蛤蜊箋の材料

蛤蜊箋雲母にあらず、蛤蜊箋とはこれいかに?というとところで話が止まっていたのであるが、この「蛤蜊箋」を作った本人に聞くよりは仕方無いところである。というわけで、上海で加工紙を作る工房を再び訪ねたのであった。加工紙の工場今回も気軽に訪問を許してくれたこの工房なのであるが、このレベルの技術を持った工房は、おそらく大陸どこを探しても無い、というのが実情である。小生が知る限りでは、王朝時代の加工紙の技法を今に伝える、ここが最後の工房なのである。別段、国から無形重要文化財に指定されているわけでもなく、人間国宝がいるわけでもないのであるが。
こういった紙の加工工場や職人は、昔は蘇州に集中していたのだという。現在は安徽省にわずかに残り、上海ではもはやここだけである。
安徽省の多くの加工工場は、工業的な技術を多用して加工紙を造っており、伝統製法とはいい難くなってきている。宣紙の産地ではあるが、その品質にも疑問の余地があることは、加工紙に限った話ではない。
加工紙の工場「蛤蜊箋」については、論より証拠で、実際に原料を見せていただいた。「蛤蜊箋」に使われる「蛤蜊粉」は、粒子の粗さの程度によって2種類に分けられていた。
加工紙の工場加工紙の工場加工紙の工場やや粗い方は、一目でそれとわかる銀色の光沢の粉末である。一方の細かい方は、一見すると胡粉のような白っぽい細粒であるが、こちらも指先に伸ばすと確かな光沢が現れる。指先で、細かい銀の粉を煉っているかのようである。そういえば、ある種の化粧品にも、このような銀粉を思わせる粉末が使われていたように記憶している。材料が同じかどうかはわからないが、微細な粒子が放つ光沢の感じは、アイシャドウにもよく似ている。
加工紙の工場加工紙の工場指でさわってみると、あたかも蝶を指でつかんだとき、鱗粉が指に付着するような具合である。蝶の銀粉が指に付着するとしつこくなかなか落ちないように、この蛤蜊粉もなかなか落ちない。手を払うと、細かい銀粉がキラキラと宙を舞い、眩暈がするようである。また黒い服につくと、ラメを散らしたようにキラキラとした輝きを放つ。はたいてもこれがなかなか落ちないのである。この蛤蜊粉は非常に細かく軽い粒子なのであるが、一粒一粒がしっかりとした光芒を放つのである。
加工紙の工場加工紙の工場蛤蜊粉は見た。それでは「雲母はないのですか?」と聞くと、「あるよ。最近の紙には使ってないけどね。」ということで、雲母の粉末もあるのだという。この雲母粉も見せていただいた。
なるほど、蛤蜊粉の粗い方をさらに粗くしたような、小さな魚の鱗(うろこ)を集めたような細粉である。こちらもやはり透明感のある銀色の光沢を呈しているが、蛤蜊粉の粗いほうと比べても、さらに粒子が粗いことは否めない。この雲母粉も、使用するときにはさらに破砕を加え、粒子を繰り返しふるいにかけてから用いるそうである。しかしながら、蛤蜊粉ほどの細かさにはなかなかならないのだという。

「蛤蜊箋」の「蛤蜊」とは、一応は「ハマグリ」ということになっているのだが、桑名のハマグリと同類の貝かどうかはわからない。工房の老板も、この「蛤蜊粉」については、昔から福建省から仕入れているのだが、製造しているところを見た事がないのだという。
銀色の光沢を持つ蛤蜊粉の原料が、貝なのだとしたらどんな貝だろうか?おそらくは螺鈿細工に使われる夜光貝、あるいはアワビのような、内側に「真珠層」を持った貝の破砕物であると考えられる。「ハマグリ」の名のような二枚貝で、このような真珠層を持った貝があったかどうかは、詳らかではない。
この「蛤蜊粉」を作っている福建省といえば、かつては螺鈿の細工が盛んであった地域である。漆器と螺鈿は福建や福州の特産品であり、福建省の人々は遠く南洋や日本まで、原料の夜光貝を求めて交易を行ったと言う。また日本の漆器や蒔絵の技術とも交流があり、日本でも行われる螺鈿の技術は、福建から伝わったと言われている。この蛤蜊粉も、やはり螺鈿や漆器の技術と関係がありそうである。
工場長の話では、「雲母箋」といえば、昔はもっぱら雲母粉が使われていたという。ところが蛤蜊粉の方が粒子が細かく、その光沢も美しい。よって蛤蜊粉が使われるようになっていったということだ。しかし蛤蜊粉がいつ頃から使われるようになったかは定かではない。
「蛤蜊粉」あるいは「蛤粉」は、本草綱目をはじめ、多くの漢方の処方に薬材として採録されている。しかしこの場合の「蛤蜊粉」は、貝殻を焼成してから砕き、粉末にしたものである。色は白色で光沢は現れない。紙の加工に使われている「蛤蜊粉」とは、同一の物ではないだろう。
現在の中国絵画の顔料には、蛤白あるいは蛤粉という白い顔料があり、焼成した貝殻を破砕して作られる。同じ白色系の胡粉は、鉛白を使用した金属化合物である。ところが文献上では胡粉と蛤粉が混同されていることもあるので、ここは注意が必要である。

