石と蝋と紙

紙の加工に、「砑光(がこう)」という加工法がある。「砑(が)」は「石」に「牙」と書かれる。滑らかな石で紙の表面を光沢が現れるまで、磨(と)ぎあげる作業である。また砑光処理の前に、紙に蝋(蝋)や漿(米を煮た重湯)などが塗布されることもある。砑光の道具石と蝋蝋箋や煮捶宣を造っている工房で、砑光用の道具を見せていただいた。砑光に使われる石は、4kgほどの重さはあろうかという大きな石である。特殊な種類の石ではなく、滑らかで手頃に持ちやすい大きさの石であれば、何でも良いのだそうだ。
ここで使われていたのは、表面に自然の凹凸があり、使っていて手から滑りにくいような天然石である。一面を平面にカットし、滑らかに研磨している。また紙に砑光を施す過程で、研磨に使う面がさらに磨かれるのである。石の代わりに、大蛤(はまぐり)などの貝殻を使う方法もあったという。
石と蝋こうした手作業による砑光以外に、工場によってはローラーなどの機械を使用した砑光処理もある。無論、手作業よりも、量産に向いたローラー機械の使用が主流である。しかしローラーが垂直に紙に圧力を加えるだけなのに対し、手作業による砑光は、水平方向に滑りながら繊維を摩擦する。塗布された蝋が繊維の隙間を埋めながら、紙は独特の光沢を呈するようになるのである。もちろんこの工房にはローラー機械などはなく、すべて手作業で「砑光」を行っている。
この工房で作られた「羅紋煮捶宣」も、手作業によって蝋が塗布され、砑光の仕上げが加えられている。斜視すると、蝋を塗って磨き上げられた光沢がほんのりと現れる。「煮捶宣」は紙を重ねて、上から打撃や圧力を与えて繊維を緊縮させる法もあるが、この工房では砑光というより手間のかかる方法によって、紙にその効果を与えているのである。
かつての「北京栄豊齋A級四尺二層玉版宣」は、二層に漉いた浄皮重単宣に、手作業による砑光が施されていた。これも斜視すると、紙に蝋を引いた跡がわずかに光沢となって見る事ができる。後にこの紙の砑光処理が、ローラー機械による加工に代わってしまったという。
70年代から80年代にかけて、「北京栄豊齋」が無い「A級二層玉版」という高級紙が市場に流通した。しかし多くは厚めに漉いた棉料紙にローラーで圧をかけた紙であり、「北京栄豊齋A級二層玉版宣」とは原紙の質も、加工の綿密さも同じ物ではない(滲みが強く脆く、墨の発色も良くない紙である)。

