墨の色と光

墨色についてはさまざまな誤解があるのだが、良い墨色の基準としてよく言われるのが「紫が最上、次が黒、青、白がもっとも下」というものである。これはおそらく、宋代の晁貫之の「墨經」の中の記述に「凡墨色紫光为上、墨光次之、青光又次之、白光为下」と書かれているところから来ているのだろう。
実際に墨色についてやかましい人の間でも、滲みやすい宣紙に淡墨で書いて、その色が紫なのか青なのか?ということのみを、もっぱら議論している向きがなきにしもである。無論、紙に書いた時の色も墨色には違いないのであり、その好みも様々にあるだろう。佳墨を良紙に用いて、淡墨で青を感じさせるようなグレーを呈することが多いのも事実である。
しかし宣紙に書いた墨色でもって、王朝時代の墨の鑑賞におけるそれと混同するのはあきらかな間違いである。注意しなければならないのは、「墨經」では「紫」や「黒」と言っているのではなく、あくまで「紫光」や「青光」と記述されている点である。
多くの文章では、「墨經」の記述は「白光为下」までしか引用されていないのであるが、「墨經」には続く文に「凡光与色不可廃一,以久而不渝者为貴,然忌膠光。」とある。「凡そ光と色とはひとつとして廃すべからず、以て久しく渝(かわ)らざる者を貴とし、然るに膠光を忌む」と読める。
すなわち「光と色はどちらも無視していいものではなく、長い時間が経過しても変化しない者(墨)こそが貴重なのだ。しかし膠が光っているだけのような墨は避けるべきである」というところであろう。ここでは墨色を、「色」と「光」の両面から観賞している点が重要である。
晁貫之の言うところの「紫光」や「白光」というのは、紙の上に浸透した後の墨色が紫や黒、という意味よりも、より積極的には墨の光沢、艶のことを言っていると考えられる。さらに具体的には墨に光を当てた時の反射光である。
また明代初期の沈繼孫が著した「墨法集要」には、桐油で製した墨について「但桐油得烟最多,为墨色?而光,久則日?一日」と述べている。「为墨色?而光」がポイントであるが、「墨色は黒(くろ)而(しこう)して光を為す」と読める。すなわちここでも、墨色を「黒」と「光」に分けて鑑賞し、述べているのである。黒は無論のこと墨の黒さのことであるが、「光」は墨の光沢のことであると考えられる。

現代の墨匠に聞いても、良い墨は「紫光」を発する、という。こういう話をすると、これは特別な鑑賞眼をもった人にしか見えない、何か神秘的な光であるかのように思う人がいる。しかし以下に示すように、墨の紫光は誰にでも見ることができるし、以下の写真のようにデジタルカメラのセンサーにすら、ちゃんと感知できるものである。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光墨の「紫光」の意味がよく理解されていないのは、一つには「紫光」を発するほどの墨が現実問題として少ないこと。そして「紫光」を観察する場合の条件が、あまりよく知られていないことに起因するかもしれない。むろん、墨色を鑑賞することすら、いまや稀なのかもしれないが。
墨の紫光を観察したいときには、光源が重要である。硯なども、太陽の下で見なければ、本当の石色は鑑賞することができないといわれる。墨や硯に限らず、鑑賞するときには光源は重要なのである。

以下、ご存知の方には今さらの内容である。

人間は、対象を照らす光源に含まれる光の波長の範囲内でのみ、視覚で色を認識することができる。色の違いは、波長の異なった光(電磁波)を知覚することで認識されるからである。
人の目に色として認識できる波長の光が可視光である。光に含まれる可視光の分布は、スリットとプリズムを通し、虹の七色のようにスペクトル分解することで把握できる。
トンネルなどで使われる、オレンジ色のナトリウムランプは単色の可視光である。ゆえにトンネルを通過する際には、車の中はオレンジのモノ・トーンになる。スペクトル分解すれば、オレンジ色の帯域の光のみが得られることになる。

最近急速に増えているのがLED照明である。LED証明は、同じ白色光源であっても、その波長の分布は製品によって様々である。現在の一般的な白色LEDは、青色を発光する素子に白の蛍光剤を使って白色を出している。このような光源を使うと、含まれる光の波長はおおむね”青”に偏っている。その一方で”赤”の波長が非常に弱い。結果的に、対象の見え方も青色が強くなり、赤色の部分は弱くなる。
晴天時の太陽の光は、すべての可視光が含まれているため、鑑賞する場合の光源として自然光(太陽光)が最も優れているといえる。ただし曇天時には、波長の長い”赤”が雲によってカットされるため、曇天下では対象の色味や人物の顔色が冴えない印象を受ける。血色が悪い顔というのは、元気がないように見えるものだ。
つまり光源がどのような波長の光を、それぞれどのような強度で含むかによって、照らされた対象の見え方は相当に異なってくるのである。

