つづく)
落款印01


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