ところで「煮捶宣」の「捶」は「打つ、たたく」という意味がある。また玉扣紙の「扣」も「たたく」という意味であり、米芾のいう「春膏紙」も叩かれて表面を玉石のように艶ややかにした紙である。この「叩く」という加工法は、製紙技術の確立と普及(前漢)以前から、絹布や綿布に対して行われていたと考えられる。
李白の有名な詩に「長安一片月 萬戸擣衣聲 (萬戸、衣うつ声)」という句があるが、織り上げた絹布や綿布を叩き、柔らかく滑らかにする作業は、古くから行われていた。いわゆる「砧(きぬた)打ち」である。たたき、あるいは圧力を加えることで、絹糸で織られた繊維は緊縮し、薄く柔らかく、かつ滑らかな光沢があらわれるようになる。この手法を紙の繊維の上に施したのも、自然な発想と言えるだろう。もとより、漉いただけの紙、生箋は吸水性が高く、繊維も粗慢で脆いのである。
後漢の蔡倫が考案した造紙法には、その原材料に、破れた布や麻クズ、魚網が用いられたと伝えられている。このことからわかるように、もともと造紙技術というのは紡績技術と密接な関係がある。のちに蜀で量産される麻紙の原料の麻は、造紙技術の発達のはるか以前から、織物にも使用されているのである。
蔡倫の技術を継承したと言われるのが、後漢の左伯、字(あざな)は子邑である。彼の作った紙は「左伯紙」と呼ばれる。この左伯紙については、後漢末の韋誕が自らの墨と併記して高く評価している。また下って南朝の蕭子良(460〜494)は、”子邑之紙,妍妙輝光”とその性質を述べて賞賛している。ここで蕭子良も、「輝光」と、この紙の光沢に言及している。この点を考えると、左伯紙も紙に打撃や摩擦を加え、光沢を出した紙だったと推測される。漉いただけの紙が、光を反射するほどの滑らかさを持つことはないからである。すなわち製紙技術の最初期の頃から、紙には光沢を出すような加工が施され、書画に使用されていたと考えられるのである。
織っただけの絹帛に、そのまま書や畫が書かれる事は無い。打って繊維を引き締め、蝋引きや礬砂引きなど、なんらかの処理が施されてから用いられる。同じ加工処理が、紙に対してなされていないと考える理由もないのである。
石と蝋この白いカタマリが、工房で紙に塗布される蝋である。この「蝋」は「川蝋」あるいは「虫蝋」とも呼ばれ、主に四川省で古来から生産されている。女貞(ねずみもち)などの樹木に寄生する、アリ科の昆虫の巣から採取される。
この蝋は食べる事も可能であり、古くから食品を包む包装紙にも使用されていたという。つまりは油紙、あるいはいわゆる蝋引き紙、すなわち「パラフィン紙」としての用途である。
紙は筆記のメディアとしてのみ、使用されたのではない。むしろそれは、紙全体の用途から見れば、あくまで一部分であっただろう。紙は綿や絹などの手間がかかり高価な繊維に比べると、安価で量産が可能であり、利用しやすい繊維である。造紙技術の確立によって、紙が生活のさまざまな場面に応用されたことも、考える必要がある。
明初に成立した処方術集、「普濟方」には、蝋を塗った紙「蝋紙」が、医療に用いられたさまざまな例を見る事が出来る。たとえば膏薬を塗って患部に当てるといった用法のほか、薬材を包むなどの用例がある。
また日常の用法としては、生肉を包んだり、酒甕に封をする、といった食品関係の事に使用されている。防水性という点では、油紙でも同様の効果がある。しかし油は長時間置くと揮発し、また酸化によって特有の臭気を帯びるようにもなり、時に食用には有害でもある。その点、蝋は状態が変化しにくい。
また蝋紙で張った灯篭なども、紙の透明度を生かした用途のひとつにある。北宋の蘇軾の「夜過舒尭文戯作」には、“推門入室書縦横,蝋紙灯篭晃云母。”とある。「門を推して書斎に入れば、書が縦横に書かれ、蝋紙を貼った灯篭は、(紙に散らされた)雲母を照らしている。」というところか。ここで言う”雲母”は、筆書に使われた料紙の雲母であろう。
あるいは南宋の陸游の「秋興」には”成都城中秋夜長,灯篭蝋紙明空堂”とある。「成都の都城の秋の夜は長く、蝋紙を貼った灯篭は、人気の無い官舎を照らしている」というところ。蝋紙を貼った灯篭は、士大夫の夜の生活の必需品であったことだろう。