たとえば老坑水巌の石品、とくに青花を観賞するときは、水につけて太陽の下で鑑賞せよとは、清朝の昔から言われ続けてきたことである。光源にさまざまな可視光の波長がバランスよく含まれていないと、青花のような微妙な石品を、クリアに識別することは難しいからである。識別の面からだけではなく、石品が本来持つ美しさを充分に感得するためには、やはり光源が優れている必要があるのである。

人工光源を”色の良さ”という面で考えると、いかに太陽光に近いか?がひとつの基準になる。これを”演色性(Ra)”といい、太陽光を基準(100)として、0〜100の数値で表される。
従来使われてきた白色光源である蛍光灯と白熱電球では、蛍光灯がRa80〜90、白熱電球がRa100である。普及している安価な白色LEDの多くはRa75〜85であるから、室内の照明をLED照明に交換した場合は、鑑賞という面では注意が必要である。
実はRaが100といっても、スペクトル分解すれば、まったく太陽と同じスペクトルということではない。特定の色の波長で比較すれば強弱があり、したがってモノの見え方が厳密に同じということではない。しかしおおむね、Raが良い方が美術品の鑑賞のための光源としては優れていると考えて差し支えないだろう。
普通に考えると、Ra100の白熱電球が優れているということになるが、白熱電球は光に赤外線を含み、照射対象を発熱させるので、長時間照射するのは作品の保存という観点からは望ましいものではない。また発光効率が悪いため、省エネの観点から、近年欧州などでは白熱電球の生産を停止しつつある。ハロゲンランプもRa100を実現する製品があり、発光効率は白熱電球よりも高い。また紫外線カットガラスを使って、ある程度は照射対象へのダメージを低減して使用されている。
中国の博物館や、宝飾品のショーケースを見た限りでは、ハロゲンランプの利用が多いように思える。また作品保護のため、人感センサーを使用し、人が作品の前に立つ一定時間のみ、光を照射するような機構を採用している場合が多い。

光源の話はさておき「紫光」の鑑賞に戻る。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光前に掲示した写真を撮影した時の方法を述べておく。まず墨を濃く磨り、しばらく放置して墨が乾くに任せる。時間が経過すると、墨液が周囲から乾いてゆき、中心のほうに濃縮された墨液が集まってくる。これを自然光の下で見ると、明らかに黒や単純な反射光以外の色彩が見えてくる。自然光といっても、直射日光の下ではやや光が強すぎるかもしれない。このときは天井の明かり窓から採光された、幾分やわらいだ光の下で撮影している。
乾燥させて濃縮させなくても「紫光」を見ることはできる。しかしここではより明瞭に示すため、以上のようなプロセスを経た。デジタルカメラの性能にもよるが、人の目に見えたとしても、カメラのセンサーではっきりと写し撮るためには、若干の工夫が必要である。

墨匠の話では、墨色に「紫光」や「青光」の違いが表れる原因には、煤や膠、漢方薬など、さまざまな要因があるという。これは一概に言えることではない。しかし一つ言えるのは、少なくとも「紫光」を呈する墨は、非常に細かい油烟を使用しなければならない、ということだそうである。粒子が粗いと、これが「青光」に近くなる。そして膠が重い墨は「白光」になりやすいのだという。これは晁貫之がいう「忌膠光」のことを言うのかもしれない。膠は墨の光沢を決定する重要な要因であるが、膠のみに光沢を依存した墨というのはよろしくない、ということであろう。
墨匠の基準で良い墨が紫光を発する、というのは逆にいえば紫光を発する墨は微細で良質な油烟から作られている、ということでもある。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光油烟墨の紫光ちなみに上の写真で、硯面上にある左と中央の墨だまりは新しい墨の試作品、右は乾隆時代の汪近聖である。中央の新墨は明瞭に紫光を呈しているが、右側の汪近聖はどちらかといえば青紫に近い色である。これは墨の経年によるものか、あるいは清朝においては、この色を紫光と呼んでいたのか?また晁貫之の生きた北宋時代は松烟墨が主流であり、一般的に松烟は油烟よりも粒子が粗い点も考え直す必要があるところである.........ともあれ、墨を鑑賞する際には、その光沢を見ることも必要であることと、光源にも留意していただきたいところである。
落款印01


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