ところで蛤蜊粉と雲母粉とで比較すると、蛤蜊粉の方がずっと高価なのだという。確かに、ある種の貝の内側から、わずかしか取れない原料なのである。鉱物資源として、ある程度の量が確保できる雲母よりは、はるかに高価なのも理解できる。
この蛤蜊粉は、膠を溶かした溶液に混ぜ、刷毛で薄く紙に引く。乾いてから再び刷毛で蛤蜊粉を引く、といった作業を8回〜9回行うのである。粒子の粗い、雲母粉を使う場合はこれが4回程度になるという。8回も塗り重ねることが出来るのは、非常に粒子が細かい蛤蜊粉だからである。もちろん、原紙となる紙の品質は重要であり、極々薄く、丈夫な紙を使用しなければならない。表面が滑らかで、薄く均一の厚さに漉かれていなければ、たちまちムラを生じてしまう。刷毛でなぞって繊維がケバ立つような、脆い紙は使えないのであり、原紙もすべて老板の特注品なのである。
加工紙の工場加工紙の工場蛤蜊粉を定着させる膠は、昔は牛の皮の膠を使ったという。現在は自製した豚の皮で作った膠を使っているのだということである。墨と同じで、紙に顔料を定着させる膠は非常に大切で、どのように作られているかわからないような市販品は、使えないのだという。膠と水の配合は、季節によって異なり、その微妙な調整は老板にしかわからない。
「蛤蜊箋」のもととなった紙には、雲母が使われているのだろか?それとも蛤蜊粉であろうか?ともかく工房の老板は小生が送ったサンプルの紙の、質や状態を聞いた上で、蛤蜊粉を用いたということである。雲母は細かく砕くのが蛤蜊よりも難しく、また光沢も蛤蜊の方が優れているためである。
蛤蜊粉を用いたから蛤蜊箋ということであるが、実はこの「蛤蜊箋」という紙は、古い文献からは発見できていない。しかし「文房用品辞典(上海書画出版社)」には、「蛤粉箋」という紙が収録されている。あるいは同一の紙であろうか?「文房用品辞典」の説明では、「蛤粉箋」は別名「扇料箋」ともいい、単宣あるいは重単宣に膠および明礬を溶かした溶液を塗布し、上から「蛤粉」を撒いてつくるのだとある。扇面に使われる料紙である「扇料」に使われることから、「扇料箋」の名があるという。別の項目に「扇料箋」とあるが、これは即ち「蛤粉箋」なのだという。
「文房用品辞典」の「蛤粉箋」の製法は「蛤蜊箋」とは異なるが、「蛤粉」を紙の加工に使用すると言う点では、共通している。「扇料」には金箋や洒金箋も使用されるから、かならずしも「蛤粉箋・イコール・扇料箋」とはいえない疑問も残るが、蛤蜊箋の主な使用目的を暗示してはいる。
ところで蝋箋は、さまざまな顔料を用いて紙に着色加工を施しているが、白色の紙には胡粉が用いられている。白色の顔料を引いた上から蝋を塗布し、砑光して光沢のある紙に仕上げた「粉蝋箋」という紙もある。この紙に塗沫される胡粉が、蛤粉であることもあったであろう。そう考えると蛤蜊箋は、蛤蜊粉(あるいは蛤粉)が顔料に使用されるようになった頃から作られてきたとも考えられる。
雲母は如何に破砕しても、キラキラとした光彩を放つが、貝殻を原料にした白色顔料については、如何に光るかは含まれる「真珠層」の量による。当初から光彩を狙って雲母を使用した事に対し、蛤蜊粉ないし蛤粉を使用したのは、白色系顔料の使用の延長上にあったのかもしれない。
もとより、螺鈿の原料となる夜光貝などは、王朝時代は宝石と同様に高価な品である。真珠層の光沢が明瞭に現れるほど、ふんだんに材料が入手できたとは考えにくいのである。流通が発達した現代では、世界各地から真珠層をもった貝が集められるため、多少は量が確保しやすくなっているかもしれない。いずれは雲母箋も作って比較しなければならないが、粒子の細かさは別として、求める効果にはやはり類似性があるだろう。加工紙の工場扇料箋、粉箋、あるいは胡粉や蛤蜊粉(蛤粉)と紙の関係については、もう少し調べなくてはならないと考えている。同じ単語でも、漢方薬なのか顔料なのかで材料や製法に違いがある場合もある。また用法を混同していることもよくあるのである。とくに胡粉と蛤粉は混用の疑惑が強い。
ともあれ、この蛤蜊箋も、伝統的な材料と製法によって造られた、あきれるほど手間のかかる加工紙である。しかしその光彩は見るものの目を奪わずにはおれないのであり、古人の紙の加工にかけた工夫の数々には(またそれを再現してくれた老板には)、まったく頭が下がる思いである。
落款印01


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