叩く、あるいは磨くといった加工が、紙の発明以前から絹や綿、麻などの繊維の上に加えられていたように、蝋も繊維加工と深い関係を持っていた。そもそも生糸や綿糸に蝋を塗り、糸を丈夫で滑らかにすること(上蝋)は、織物を作るうえで欠かせない処理である。
現在でも紡績蝋という専用の蝋が作られており、四川省が主な産地である。また蝋染(ローセン)や蝋块(ロウケツ)など、蝋は繊維の染めの技術にも非常に古くから使用されてきている。
北宋の米芾の著名な作品に「蜀素帖」があるが、古代の蜀は絹布の主要な生産地であり、同時に蝋の産地でもあった。また蜀紙として総称された、製紙業も非常に盛んな地域であった。製紙業が、紡績業から技術的な影響を受けていたことは、想像に難くないところである。
実際に蜀の麻紙「成都麻紙」あるいは「益州麻紙」は、唐代の宮廷紙であった。「新唐書」の記載によれば、唐の玄宗の時代は「太府月給蜀郡麻紙五千番、季給上谷墨三百三十六丸。歳給河間、景城、清河、博平郡兔千五百皮為筆材。」とある。すなわち、宮廷には月に蜀の麻紙が”五千番”(単位は不明)、四季ごとに上谷墨(易水の墨)が三百三十六丸、また念に筆に使われる兎の毛皮が千五百枚納められた、ということである。
元末から明初にかけて生きた陶宗儀(とうそうぎ:1329〜1410)が著した「説郛」がある。その中の「書史」では、唐宋にかけての名家の筆跡について真贋が論じられている。ここではほぼかならず、使われている紙を示してから論に入っているが、真跡あるいは後代の臨写本には、楮紙、麻紙、黄麻紙、あるいは絹帛などが多く用いられていることがわかる。特に唐代の名家の真跡の多くに麻紙か黄麻紙の使用が多くみられるのは、唐の宮廷紙に蜀の麻紙が充てられていたためと考えられる。ちなみに黄麻紙は、防虫の為に白い麻紙を蘗(きはだ)などの漢方薬で染めた紙である。
一方で「唐粉蝋紙」という紙もみられるが、これは真跡でないもの、すなわち手本をトレースして作られた「模本」、あるいは「雙鉤填墨(そうこうてんぼく)」(字の輪郭をトレースしてから、墨で塗りつぶしたもの)に使用されている。
模本や「雙鉤填墨(そうこうてんぼく)」は、市井においてもっぱら”贋作”を作るために行われたのではなく、宮廷において名家の真筆が下賜されるかわりに精巧な模本が作られ、皇族や臣下に送られたのである。ゆえに宮廷には高度な技術を持った専門の職人がおり、おそらくは使用される紙も官製の蝋紙であっただろう。麻紙や黄麻紙と同様、この蝋紙も蜀で造られていたと考えられる。(この蝋紙で造られた唐代の模本や雙鉤填墨本は、後世大いに真を乱す事になるのである)

蝋を塗布し、叩いて繊維を緊縮させた紙は、薄く丈夫で防水性が加わり、かつ油脂によって紙に透光性が増すようになる。そのような蝋紙は、トレーシング・ペーパーのように下敷きにした書や畫を透過するので、模本の作成に広く用いられた。油紙も透ける紙であるが、油脂によって下絵を汚すおそれもある。蝋紙の蝋は下敷きの紙に浸透する事はなく、また防水性によって、墨液が浸透して下絵を汚す恐れも無いのである。
また蝋紙は、下絵を写すための紙である一方で、紙の表面が非常に滑らかで墨が滲まず、筆が滞ることのないことから、それ自体が筆跡にも適しているという発見もあったであろう。また畫に用いれば、繊細な筆致をよくとどめ、ごく淡い墨液も忠実に発色する事が見出されたはずである。やがては蝋を引いた紙そのものに、華麗な彩色がほどこされるようにもなるのである。
汪士慎汪士慎石と蝋漉いて乾燥させただけの、生箋が全盛の現代では、紙に蝋を塗って磨(と)ぎあげるという作業は、いかにも奇異なことのように思われるかもしれない。しかし事実として紙は墨液が滲まず、滑らかな運筆を可能にするように、さまざまな工夫が施されてきたのである。

現代では、宣紙などの手漉きの紙は、もっぱら書画に使用されている。紙の上に加えられてきた加工についても、書画の表現上の要請から、色々な工夫が重ねられてきたと考えたいところである。しかし以上見てきたように、王朝時代においては、紙は書画以外にも、日常でのさまざまな用途に供されていたのである。それらの用途に合わせた紙の多様な加工法が、書画用の紙に与えた影響も少なく無いであろう。またその加工法の着想は、多くは造紙技術に先立つ紡績技術から導かれた可能性が考えられるのである。
現在では日常の用途においても書画の世界においても、このような加工紙が必要とされる場面は非常に少ない。加工の技術も喪われようとしている。喪われつつあるという事実自体、顧みられていないのが現実なのである。
落款印01


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